第6話「夢はどこへいった」

 俺には恋ができない、と不意に思う事がある。

 出来ないのではなく、してはならないのだ。

 まあ、例え誰かに恋をしてもどうせ振られるのだろうけれども、それが理由で俺は恋をしてはいけないわけではない。風音に振られたのがトラウマとなっているわけでもない。ただ、俺は恋をしてはならない。誰かを好きになってはならない。そう思う。

 風音は俺を振った。

 振ったが、それは俺に必要な通過儀礼だった。

 俺は風音の事が好きだったと思う。

 だからこそ、振られてよかった。

 当時の俺も薄々感付いてはいたはずだ。過去の時分、風音と恋人になる事を想像してみた時期があったが、どうもしっくりとこなかった。あいつと俺が恋人として付き合う姿を上手く想像できなかった。風音はやはり俺の幼馴染みでしかなく、幼馴染みだから何時か恋人になるなんて現象はほぼ確実にないのだと、俺も心の何処かで分かっていたからかもしれない。現実は物語のようにはいかない。幼馴染みは単なる幼馴染みでしかなく、もしも恋人になったとしても上手く行かないのは当然の事だ。

 だからこそ、俺は風音に振られてよかったのだと思う。

 ならば、何故俺は恋をしてはならないのか?

 分かり切った事だ。……それは俺が心底最低な男だからに相違ないからだ。

 ……と、そんな事は今はどうでもよかった。

 現在、俺は姉貴に屋上に呼び出されている。

 過去の出来事より、今は姉貴の用件を聞くのが先決だろう。

「どうしたんだい、姉貴? 何か用?」

「ちょっと困った事になったんよ。ま、これ読んでみて」

 唐突に姉貴が何かを投げて寄越す。

 慌てて俺はそれを受け取った。まったく、宣言してから投げて欲しいもんだ。

「何、これ?」

 呟きながら手にとって見てみる。どうやら手紙のようだ。綺麗な便箋だった。

「読んでみて、てっちゃん」

「まあ、分かったよ。一応読んでみる」

 俺は便箋の中の手紙を取り出そうとしてみる。

 既に開封済みだったようで、便箋に貼られているハート型のシールはすぐに剥がれた。

 手紙を手に取って、それなりに丁寧な手紙の文字に視線を流す。

『明日の放課後、校門前でお待ちしています』と長い恋文の末尾にはそう記されていた。古い口説き文句だ。こんな手紙を書く人間は絶滅したかと思っていたのだが、残念ながらまだ絶滅危惧種並みには存在しているらしかった。

「ラブレター?」

「そうなんよ。それより差出人名を読んでみ」

「『柏木雅也』……? 何処かで聞いた名前だな……」

「うちの学校の生徒会長よ、あたしのクラスメイトでもあるんだけど」

「なるほどな。それで、その手紙を姉貴が貰ったわけかい?」

 俺が訝しく呟くと、途端、姉貴が非常に厭そうな顔をした。

「あたし宛て……? 要らないわよ、こんな変な手紙。例えそれが天下のモテモテ生徒会長様でもね」

「じゃあ、誰宛てなんだ? ……俺宛て?」

 困った様な表情で、姉貴が疲れた笑みをこぼした。

「真美よ、真美」

「真美? やるな、真美。うちの生徒会長を誑かすとはって言うか……」

「だよねぇ? うちの生徒会長さぁ」

「ロリコンかよ!」

「ロリコンだぜ!」

 俺と姉貴の声が綺麗に重なった。どうやら姉貴が俺に合わせてくれたらしい。……意外と乙な姉貴じゃないか。嬉しくなるね。

 だが今はそれよりも、うちの生徒会長の柏木の方が問題だった。

 柏木雅也。

 うちの学校の生徒会長で、成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能の男らしい。まあ、所詮はうちの学校の生徒会長でしかないのだが、それでもうちの学校の中では最上級のいい男だろう。誰もが彼の事を会長としか呼んでいないから、彼の名前を聞いただけでは俺の中に彼の顔がすぐには出て来なかったが、会長という名で彼の事を思い出すのであれば、俺だけでなく誰もが彼の様々な偉業を思い出すことができるはずた。

 例えば会長はバレンタインにはそれこそ机から溢れるほどのチョコレートを貰っているし、告白された回数なども数え切れないほどだそうだ。古い言い方をすれば、まさしく学園のアイドル的存在だ。漫画とかを読んでいてアイドル的存在の男が出て来ると、そんな男居ないだろう、とか思ってしまう事も過去の俺にはあったが、意外な事に居るところには居るらしい。

 だが、そのアイドル的存在の会長にも一つ大きな謎があった。

 それは彼に恋人の存在が全く見受けられないという事である。あれだけ告白されているくせに、彼は誰とも付き合っていないのである。まるで女に興味がないのだとしか思えないほどに。無論、そのおかげで会長には同性愛者疑惑が広まり、一部の女性達には余計に受けてしまったという現実もあったのだが。

 しかし、このラブレターの存在により、俺は一つの確信を得ていた。会長がこれまで彼女を作らなかったのは、作れなかったのは、それは何も彼が同性愛者だったからではなくロリコンだったからなのだと。

 いくら何でも真美に手を出すのは、俺もどうかと思う。戸籍上こそ十四歳ではあるのだが、真美の外見はどう贔屓目に見ても小学生にしか見えないし、それどころかあの子は外見だけでなく、中身も小学生のような有様だ。

 その真美を口説こうとするとはナイスロリコンと呼ばざるを得まい。

「そういえば」

 不意に思い出して、俺は姉貴に訊ねた。

「あによ?」

「どうして姉貴が真美のラブレターを持ってるんだ? 没収したの?」

「てっちゃん、あたしの事を何だと思ってるんだ。あたしってそんな事する人間だって思われてるの? 酷いぜ、てっちゃん。……そういうわけじゃなくてさ、これはね、真美から相談されたからあたしが持ってるのよ」

「真美が……、姉貴に?」

 つい目を剥いて、驚きの声を漏らしてしまう。

 姉貴は不満そうだった。

「何でそんなに驚くんよ」

 誰だって驚くだろう。姉貴に相談したら余計に話がややこしくなりそうで仕方がない。普段の姉貴の姿を知っている者であれば、誰だってそう思うはずだ。しかし、その事をよく知っているはずの妹の真美がその姉貴に相談するとは。

 それを口にすると、姉貴が頬を膨らませた。意外と可愛らしい顔になった。

「あたしはいいお姉ちゃんなのよ、さとみと違ってね」

「そうなのか? 嘘吐いてないか、姉貴?」

「棘がある義弟ねぇ」

「色々と姉貴に酷い目に遭わされているんでね。それで姉貴はどうするんだ?」

「どうするってあによ?」

「真美に相談されたんだろ? 何か真美に助言したのか?」

 すると姉貴が大きな嘆息を吐いた。

 分かってないな、と言わんばかりの恨めしい上目遣いで俺を見上げた。

「何の為にてっちゃんを呼んだと思ってんの?」

「お、俺……?」

「真美はロリコンと付き合う気なんてさらさらないの。それが生徒会長だろうが、モテモテだろうがね。真美の男の趣味は悪くないんよ。それにね、あの子はまだ恋をする年頃でもないんだぜ? まだまだ子供だからねぇ、あの子は」

「意外と真美の事、知ってるんだな……」

「これでもお姉ちゃんだからさ。お母さんはあんまり役に立たないし」

 母さんは……、まあ、真美より幼い人だからな。

 真美がこの事を母さんに相談したら、

「いいじゃない。羨ましいなぁ……。お母さんも若い子と付き合いたいなぁ……」

 とか本気で言いそうだ。俺の新しい母さんはそういう母さんなのだ。

「だからこそ、てっちゃんの出番ってわけなんよ」

「俺か」

「今日さ、真美からの拒絶の言葉を会長に伝えといてくれん?」

「どうして俺が……」

「お兄ちゃんでしょ。根性見せんのよ」

「何だよ……。姉貴でいいじゃないか……」

 俺がぶつくさ言うと、姉貴は口端を厭らしく歪めた。

「あたしは会長と同じクラスなんよ? 明日から居心地が悪くなっちゃじゃないのよ」

「それはそうなんだけど……」

「きちんと処理できたら、お礼にてっちゃんにキスしてあげるぜ!」

 唇を尖らせた姉貴が、自分の口元を指差す。

 俺は肩を竦めてから言い返してやった。

「キスはいらないよ。……はいはい、分かりましたよ。行けばいいんだろ。拒否しても絶対に引き下がりそうにないからな、姉貴は。まあいいさ、可愛い妹のためだしさ。たまにはあの子の手助けもしてやらないとな」

「流石だぜ。それでこそ『お兄ちゃん』」

「何だ、それは」

 俺が呟くと、姉貴は目元を優しく緩めた。

 姉の顔……、その姉貴の表情は、年下の兄弟を気遣う姉の顔に見えた。

 姉貴はこう見えて、実はかなり妹想いの姉なのかもしれない。

 瞬間、姉貴が俺の肩に手を乗せた。

「何を……」

 するつもりなんだ、と言う前に俺の唇に姉貴の唇が触れていた。

 一瞬だけの、姉貴からのキス……。

 姉貴はすぐに唇を離すと、何故か艶っぽい表情を浮かべた。

「前払いだよ」

 と姉貴は俺の耳元で囁いた。

「今しておかないと忘れちゃうかもしれないかんね。前払いにキスをあげておいた」

「いらないって……、言っただろ……?」

 口ごもり、掠れた声を出す俺の様子を見て、姉貴は更に柔らかく微笑んだ。

「あによ? もしかしてファーストキス?」

 違うよ、とだけ俺は返した。

 少しだけ、俺の心臓が煩く鼓動している。

 動揺ではなく、過去の痛みから来る鼓動だったが、俺はそれに気付かない振りをした。

 とにかくそうして、俺は妹の為に面識のない男に断りの言葉を伝えなければならなくなった。その行為がこれから様々な紛糾を起こしてしまうきっかけとなるかもしれないが、姉貴に無理矢理キスをされた以上、俺は姉貴からの任務を果たさねばなるまい。

 ……かなり不本意ではあるが。

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