第3話「君に吹く風」

 登校中においても、俺の気が休まる事はない。結局、朝食を取り終えると、何時の間にか姉貴が合流してきて、普段通り四人で登校する事になってしまった。

 春が過ぎ、五月雨が目立つ様になる季節、何故か俺は俺を中心に姉妹三人に囲まれながら登校している。彼女達と家族になる以前は高校まで自転車で通っていたのだが、現在は姉妹達の圧倒的不支持により徒歩で登校する事が義務付けられてしまったのだ。

 俺が徒歩でなくてはならない理由はただ一つ。

 俺を中心として楽しそうな家族像を作り上げるためだそうだ。

 いいだろう。その図式は俺も望んでいる。仲睦まじい家族。素晴らしい光景だ。

 しかし、だ。兄相手に腕を組み、学校まで共に登校するというのは如何なものだろう。長年付き添った恋人同士でも、恐らくはしない行為だと思うのだが。

 それはいいとしよう。もしかしたら俺の認識が間違っているのかもしれない。ひょっとしてひょっとすると普通の兄と妹はこうして登校するものなのかもしれない。とか考えながら、俺も本気でそうとは信じていないんだけれども。まあ、どちらにしろ、暑くなる時期に腕を組んでくるのだけは、どうにも勘弁して欲しいというものなのだが。

 俺は無駄だろうとは思いつつ、右腕にしがみ付いているさとみに尋ねてみた。

「なあ、さとみ……」

「どうしたんですか、兄さん?」

 さとみは眼鏡の奥から上目遣いに俺を見上げた。その仕種が何処となく可愛らしく見えたのは、俺の暑さからの勘違いだという事にしておこう。

 俺は自分の勘違いを振り払うように頭を振ってから続けた。

「蒸し暑い時期に腕組むのって、相当辛くないか?」

「辛いです……」

「俺も辛い。よって、俺から離れてくれないかと思ったりする次第なのですが」

「いいえ。暑さなんて兄さんへの愛に較べれば、大した問題ではないですよ」

「そうなのか……」

 嘆息のように呟きつつ、俺は次に左腕にしがみついている真美に視線を移してみた。

 俺の目に映った真美は非常に楽しそうにしている。この子だけは純粋に兄に甘えたいだけに見えるから、この子が俺の腕に腕を絡めてくるのを我慢するとしよう。さとみの方はどうにか説得して、今度こそ離れて歩いてもらう事にしたいが。

 だが、この子達二人はともかくとしても、どうにかして欲しいのが俺の後方から感じる途轍もない悪意だった。姉妹三人と歩いていると、何時もどうにも耐え難い悪意を感じてしまうのである。純粋過ぎるまでの悪意が俺を襲う。

 勿論、振り向いて確かめるまでもない。

 悪意の発生源は当然の事ながら姉貴だった。

 顔は見えないが、恐らくは非常に歪んだ性根の悪い笑顔を浮かべている事だろう。更に言えば、どうすれば男を使った面白い遊びが出来るのかを考えているはずだ。その対象が俺でなければ歓迎なのだが、姉弟になって以来、どうしてだか姉貴は専ら俺を玩具として扱うのだった。

 本当に小悪魔のような姉貴。いや、まさしく悪魔のような姉貴である。

 俺は出来るだけ姉貴の悪意には気付かないように振舞って、どうにか登校を早く終えようと早足で歩いた。学校までの距離は確かに長い事は長いのだが、最近の俺にはその学校までの距離が万里の長城を踏破するよりも長い道程に思えてしまう。

 不意に。

 俺が出来る限りの早足で歩いていると、後ろから頭を叩かれた。

 姉貴ではない。姉貴は俺よりもう少し離れた場所で歩いている。

 だが、誰がやったのかは分かっていた。

 俺の頭を思い切り叩くような奴なんて、そう多くは存在しない。

 そう。俺と長い付き合いのあいつ。

 姉妹達よりも長い付き合いの女。

「おはよ、テツ」

 そう言ってから、妙に甲高い声をした女が、普段のニヤケ面で俺の前に現れた。

 まったく……、こいつは昔から何も変わってないな……。

 わざとらしく、本気でわざとらしく俺は奴に向けて大きな溜息を吐いてやった。

「何よ、朝から元気ないなぁ」

 それでも奴はそれに気付かない振りをして、笑顔を更に満面の物に変化させる。

 これも、まあ、分かっていた事だ。

 こいつは俺の気持ちなど関係なく、何時も楽しそうに俺に接する。

 たまにそれが鬱陶しくなる事もあるが、本気で鬱陶しいだけの人間ならば俺もこいつを無視して他人として生きるだろう。だけど、多分、鬱陶しい以外の何かがこいつにはあるから、俺はこいつと長く付き合っているのかもしれない。

 勿論、そんな事を言えるはずも無いけれども。

 俺は微苦笑して、妹達に絡まれている手でどうにか頬を掻いてから言った。

「おまえが元気過ぎるだけだよ、馬鹿」

「馬鹿とは何よ。本当に可愛くない幼馴染みねぇ。そんなんじゃ彼女出来ないわよ?」

「今は、まあ、いいさ。新しい家族に慣れるだけで、それはそれで気力を使うからな」

「言い訳にしか聞こえないぞ?」

「そうかい」

 二人して下らない憎まれ口を叩き合う。小学生の喧嘩だな、と自分でも分かるほど低レベルに過ぎる口喧嘩だ。それどころか最近の小学生はこれよりは遥かに辛辣な口喧嘩をしているかもしれない。最近の小学生は様々な意味で進んでいるし。

 だけど、これがこいつと俺との関係だ。

 大昔に知り合ってから続けているこの関係は、今更変えようもないのだ。

 ちなみに俺とは腐れ縁のこいつこそが、何を隠そう俺の幼馴染みである木村風音だ。

 風音とはもう十年以上もの付き合いになる。家は隣同士で学校も一緒。まさしく漫画などでよくある幼馴染みの姿だろう(朝、起こしに来たりはしてくれないが。と言うか、そんな幼馴染みはいない)。外見は意外と良く、下級生などからは壮大な人気を誇るらしい。髪は短めで、運動もできる。勉強が苦手なのはご愛嬌だ。

 実は恥ずかしい話になってしまうが、この俺、山口哲雄にも若い時期があった。近くに居る女子であれば、誰でも好きになってしまう若い時期があった。しかもその時期、色々と悩んでいたせいでもあったが、俺は風音に告白した事もあるのだ。

 漫画やドラマの中では、幼馴染は恋人になるものだと決まっていた。

 その頃の俺は本気でそれを信じていたのだ。

 幼馴染は恋人になるものだと思っていたのだ、俺は。

 だから、俺は風音に告白したのである。

 今考えると、何をしていたんだろうって気分にさせられてしまうが……。

 しかし、風音は普段は子供っぽいくせに内面は妙に大人びた奴で、俺のそんな感情を見抜いていたらしい。思春期で悶々としている俺には全く視線を向けずに、簡単に振ってくれた。これには流石に俺も落ち込んだ。いくら何でも思春期の中学生には哀しすぎる結末だった。それから長い間自暴自棄になってしまった。

 だけど、風音に罪はない。

 勝手に暴走して、勝手に失恋した俺が悪いだけだった。

 人は人の事を好きになる。

 自分の事を好いてくれる人がいて、その人がどんなに頑張っても、自分自身が好きな人には敵わないってそれだけの事だ。女に振られたからといって、女を恨んではならない。悪いのは自分だ。勝手に人のことを好いて、勝手に失恋する自分が悪いだけだ。

 その意味で俺は風音に感謝している。感謝こそすれ、恨む事はない。

 まあ、そうは言っても、下らない憎まれ口を叩き合う仲は変わらない。

 それはそれ、ご愛嬌という事で許してもらいたい。

「風音さん、おはようございます」

 真美が微笑みながら愛想良く風音に頭を下げる。

 本当によくできた子だ。俺への密着率を下げてくれれば、なおいいのだが。

「うん、おはよう」

 風音も微笑んで真美の頭を撫でた。俺に義理の姉妹が出来た当初こそ驚いていた風音だが、数ヶ月経た今では普通に俺の姉妹達の事を受け容れている。順応性の高い奴なのだ。こいつのそういうところには少しだけ尊敬したくなる。

「おはよう、木村さん」

 さとみも真美と同じく爽やかに微笑んで言ったが、姉貴は何も言わなかった。それどころか風音が現れた瞬間から、俺達からかなり離れた場所を歩いていた。現在の俺達は道の中央で騒いでいるのだが、姉貴だけは道端の木陰を選んで目立たないようにしているようだった。

 何故だか分からないが、姉貴と風音は相性が悪いらしい。

 一見すると似た者同士にしか見えない二人だが、似た者同士だからこそ相性が良くないのかもしれなかった。会えば話はするが、進んで仲良くなろうとは思わない。二人はそういった関係のようだった。

 二人にも仲良くして欲しいと思うのは、やはり俺の勝手というものだろう。人間は相性の悪い人間とは絶対に分かり合えないものなのだ。無理して分かり合う必要もないし、無理したってどうなるものでもない。要するに人間は分かり合える事もあるが、分かり合えない事も多いってそれだけの事だった。その二人がたまたま風音と姉貴だっただけだ。

「それじゃ、早く学校に行こうよ、テツ。早く行かないと遅刻しちゃうからさ」

「そうだな」

 俺が頷くと、妹達も頷いた。

 姉貴は遠くで嘆息しているようだったが、小さく頷いてはいるようだった。

「行こうか」

 俺が号令のように言い、皆で学校に足を進めた。まあ、俺たちの登校は、たまに違う事もあるが、大体こんな感じだ。はしゃぐほど楽しいわけではないが、嘆息したいほどつまらないわけでもない、極普通の登校だという事である。

 ふと。

 俺は何処かから発せられる殺意のような感情に気付いた。

 これもいつもの事だった。

 俺が女を弄んでいる男にでも見えるのだろうか。

 俺達を取り巻くようにしている周囲の生徒達からの、俺への視線はいつも痛々しい。

 嫉妬、羨望、殺意。

 温かい感情は一つもない。少しは優しくして欲しいものだ。

 確かに周囲から見ると、俺は四股をかけている最低な男に見えるかもしれない。

 しかし、それは間違いです。俺はただ遊ばれているだけなので、安心してください。

 貴方もこれを体験すれば分かります。

 誰に言うでもなく俺はそう呟き、ゆっくりと肩を落とした。

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