第72話 重力が反転した
それもそのはず、落下の勢いは途中で急激に遅くなることを、ニコは知っていたのだ。
落下の勢いは水の中にゆっくりと沈んでいくように遅くなり、肌にまとわりつく空気が、重たく密集しているように感じられる。重力の働きが弱まっているというよりも、密集する空気が落下の抵抗をクッションのように防いでいるとでも言うべき感覚に、ムヌーグは思わず総毛だった。
「これは……どこまで続くんだ?」
「不思議な部屋まで続くはずだよ」
ニコとムヌーグが問答をする隣で、エミが目を見開きながら必死に手足をばたつかせている。そのうちに腕がメリヤスの体にぶつかると、人間の少女は羊の亜人に手繰り寄せられて、ひと心地を得る。
「いつの間にか、視界も良好になっていますしねえ」
メリヤスが言う。
上方を見れば、もはや彼らを落とし入れた大穴の姿も見えない。フワフワと落ちていく縦穴はその壁面に昆虫の目のようなこぶ状の照明がいくつも点いており、やや薄暗いと感じる程度の明るさを保っている。
こぶ状の照明は触れると温かく、それがこの縦穴を一定の温度に調節しているようだった。
「突然落下速度が上がったりは、しませんよね?」
「しないと思う。僕達を死なせるような装置はないはずだよ」
「断定じゃあない辺りが怖いんですけどね」
いくら周囲が明るくほの暖かいからと言って、足下の景色が底の見えない穴とあっては安心出来ようはずもなく、いくら高所の上り下りが得意なシーピープという種族であっても、額に一筋の冷や汗が流れてしまう。
緩やかな自動落下は、こぶ状の照明の間隔によって速度の見当がつく。少なくとも、着地が原因で怪我をするようなことはないだろうが、どこまでも降りていくとなると、むしろここから戻ることが出来るのかの方がずっと深刻な問題のようにムヌーグには思われた。
「帰りは多分、エレベータがあるから大丈夫」
「エレベータ?」
「自動で昇り降りする箱みたいなもの」
「……だったらこの落下もエレベータで行えばいいんじゃないか?」
「……本当だ」
言われてみればそうだった、と驚きの表情を見せるニコに、ムヌーグは苦笑いをするしかない。
心配は山積するものの、それもこれも道中が暇なせいであった。緩やかに落下していく中では、こぶ状の照明を数えるか、足下に続く縦穴の終着点を想像するくらいしかやることがない。
人間二人と亜人二人の間に、沈黙による気まずい空気が流れ始めたその時、急に空気のクッションが消えた。
「えっ」
身体にかかる重力が、その後の落下の衝撃の強さを想像させる。メリヤスの額にかいた冷や汗が、下から上へと流れる。
「なッ!?」
重力が、反転した。
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