四章 殺人ゲーム 三幕 3—3


 「その日は半年ぶりに父に会ったんだ。

『いつも、そんなカッコしとるんか? 蘭』

『こうしてると、ナンパされないんだ』

 父は奇抜な風体で自分を守ろうとする息子を、ふびんに思ったようだった。

『京都には帰ってけえへんのんか?』

『帰れば、また、さわがれるでしょ。いいよ。うちを継ぐのは兄さんなんだし』

『おまえを一人にしとくんは、心配なんや』

『一人のほうがいいんだよ。落ちつく』

『おまえが、それでええなら、ええんやけどな。一杯、飲むか?』

『ちょっとならね』

 それで帰りが遅くなった。マンションの前でタクシーをおりた。父と二人でマンションへ入ろうとする僕の前に、女が立ちはだかった。女の手には牛乳ビンみたいなものがにぎりしめられてた。

『誰よッ、その男! あたしのものにならない蘭なんか、こうしてやるッ!』

 声が完全に、イッちゃってたよ。

 手にしたビンのふたをはずして、なかみをこっちにかけようとするんだ。僕の顔に向かってね。

 とっさに僕は、シルクハットを顔の前にかかげた。何かのこげるイヤな匂いがした。見ると、シルクハットが溶けて、大穴があいてた。硫酸だと気づいた瞬間、僕はふるえあがって、動けなくなった。目がくらんだよ。

『蘭、大丈夫か? しっかりしぃ』

 僕がにぎりしめたままのシルクハットを、父が投げすててくれた。ぽつぽつ穴のあいた手袋もぬがせてくれた。おかげで僕は奇跡的に、ケガひとつなかった。かわりに父が手に少しヤケドした。

 とっくに女は逃げだしていた。タクシードライバーが警察に通報したんだ。すぐにパトロール中の巡査がかけつけてきたから。そうでなければ、僕も父も、女に殺されてたかもね。

 女は翌月、捕まった。留置所のなかでも、ずっと叫び続けてたらしい。『蘭を出せ! ほかのやつにとられるぐらいなら、メチャクチャにしてやる!』ってね」


 ダメだぁーッ! 怖すぎる。ホラーだ、それ。もうホラー映画の域。


 蘭さんは続ける。


「あのときは、さすがの僕も、警察官に事情聴取されるあいだ、涙が止まりませんでしたよ。毎日、イヤな夢を見た。夢のなかで決まって僕は、あの女の放った硫酸をまともに浴びてしまうんだ。皮膚がはがれおち、髪がぬけおちていく。今でも、ときどき、あの夢を見る」


 僕はガマンの限界に達して号泣した。

 怖いのもある。

 でも、それ以上に、たった一人で、日々、ストーカーにおびやかされ、夢にうなされる蘭さんを思うと、胸が苦しくなった。


「かわいそう……蘭さん、かわいそう……」


 蘭さんは恍惚の表情で、そんな僕を見つめる。


「僕を心配してくれるの? かーくん」

「だって、そんなの、かわいそうだよ。蘭さん、なんにも悪くないのに……」


 泣きじゃくる僕を、両側から、猛と蘭さんが肩を抱いたり、ティッシュで鼻をかんだりしてくれる。

 もう、ほぼ幼児。


「いいなあ。かーくんはまっすぐ育ったんですね。たのもしいお兄さんが、いつも守ってくれてるからかな」

「うん。それはあるよね」


「僕にも猛さんみたいな兄さんがいたらよかったな。僕のあんちゃん、僕のこと、キライやし。お父さん、お母さん、僕のことばっかり可愛がるから。僕のせいで、お母さん、死んだから。お母さん死んだとき、あんちゃん、『おまえが死んだらよかったんや』って言うた」


「もう、やめてぇ。泣ける話」

 ピイピイ泣いて三十秒くらい経ってから、僕は気づいた。


「猛みたいな……兄ちゃんが?」

「そう。あなたのお兄さん」


 ひいッ。ばれてますよ。


「た、猛——」

「落ちつけ。かーくん。こっちの初歩的なミスだ」

「初歩的ミス?」


 にっこりと、蘭さんが笑う。

「最初に山道で会ったとき、言ってたじゃないですか。『兄ちゃん、霊が出た』って。あの霊は、僕のことでしたよね?」


「ああーッ!」


 そうだった。この人、あのとき、なんにも追及しないから、聞こえてなかったんだと思ってた。

 ちゃっかり聞いてたのか……うぬぅ、あなどれぬ。


「ごめん。兄ちゃん。バカな弟で」

「あんなとこに人が隠れてるなんて、ふつう思わないよ」


「あれはね」と、蘭さんが説明する。

「ストーカー対策ですよ。変な手紙はよく受けとるけど、あの招待状は少し質が違ってた。ネットで調べると、岸天生は正真正銘の一流画家だ。行ってみることにはしたけど、もし、これが新手のストーカーの手口なら……と考えたんです。つまり、大勢を集めるようなこと書いてるけど、ほんとは招待客は僕一人。どっかで僕を見初めたとかいう、じいさんに捕まるかもってね。それで人が通りかかるまで、あそこで待っていたんです。誰も来なければ、あのまま帰ろうと思ってました」


「だから言ったろ。こいつ、とんでもない腹黒陰謀家だって」と、猛。

「腹黒だなんて、ごく基本的な防衛手段をとったまでですよ」


「おれたちが兄弟だってこと黙っといて、ここぞってときに脅してきたろ」

「勝ちたいですからねえ。利用できる手札は利用しなくちゃ」

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