第97話 さりげなさの哲学

 本当にどうでもいいようなことが不意に気になって仕方がなくなる日がある。だいたいがとてもつまらないことだ。テレビに出ていたコメンテーターの髪型が少しだけいびつだったことが気になって1日中、その微妙にずれた感覚を思い出していることもある。別にそれをどうこうするわけではない。テレビ局に電話して「今朝のワイドショーに出ていた航空事故評論家の髪型なんですが……」なんて指摘するわけではない。どうしてあんな髪型になってしまったのか、その歴史に思いを馳せるわけでもない。ただふと気になったことが、そのまま1日中後を引くようなことがあるのだ。人から「何か心配事でも?」なんて聞かれてびっくりすることがよくあるが、大抵はそんなことを考えている。


 今日はそれが左手だ。朝歯磨きをしているとき急に「左手は何をしているんだろう?」と思ったのだ。わたしの場合は右利きなので、歯ブラシも右手で持つ。グーで握りしめたり、鉛筆持ちにしたり、細かく持ち替えながら、広い面は大振りで、かみ合わせ部分は細かく角度を変えながらやや強めに、歯と歯の隙間や歯ぐきとの境界あたりでは小刻みに震わせるようにしながらかき出す具合に、と右手は大活躍している。では左手は? と思ってしまったのだ。その間、左手は何をしているんだろう。


 その時わたしの左手は親指をジーンズの左ポケットに軽くかけておとなしくしていた。右手が細かい調整を繰り返しながら、技巧の限りを尽くしている間、左手はそれを手伝うでなく、見守るでなく、右手に賛辞を送ったり嫉妬したりすることもなく、何の関心もないかのようにただ左のポケットあたりで退屈そうにしている。わたしは左手に気づかれないように様子をうかがう。できるだけ歯磨きに集中しながら左手の様子をうかがう。時折リズムを取るようにふっと動くが、それが右手と同調しているのかどうか定かでない。


 いったんこうして気になり始めると、いろんな瞬間の左手のことが気になってくる。靴紐を履くとき、基本はやはり右手がめまぐるしく動いているが、実にさりげなくふっとひもを曲げたり調整したりしている。決してこれ見よがしなところはなく、やるところをしっかりおさえている。財布をとりだし会計するときも右手がせわしなく動いてお札や小銭を取り出しているときも、全然何もしていないような顔つきで、ふっとサポートしていたりする。それが絶妙な間合いなのだ。


 こいつ、できるな。自分の左手をつかまえて言うことでもないが、わたしは感心した。さらに様子をうかがうと、右手が技巧の限りリンゴの皮むきのナイフさばきを見せびらかしている時も、素知らぬ顔をして左手は力を入れたり抜いたり微妙に角度調整したりしている。そういったさりげない立ち位置からすると、運転中にハンドルとギアの間で動き回るのは意外なくらいの活躍ぶりだが、そんな時でさえ決して主役のような顔つきをしない。まるでそこは舞台裏で裏方の仕事をしているような風情なのだ。


 かっこいいじゃないか。できることならわたしもそんな立ち居振る舞いを身につけたい。あらためてしげしげと左手を見ようとしたとき、不意に左手が言った。

「勘弁してくださいよ」

「勘弁って、何が」

「そう一日じろじろ見られているとやりにくくって仕方がない」

「ああ。気がついていたか。そりゃあ悪かった。ちょっと目が離せなくなってね」

「そんなことにならないようにいつもやってるのに」

「ああ。目立たないようにってのは意図的なんだ」

「意図的って言うか、もう染みついたもんですからね」

「わかったわかった。じゃあもっと気をつけて見守るよ」

「だめだめ。あんたこっそり見るのが下手くそだもん」

「わかった。もっと慎重にする」

「違うんだな」

「え?」

「慎重にしようとしたりしたらもうダメなんだよ」

「ははあ」

「身体で覚えなきゃ。百万回繰り返して何も考えずにできるようにする。それだけだ」

「わかりました」


 そういうわけで、いまわたしは左手的な生き方を体得すべく、何も考えずにこなすことを身につける修行を始めた。左手は滅多に何も言わないが、わたしが「さっきの打ち合わせの相手のシャツとネクタイの取り合わせはなんというか……」などと考え込み始めると、「あんたのその、“本当にどうでもいいようなことが不意に気になって仕方がなくなる”オーラ、すごく目立ってるぜ」なんて指摘されることもある。はい、師匠。修行あるのみだ。


(「左手」ordered by tara-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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