第78話 信虎の暗躍にて候

「あやつ、生きておったのか?」


 じいさんが少し興奮気味に長姫に問いただしていた。


「ええ、生きてますわ。今はおそらく井ノ口に居るのではなくて」


「おのれ~、あやつがわしの城に居るのか。なんたる事じゃ!」


「そんなに興奮すると倒れるぞ、じいさん。座って落ち着きなよ」


 俺はじいさんの肩を掴むとそう言った。


「う、うむ。すまん」


 じいさんが素直に座ったので俺は長姫に質問した。


「それで、その、武田の爺さんは上洛して幕府をどうするんだ?」


 さっき長姫は信虎が幕府をどうのと言っていたのが気になった。


「あのお爺さん。今の幕府を潰して、武田が足利に成り代わるつもりなのよ」


「下らん」 「まったくだ」


 じいさんと俺の意見が一致した。


「おいおい。藤吉も蝮の旦那も幕府が無くなるんだよ。それを下らんなんて言っていいのかい?」


 小六の意見は今の人達、とりわけ武士階級にとっては大事だ。


 しかし、俺は元現代人だ。


 幕府が有ろうが無かろうがどうでもいい。


 今の生活が劇的に変わる訳ではないと思う?


 まあ、それはおいといて。


「何を言っておる小六。今の幕府を無くす事に何の意味がある。今の幕府が無くなったところで何も変わらん。この戦乱の世が続くだけじゃ? あやつが自分の幕府を作りたいと言っておっても結果は何も変わらん。それどころか、今よりもっと酷い世の中になるやもしれん。幕府を無くすよりも、今は民の生活に安寧をもたらすのが先よ。それか、幕府の再建を手伝うのなら分かるがの?」


「そんな事言って戦を仕掛けていたのは、どこのどなたかしらね?」


「ぐ、それは安定した統治者が居なくなれば、自然と争いが増える。わしはそれを無くすためにじゃな……」


 話が逸れているな?


「まあ、要するに今幕府を無くすために軍を起こしても誰も付いて来ないさ。それどころか。そんな奴の片棒を担がされたらた、い、へ、……」


 え、これってもしかして?


「織田家がその片棒を担ぎかねませんわね?」


「のおおおお━━━━!」


 今度は俺が立ち上がった。


「落ち着かんか。藤吉。まだそうと決まった訳では…… そうなるかのう?」


「ど、道三様。そこは嘘を付いても良いのでは?」


「半兵衛よ。時には正直に言うのも家臣の務めじゃ。勉強になったかの?」


「はい!」


 そこ! 少しはフォローしろよ!


「まあ、蝮の言う事が正しいでしょうね。あのお爺さんではもっと酷い世の中に成りそうですもの」


「藤吉。いつまでも立ってないで座りなよ。それで信虎だっけ? そんなに酷いのかい?」


 俺が大人しく座るとじいさんが信虎の事を語り出した。



『武田 信虎』


 史実では甲斐の国を統一した後に息子の晴信(信玄)と武田家臣達に甲斐を追放させられ、今川に厄介になった男だ。


 その後は悠々自適に暮らしていて京に行って幕臣に成ったとか?


 最後は晴信より長生きして故郷に帰れたのかな?


 あまり覚えてないな。


 要は息子や家臣からダメ出し食らうほど酷い当主だったと言う事だ。


 俺の認識はそんなところだがじいさんは違うのかな?


 じいさんの話は俺の知っている信虎像とあまり変わらなかった。


 いや、それより酷かった。


「甲斐は貧しい国じゃ。毎年のように餓死者が出ると言われておる。そんな国で年がら年中争いが絶えんのじゃ。なぜだと思う?」


 餓死者が毎年出るのに争いが絶えない?


「戦を利用した口減らしじゃ。甲斐では多くの人は養えんのじゃ。しかし、そんな国を憂いたのが信虎よ」


 俺はゴクリと喉を鳴らした。


「信虎は甲斐を統一して国を豊かにする事で民が死ななくても良い国を作るつもりじゃった」


 じゃった、過去形なのか?



 じいさんの話では信虎は戦を無くすために戦をした。


 その為に酷い事も沢山した。


 弱い人達も沢山殺した。


 そこに狂気が生まれた。


「信虎は戦いの中で徐々に心を病んでいったのであろう。わしはあやつの戦いを耳にする度にあやつの心が壊れていくのが分かった」


「なんでじいさんに分かる?」


「わしが、……そうだったからじゃ」


 その時のじいさんの目はとても冷たく感じた。


「信虎は敵対した者を殺した。そして、自分に意見する者も殺した。奴の周りは奴に信奉する者しか残らんようになったのじゃ」


 じいさんも美濃を手にいれる為に似たような事をしていたものな。


「それはおかしいじゃないのさ。それなら大膳とその家臣達はどうやって信虎を追放出来たんだい?」


 小六の質問はもっともだ。


「それはわしには分からん。わしが知っているのはあやつが甲斐の国を統一して、しばらくして国を出たと言うことだけじゃ。その先は治部が知っておろう?」


「ええ、そうですわね」


 そこからは長姫が続けた。


「私が知っているのはあのお爺さんがいつの間にか屋敷に居たということですわ。そして、父が決して近付かないようにと言ってましたの。兄と私は言い付けを守りましたけど、竹千代はそれを破ってましたわね」


 信虎は今川に居て無為に過ごしていた訳では無かったようだ。


 どうやったのか知らないがいつの間にか側女を置くようになり、人の行き来が頻繁に行われていたようだ。


 しかしそれは商人や旅芸人などが多く、たまに武田家臣もやって来たがその者は文を届けた後は直ぐに帰って行ったそうだ。


「武田家と完全に切れていた訳じゃないのか?」


「ふむ、では国を出たのは虚報なのじゃな?」


「そうでしょうね。でないと毎年武田家から大量の金が送られるはずがありませんわ」


 武田家から生活費が送られていたのか。


「そしてわたくしは聞いてしまった。あの男の企みを……」


 それは偶然だったそうだ。


 武田家家臣が帰る時、その部屋の前を長姫付きの侍女が通りがかったのだ。


 その時に侍女が聞いた話が……


「信秀と信長の暗殺!?」


 なんと信長暗殺に信虎が関わっていたのか!


「な、なんじゃと……」


 じいさんは驚き呆然となっていた。



 その話を長姫に話した侍女はその後姿を見せず、数日後に見つけた時には亡くなっていた。


 川で溺死していたそうだが、誰かに殺された事は明白だ。


 侍女の死を怪しんだ長姫は以後信虎の監視を強めたと言う。


「もしかしたら、父の死も関係してるかも知れませんから。いえ、きっとそうですわ」


 義元の死も怪しいところがあったようだ。


 そして長姫は信虎が幕府に並々ならぬ恨みを持っている事を知った。


「どうしてそんな恨みを持っているのか知りませんけど、あれは幕府を潰すつもりなのですわ」


 武田 信虎が今までの筋書を描いたのだろう。



 なぜ甲斐の国を出る必要が有ったのか分からないが、身軽になったことで裏での活動がしやすかったのかもしれない。


 義元を殺し、信秀と信長を殺し、安藤を使って斉藤家を混乱させた。


 じいさんを殺せなかったのはじいさんがそういう事に詳しかったからで、自身の暗殺を恐れて用心していたのだろう。


 義元を殺して今川を混乱させて弱った今川を飲み込む。


 しかしこれは長姫が家督を継いだ事で事なきを得ている。


 信秀、信長を殺して尾張の統一を防ぐ筈が、市姫様と信行が居た事でこれも防がれた。


 最後の斉藤家の混乱は上手く行った訳だ。



 それらが上手く行っていたらと思うとぞっとした。



 武田家が甲斐信濃駿河遠江三河尾張美濃を手に入れたら……


 天下に覇を唱えてもおかしくない!


 それを阻んだ織田家と今川家は信虎に狙われ続けるんじゃないのか?


 しかしそうなると織田家との同盟は信虎の意思じゃないな?


 信虎と晴信では考えが違うのか?


 駄目だ。考えが纏まらない。



「今日はここまでにしましょうか。遅くなる前に帰りますわよ」


 今まで話を聞かされて考え込んでいる俺達をよそに一人冷静な長姫が解散を促した。



 俺が信虎の存在を知った時と同じくして織田家の伊勢攻めが終わった。

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