第31話 ニコは自ら死を選んだ

「難しい話さ」

 煙草を取り出して火をつける。

 薫る煙がニコの鼻をくすぐっていく。

「それで、ニコ。お前はこれからどうするんだ?」

 煙を吐くように、モルーギが問いかけた。

「どうする、って言っても……僕が杖を取り戻すためには、ロ=ロルのもとに戻るしかないよ」

 グラスに入ったほうじ茶の水面を眺めながら、ニコが呟いた。

 その姿が、吹けば飛んで消えてしまいそうな様子だったので、思わずモルーギは首を傾げた。

 ほんの先ほどまでの威勢というか、生の輝きがない。急速に光を失っていく蝋燭の炎のような儚さを感じる。これではまるで、自ら死にに行くようなものだ。

「死にに行く……?」

 思考からもれるように呟きが口から溢れた。

 モルーギにとって、あるいはムヌーグにとって、オーインクによる支配は決して窮屈なものであっても、生死に直結するものではない。狼の亜人はオーインクに暴力で伍することが無いからだ。

 一方、人間がオーインクたちから受ける支配は苛烈を極める。

 亜人は容易に人間を傷つけることができないが、逆に言えば身体的外傷を与えない限りは何をしてもよいということである。オーインクの残虐性は、その出自からいやらく歪曲し、人間を傷つけることなくその命を奪う。

 つまり、マインドコントロールである。

 オーインクは人間へ独自の教育を行い、その世界だけが全てだと人間たちに思わせることによってこの町の人間たちを支配してきた。

 しかし、ニコは違う。

 ニコはこの町ではない、どこかからやってきた人間だ。モルーギにそれが分かるのは、彼の持つ杖というものが何なのかを理解しているからであり、またニコが世界樹という言葉をつぶやいたことからの連想である。

 世界樹という存在を、この町の人間は一人として知らない。その言葉を、マインドコントロールの中で意図的に隠してきたからだ。

 モルーギには、ニコがマインドコントロールによる人間の馴致を受けなかったという観点がすっかり抜け落ちていた。少し考えれば分かることだった。彼は独房のような部屋の中で常に脱走のための体力づくりをしていたのだし、実際に千載一遇の機会を狙ってオーインクの支配から抜け出そうとしたのだ。

 そう。ニコは脱走に成功した、と思ったのだ。

「なるほど、死にに行くのか」

 ニコの今の自由は、初めて得た自由ではない。むしろ、ロ=ロルに捕まって独房で生活をしていた今までこそが牢獄であり、ようやくそこから抜け出せたのだ。この町の人間が馴致させられた生活こそが、彼にとっての普通だったのだ。

 ただ、人間としての普通の生活をニコは取り返したに過ぎない。

 しかしそこで杖を落としてしまった。落とした杖はロ=ロルの手に渡った。ようやく得た当たり前の生活を、ニコは再び、自らの手で壊そうとしている。

 それを、自死と表現せずしてなんと言おう。

「あー……それは、残酷な話だな」

 ニコとムヌーグ。

 どちらの境遇も分かる老翁にとっては、難しいというよりもややこしい話だった。

 ただ、いずれにせよこのままではニコは再びロ=ロルの支配下に置かれるだろうし、ムヌーグは現れぬ人間に夢を馳せながら、いたずらに命を垂れ流すだろう。

「ニコ、俺がお前に策をやろう」

「策?」

 部屋を出て行く前の、ムヌーグの一瞥。

 手を貸すな、ではなく、手を貸せと解釈してやろう。老翁は心の中にほくそ笑んで、ニコに手を貸すことに決めた。

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