二十四話 異常事態
「きゃあああっ、おとうさんっ」
夏梛が悲鳴を上げていた。目の前で、篤紫が空中に投げ出されたかと思うと、一瞬で後方に消えていった。
桃華は口に両手を当てたまま、目を見開いて絶句した。
翼竜に掴まれた馬車は、もの凄い早さで運ばれている。風魔法を併用しているのか、羽ばたく翼竜の動きは想像以上に滑らかだった。
ただ馬車には魔法の影響がないため、攫われてから一時間以上、上空の凍える暴風に晒され続けていた。篤紫が耐えられず飛ばされていったのも、仕方ない事だった。むしろ、長い間良く耐えていたと思う。
「くそっ、私のせいだ。篤紫さん一人を置いて、中に入っていたから……」
シズカとユリネに羽交い締めにされていたタカヒロが、開かない扉の前で崩れ落ちた。扉の外には、翼竜の爪が二枚ある扉の両方をがっちりと固定している。
翼竜の両足で捕まれた馬車は、窓と後方の扉も塞いでいて、翼竜が解放しない限り、外に出る事すらできない状態だ。
「おかあさんっ、おとうさんが。おとうさんが――」
「夏梛っ」「夏梛さんっ」
顔中を涙で濡らしながら、窓にすがりついていた夏梛が、力なくその場に崩れ落ちた。側にいたカレラとリメンシャーレが、慌てて夏梛を抱きとめた。
桃華は、未だに動けないでいた。
翼竜に馬車が掴まれたとき、とっさにダンジョンマスター権限で扉をロックした。そして、篤紫が御者台に取り残されている事に、ロックしてから気がついた。
そもそも扉は、全部内側に開く。何もしなかったら、翼竜の爪が中まで侵入してくる恐れがあった。
「あ、篤紫さんっ……」
桃華もまた、その場にへたり込んだ。
何かあれば、馬車の中に逃げ込め。
出発前に篤紫に、くどいほど言い聞かせられていた。
この馬車は妖精コマイナが造ったダンジョンだから、破壊不可能オブジェクトとして、絶対の安全が確保されている。だから、何かあったら中に。
まさか、本当に中に閉じこもることになるとは、夢にも思わなかった。
「いったいこの翼竜は、私たちをどこに運んでいるのでしょうか」
桃華は、タカヒロと二人でじっと、窓の外を睨んでいた。
猛烈に吹き付ける風は、さっきから全く変わっていない。遙か下に見えるのは、大海原だけだった。この高さからだと、島影を確認する事も難しい。
窓から見える翼竜は、想像を絶する大きさだった。頭だけでも自分たちが乗っている馬車の倍ほどはありそうだ。
「南に飛んでいたけれど、途中から南東に向きを変えたみたいね。
この辺はたぶん、海以外は何もないわ」
マップアプリで確認した現在地は、地球で言うところの太平洋のど真ん中だった。今はもの凄い速度で、南東に向かって飛び続けている。
「翼竜が何を考えているのか、全く理解に苦しみますね」
「さすがに、私たちを餌にするだけなら、洋上に出る意味が無いわ。そうは言っても、わざわざ私たちを攫った目的なんて分からないのだけれど……」
『様子はあまり変わっていないようだな』
商館ダンジョンの中から、オルフェナが扉を開けて馬車の客室に入ってきた。オルフェナには、夏梛の様子を見に行って貰っていた。
『夏梛は泣き疲れて寝たぞ。今は、カレラとリメンシャーレが一緒に付いておる。夏梛は、いい友を得たのだな』
「ありがとう、オルフ。
翼竜の動きが全く読めないわ。このまま飛んでいくと、進んでいる先は南極よ。あの地に何かあるのかしら?」
『あそこには、もう何もないだろう。南極点の穴も既にふさがっているはずだ。それ以外は、さすがの我にもわからぬよ。
しかしすごいな、奴は時速三百キロをずっと維持しておるのか』
「それは、どのくらいの速さなのですか?」
速度の概念がないのか、タカヒロが振り返ってオルフェナに訊ねた。オルフェナは少し考えた後、そのまん丸な瞳で篤紫を見上げた。
『そうだな、タカヒロにわかりやすい例ならば、我が車の状態で荒れた路面を走っていた速度が、だいたい時速三十キロくらいだ。三十キロ先の目的地まで、一時間で到達することができる。
時速三百キロになると、同じ三十キロ先の目的地に六分ほどで着く。その位の違いが出るな』
「それは……ものすごい差ですね。想像を絶する速度でいまいち理解が追いつきません」
窓の外で風が唸りを上げているも、直接肌で感じていないので、タカヒロにはピンと来ないようだった。
「……篤紫さん、大丈夫かしら……」
『桃華よ、心配なら篤紫に電話をかけてみたらどうだ?』
景色も状況も、一切変わる様子がなかった。何もできないことに、焦りが生じる。
いつもならこんな時、篤紫が適切な指示を出してくれていた。
「でも今、篤紫さんが忙しかったら――」
言いかけて、桃華は言葉を止めた。
心配だけしていても何も変わらないわね。確かに、安否を確認するには、電話を掛けるのが一番ね。
もし篤紫さんが電話に出られなかったとしても、着信の履歴だけは残るわ。
「そうね。とりあえず電話を掛けてみるわ」
オルフェナが頷くのを確認して、腰元のスマートフォンを手に持った。途端に、謀ったかのように着信音が鳴り始めた。篤紫だ。
通話アイコンをタッチして、耳にスマートフォンを当てた。
『あー、もしもし?』
篤紫の声が聞こえた瞬間に、それは起こった。
オルフェナが弾けるように飛び上がると、恐ろしいほどの早さで商館ダンジョンに駆けていった。耳に当てた電話口から伝わる、遙かに大きな存在感に、桃華の身体に震えが走った。
とっさに、桃華は時間魔法で時間を遅くした。扉をゆっくりとくぐるオルフェナを見ながら、時間を完全に止めた。
タカヒロが、床に頭を付けて完全にひざまずいていた。横から覗く顔が真っ青になっている。
それを一瞥だけして、スマートフォンを持ったまま、オルフェナが向かった商館ダンジョンに駆けだした。いったい何が起きているのか分からないけれど、異常事態であることは間違いなさそうだった。
入ってすぐのリビングで、今まさに崩れ落ちるようにひざまずこうとしている、シズカとユリネの姿が目に入る。
お茶の準備をしていたのだろう、テーブルの上にはクッキーなどのお菓子が並べられていて、お皿を配っている途中のようだった。
シズカの手から落ちただろう皿が、床で割れて散乱していた。
台座で寝ている妖精コマイナに至っては、目を白目にして、口から泡を吹いている状態だった。
リビングを抜けて、廊下を走る。
夏梛の部屋の扉が開いていたので、慎重に部屋に入った。
『桃華か、恐ろしいものだな。篤紫が神気を発しておる』
オルフェナが震えながら、時間停止空間の中で、部屋にいる三人の様子を見ているところだった。部屋も酷い有様だった。
夏梛を観るために、椅子に座っていただろうカレラとリメンシャーレは、床に転がり落ちたような体勢で目を白目にして、口から泡を吹いていた。腰の辺りが濡れている。
時間を戻したら、面倒を見てあげないといけない。
ただ、夏梛には影響がなかったのか、穏やかな顔で寝ているようだった。
桃華はしゃがみ込んで、オルフェナの顔を覗き込んだ。
「ねえ、これはどうなっているのかしら?」
『全く分からぬ。
ただ、電話の向こう側にいる篤紫が、神気を発していて、それがこっちに伝播してきた事だけは確かだな。
状況に関しては、時間を元の流れに戻してから、直接篤紫に聞くしかないのだろうが――』
「わかったわ。一旦、馬車に戻りましょう」
桃華はオルフェナを抱き上げると、夏梛の部屋を後にした。
再びタカヒロの側まで戻ると、桃華はスマートフォンを耳に当てて、時間の流れを元に戻した。
「篤紫さんっ! 無事なのね。今どこなの?
それよりも今、私と夏梛、あとオルフ以外が全員気絶しちゃったの。どうなってるの?」
床にひざまずいたタカヒロが、荒い息をしている。桃華の耳元からさっきも感じた大きな威圧感が伝わってくる。
『こっちは海のど真ん中かな。島影も見えないから、どっちに行っていいのか分からない状態だよ。
気絶はごめん、俺のせいなんだけど今は電話を切るまでどうしようもないと思う。なぜかこの間、変身魔道具が覚醒したんだよ』
状況は理解した。間違いなく、篤紫さんから強烈な存在感が伝わってくる。
桃華はさっきオルフェナが言っていた言葉を思い出した。
神気。
篤紫が覚醒した魔道具で力を解放させたのだろう。電話口が伝わってくる存在感は、確かに神気と呼ぶにふさわしいくらい、神々しい波動だった。
これは、早く通話を終わらせないと、倒れているみんなが心配ね。
「何となく様子は分かったわ。
こっちからメールを送る分には、たぶん大丈夫なのよね。後で詳しい状況を送るけれど、こっちはみんな無事だから安心して」
それだけ伝えると、桃華は通話を切った。
耳元から感じていた大きな存在感が、徐々に薄れていくのが分かって、桃華は大きく呼気を吐いた。
タカヒロがおぼつかない足で、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
ガクンッ――。
突然衝撃とともに、桃華とタカヒロ、オルフェナが宙を舞った。天井にぶつかりそうになって、慌てて手をついた。
「い、いったい何が起きたのかしら――」
天井に手をついたまま窓の外を見ると、翼竜の首がぐったりと垂れ下がって、風に煽られて激しく揺れていた。
目が白目になっていて、だらしなく下が口から漏れ出ていた。
桃華の背中に悪寒が走った。
馬車が翼竜ごと、急速に落下を始めていた。
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