八章 陽炎 4—1
4
時間の凍りついたような静寂が、一同を支配する。
五分か、十分か。あるいは、それ以上?
じっさいには、せいぜい二、三分だったのだろうが、なんだか、とても長い時間だったような気がする。
蘭さんは僕に、もたれて、失神してしまいそうだ。
かわいそうに。
蘭さんにとって、きわめて甚大な精神的苦痛をもたらした事件の大半は、じつは一人の女によるものだった。
初めて交際したガールフレンドを殺され、その責めを世間から負わされ、母を殺され、蘭さん自身の心にも、深い傷を負った。
高校時代の親友の自殺も、根幹に中学のときの事件があったせいとも言える。
女性不信になった蘭さんは、ことさら友人に甘えただろうから。
きわめつけに、硫酸だ。
この事件のせいで、蘭さんは、この三年間、外出できなくなってしまった。
たった二十五やそこらで、孤独の檻にこもり、半分、終わったような人生を送っている。
今も、その事件の話題にふれるだけで、自分の足で立っていられないほど、おびえてる。
本来の蘭さんは、猛に負けないほど強い意志の持ちぬしなのに。
「大丈夫だよ。蘭さん。もう終わったことだからね。ここには僕もいるし、猛もいるし、怖くないよ」
蘭さんは青ざめた顔で、僕にしがみついてくる。
速水くんは、ゆかに座りこんで泣きだした。
信じていた恋人と実像が、あまりにも違いすぎたからだろうか。
それとも、恋人の狂的な行動をとめられなかったからか。
でなければ、恋人の心にあったのは、ずっと、たった一人の男だったという事実をつきつけられたから?
更科優衣が本当に愛していたのは、生涯かけて、九重蘭一人だった。
その異常な愛の強さで、蘭さんの人生をめちゃくちゃに破壊するほどに。
「じゃあ、どういうこと? 更科さんを殺したのは?」
僕は問わずにいられなかった。
猛が答える。
「更科は蘭をおそったあと、自分が嫌われたことを自覚した。
蘭の周辺は警察のパトロールが強化され、近づくことができなかっただろう。
なにしろ、ものが硫酸だからな。インパクトが大きい。
蘭に近づこうとして、更科自身、職質されてる可能性だってある。
更科は蘭に拒絶されたと感じたはずだ。
三村に電話で語った『あの人に捨てられたら生きていけない』の『あの人』は、蘭のことだったんだ。
たぶん、更科の妄想のなかで、蘭は恋人だった。結婚も決まってるように思ってたのかもな。
自分の人生が、つらかったから、この世に二人といないような王子様と結ばれる、幸せな夢を描くことで、心の糧にしてたんだろう。
いつか、現実と、その境界がわからなくなっていったんだ。
更科は暴走し、蘭に拒絶され、絶望して命を絶った。
つまり、更科が自殺した本当の原因は、蘭なんだよ」
蘭さんは、さけぶ。
「そんなの、勝手すぎる!」
「そうさ。勝手すぎる加害者の言いぶんさ。でも、更科のなかでは、それが正常な思考だった。だからこそ、狂気なんだろ」
ここで僕は、あることに気づいた。
「でも、蘭さんは言ってたんじゃなかった? 硫酸女は捕まったって。彼女は拘置所で自殺したって」
そんな事件があれば、もっと世間で、さわがれてたと思うんだけど……。
これにも猛は即答。
「あのとき、変に思ったんだよ。蘭から話、聞いたとき、こいつ、おおげさに話してるのかなって。
たしかに三年前、そんな事件がニュースになってたよ。
だけど、女が捕まったとは、結局、聞かなかった。
蘭が誰から、捕まったと聞いたか知らないが、きっと、その人はウソついたんだ。
あんまり蘭が、おびえてたから、安心させるために」
「安心させるために、拘置所のなかでも、あんな異常な執念、燃やしてたなんて、言うかなあ? よけい怖がらせるじゃん」
「それは……蘭の幻覚だよ。重いPTSDわずらったって言ってたろ。恐怖の記憶がフラッシュバックするなかで、まぼろしを見たんだ。悪夢に、うなされてたって言うから、ごっちゃになったのかもな」
なるほど。一理ある。
「そうかもしれない」と、蘭さんも言う。
「犯人が捕まったと教えてくれたのは、父だった」
「じゃあ、ほんとは、更科さんは捕まってなかった。自宅で自殺したってこと?」
なぜか、今度の問いに、猛は答えてくれなかった。
かわりに、野溝さんをながめる。
「どうなんだ? 秘書さん」
野溝さんは急に声をかけられたせいか、ハッと我に返った。
「……ええ。頭から灯油をかぶって、焼身自殺したのよ。ひどい遺体だった。あれが優衣だなんて、今でも信じられない」
あれ? 猛が、にぎりこぶししてる。考え中か。何を?
そういえば、湯水くんを殺したメイドは、けっきょく誰だったんだろう。
僕がたずねる前に、野溝さんが、つぶやく。
「そう。優衣を殺したのは、あなただったの。九重蘭」
イヤな目つき。
僕は怖くなった。
蘭さんが体力的には自分より劣る女のストーカーに、おびえるわけが、なんとなくわかった。
「なに言ってるんですか。蘭さんは被害者ですよ。悪いのはーー」
言いかけて、僕は、うろたえた。
いったい、どこに隠し持ってたんだろう。野溝さんの手に、ナイフが、にぎりしめられている。
両手をつきだし、蘭さんに向かって、つまり、こっちに突進してくる。
「うわあああああああああーッ!」
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