キュウビキツネ:終わることなき後日談


「ふふ、やっと起きたわね?」


「…え?」


 長い夢から目を覚ましたら、僕は知らない場所にいた。

 不気味なほどに柔らかい毛布と真っ白な尻尾に包まれて、身動きが取れなかった。


「長く寝ていたわね…疲れてたのかしら?」


「いや…えっ!?」


 毛布を力任せに引き剥がし、一歩二歩三歩と後退る。

 

 驚きで言葉も出ない僕に、彼女は妖艶な笑みを浴びせかける。

 

「驚かないで? 混乱してるのは分かるけど、悪いようにはしないから」


「悪いようにはしないって…そもそも、ここはどこ?」


「あぁ…やっぱり記憶が無いのね。でも大丈夫、必ず思い出させてあげるわ」


「思い、出す…?」


 僕が一体、何を忘れているというのだろう?

 そんな心当たりはない、今まで普通に暮らしてきて、記憶喪失なんて疑ったこともない。


 もしかして彼女は、僕を誰かと勘違いしているのかな。


「僕は何も忘れてなんてないよ…?」


「忘れたことも忘れてるだけ…焦らず、その日まで私と過ごしましょう?」


 彼女の名前はキュウビキツネ。

 真っ白で美しく、そして恐ろしい妖怪。


 絡め取る様な九本の尻尾に捕らえられ、僕と彼女の奇妙な同棲生活が始まった。



 

―――――――――




 その日の夜、僕は真っ白な和服を着せられて、おどろおどろしい部屋へと連れていかれた。

 キュウビキツネも高貴な和風の服に着替え、僕に熱の籠った視線を向けてくる。


「…キュウビさん、何をするんですか?」


「くっ、ふふ…! ああ、何をするかだったわね。とりあえずそこに座りなさいな」


 背を押されるままそこに座ると、彼女は神棚のようなものを開けて中から風呂敷の包みを引っ張り出した。

 結び目を解くと、中から高級そうな木箱が姿を見せる。

 

 見えた限りでは箱には狐のような模様が描かれていて、その絵はキュウビキツネによく似ている。


 とても慎重に仕舞われている箱を見て、好奇心が湧き出てしまう。

 

「気になるのかしら? でも、まだ早いわ」


 脚付きの盆に箱が乗ったが、錠が解かれることはない。


 もどかしさに悶える僕を見て、嬉しそうに彼女は笑っていた。


「今度はそっくり…! 呼び方も、仕草も…ふふ」


 聞こえて芽生えたわずかな疑念。

 しかしその直後、それを容易く上回り、赤子のように捻りつぶすような衝撃が僕を襲った。



「じゃあそろそろ、始めましょう?」


「わっ…えっ!?」


 突如床に組み伏せられる。

 手先のおざなりな抵抗では解けず、なおざりな諦めで彼女の餌となる。


 双丘に押し潰されて、毛の海に飲み込まれて。

 意識を奪わんとばかりの猛攻に整った服も荒れに荒れ果て。


「さあ、契りを結ぶのよ」


「んっ、ぐ…」


 熱に包まれて、胸が激しく鼓動を刻む。

 耳をくすぐる声が脳をドロドロに蕩かしてしまう。


「ぜぇんぶ、私に委ねてしまいなさい?」


 全てが真っ白になって、やがて果てる。


 これもキュウビキツネの策略なのか。

 初日の夜にして、僕は抵抗する精力も何もかもを吸い尽くされてしまった。


「いい子ね…大好きよ」


 かつて国を傾けたとまで言われる妖狐にちっぽけな一人の人間が敵うわけもなく、心を奪われ言いなりになる姿はまるで操り人形。


 そして彼女は、僕を着せ替え人形のように扱った。




―――――――――




「アハハ! その服もよく似合ってるわ」


「これ、何の服ですか?」


「うふふ…そのうち思い出せるはずよ」


 この日着せられた服は何の変哲もない洋服。

 違和感はないが、わざわざ着せる意味があるのか分からない。


 思い出す?

 これも、キュウビキツネの思い出の一着なのだろうか。


「感想はどう?」


「えっ? ええと…まあ、動きやすいですね…」


「…うふふ」


 当たり障りの無さそうな答えを返すと、彼女はクスクスと笑いを零す。

 そして、僕を外へと連れ出した。



「わぁ…綺麗な葉っぱですね」


 全てが色づき赤黄に染まる、色鮮やかな並木道。

 僕の手首をガッシリと掴んで、彼女はゆっくりと歩みを進める。


「きっとあなたは覚えてないけど、私たちはここで男女の仲になったのよ」


「…え?」


 まるで本当にあったことのように。

 事実を記憶から引き出すように彼女は語る。


「始まりはあなたからだったわ。その服を着て、『あなたが好きです』って」


 何度も言う通り、僕にそんな記憶はない。


 ああ、寒気がする。

 

「思い出す程陳腐な言葉だったわ…だけど、その真っ直ぐさに私は惹かれちゃったの。かつて私に言い寄った男たちは皆、純情とは程遠く汚れていたから」


「…そう、なんですか」


「あら、他人事みたいに言うのね? でも仕方ないわ、焦らずに一つ一つ思い出していけばそれでいいの」


 そんなこと、果たして出来るのだろうか。

 例えば、思い出すべき記憶なんてなかったとしても?


「あ…あの、僕は、どうして忘れちゃったんですか?」


「それね…平たく言えば、


「っ…!?」


「ああ…怖がらないで、言葉が足りなかったわね」


 予想外の衝撃に震える僕を、キュウビキツネの暖かな尻尾が包んで守る。

 滲み出てきた冷や汗は、残らず拭き取られてしまった。


「あなたは彼のの存在。あなたの魂が、私と結ばれているのよ」


「ら…来世?」


 じゃあ彼女は、前世の僕を今の僕に重ね合わせて見てるってこと?


 …狂ってる。


 死んだら全部終わりのはずなのに、それすらも越えようとしているの?


「びっくりしたかしら…前世の記憶なんて取り戻すのは難しいでしょうね。でも安心して、私がいつまでもから」

 

「……はい」


 かすれ声で頷くことしかできなかった。


 でもキュウビキツネの言うことは本当だ。

 不運な僕には、ずっと彼女が憑いている。




―――――――――




「これは…何の着物ですか?」


「うふふ…何だと思う?」


 これは今までにないパターン。

 つい言葉に詰まってしまった。


 凍りかけの脳みそで答えを絞り出そうと頑張ってみる。


「えっと…結構派手だから…結婚衣装?」


「……!」


 分かりやすくキュウビキツネの顔が輝いた。

 

「そうね、もう一か月だもの、少しずつ記憶が戻ってくる頃に違いないわ…ふふ」


 彼女は大層ご満悦の様子だが、知っての通り思い出したわけではない。

 何となく推測してそれが当たった、というだけのこと。


 だけど言ったら最悪殺されかねない。

 真実は心の闇に葬られた。


「思い出したんでしょうか…実感はありませんけど」


「そうよ…おまじないも効いてきたのね」


 乙女のように浮き立つ彼女は囚われの身にも可憐に見えた。

 前世の僕とやらが惚れたのも無理はないと、頭のどこかで思ってしまう。


 無論、現世の僕が彼女に恋する理由などありはしないが。



「…ところで、結婚式はどんな感じだったんですか?」


「式? そんなもの挙げてないわよ」


「あ、挙げてない…?」


 何とも意外な答えだ。

 彼女なら、結婚が決まるや否や日取りも何もかもを決めて執り行ってしまうものだと勝手に思い込んでいた。


「だって、あなたの美しい晴れ姿をどこの馬の骨とも知らぬ有象無象に見せる訳ないでしょう? あなたは私だけの旦那様なんだから」


「…なるほど」


 理由を聞けばスッキリ納得。


 キュウビキツネは来世の存在である僕までも監禁して手に入れようとするほど独占欲が強い。

 ならばそれも道理か。

 

 しかし僕自身が見られていないような気がして、どことなくもどかしい。



「キュウビさん…あなたが僕を好きなのは、前世の僕が好きだったからですか?」


「勿論、それ以外にないでしょう?」


「僕のことは、見てくれないんですか?」


「…おかしなことを言うのね。あなたはあの人の来世の存在、それだけが重要なことなのよ」


「そう…ですか」


 いいや、分かりきっていたことだ。


 僕がキュウビキツネに何を期待することがあるのだろう。


 そんなに愛されたかったのか?


 彼女に求めてしまうほど、愛に飢えているのか?


 …違う。


 この箱庭には彼女しかいないから、せめて彼女にだけでもを見てほしかっただけだ。


 こうなったら僕はもう鏡を見ているしかない。

 この日、僕は決意した。


 いつか必ず、キュウビキツネに別れを告げると。




―――――――――




 雲一つない満月の夜。

 僕はかつてと同じように、汚れ一つない純白の着物を着せられていた。


 この家に捕らえられてから四か月。

 長い、長い、監禁だった。


「とうとう、あなたにその服の意味を教えるときが来たわね」


「この服の…意味?」


「そう。その服は、前世のあなたが最期に来ていた服」


 つまり、死に装束。


「これが…最期の服」


 そう呼ぶには、いささか簡素な服だった。

 いくら綺麗に洗われた和服と言えど、庶民が少し背伸びをすれば着られるような服。


 最期を彩るには物足りない気もするが、それが文化なのかもしれない。

 もしくは、これもキュウビキツネの偏執の賜物だろう。



「そして…この箱を開けるときも来たわ」


 狐の模様が描かれた木箱。

 

 多分彼女は、最初の夜を意識しているんだと思う。

 最期の衣装を僕に着せて。


「さあ、開けるわよ」


「……はい」


 丁寧に、鍵を開ける。


「ちゃんと見てね、ちゃあんと、全部思い出してね」


「ッ!?」


 驚愕した。


 

 この箱の中に有るものは、ゴロンと転がる二つの目玉。


 あまりの光景に、歪んだ愛に、体が痺れる心地がする。


 涙が乾いた眼に落ちて、さながらそれは砂漠と雨。


 彼女は僕の魂の欠片を、逃すことなく閉じ込めていた。


 思わず目を閉じた、口も塞いだ。目の前にある現実に。


 大事に大事に守られ続けた、家族よりずっと大切な慕情に。


 敷かれた白薔薇の手巾も、黄色くなるほど長い時。

 

 心も体も逃がさぬ執念に、改めて僕は恐怖した。



 やっぱり、ここにはいられない。



「キュウビさん…!」


「うふふ…なぁに?」


 ここで、しっかり決別しよう。

 僕のいるべき場所はここじゃないから。


「やっぱり僕には、あなたの愛が理解できません」


「…っ!」


『分からないよ、君の言う愛は』



「い、言わないで…」


「僕では、あなたの愛を受け止めきれません」


『僕が間違っていた。九尾の狐の愛を、一介の人間が受け止めきれるわけもなかったんです』



「それ以上は…もう…!」


「僕は、僕として生きたいから――」


『これ以上は、僕が僕でなくなってしまうから――』


「やめて……!」




『だから…さよなら」


『あ…あぁ……いやああああッ!』








「…………」


 何も言わず、何も見ず、踵を返す。

 彼女は止めない、何も言わない。

 

 僕はただ、ここを出ていくだけ。

 

 これで、自由を――


「違う」


「……ぇ?」


 体が動かない。

 自由になったのに、解放されたのに。

 自由が、手に届かない。


「やっぱり違った、あなたは彼じゃない。彼は他にいるんだわ…」


「え、何を…」


「喋らないで、偽物」


 胸に刺さった刀が、ぐりぐりと引っ掻き回される。


「早く死んで、その服を返してッ!」

 

「あ、あぁ…僕は…!」


 手を伸ばす。


 掴み取るはずだった、何にも縛られない空に。

 当たり前のように持っていたはずの、果てしない空に。


 月が照らす空は、真っ赤だ。




―――――――――




「――トウヤさんは、生まれ変わりって信じますか?」


「え、どうしたんですか、いきなり…?」


「ふと、昔の知り合いを思い出してしまったんです」


「はあ、なるほど…僕は、生まれ変わってもオイナリサマと一緒が良いですね」


「うふふ、私もですよ」


「…! ところで、そのお知り合いの人? …まあ、その方と『生まれ変わり』ってどんな関係が?」


「それは…いえ、やめておきます。もう全て


「あはは、そうですか」


「ただ、不憫ですね」


「え、誰がですか?」


「彼女に巻き込まれるです。もしかしたら、そろそろ二桁に乗るかもしれませんね」


「それは…かわいそうですね」


「でも、私たちには関係ない話でしょう?」


「…ええ、そうですね」




「あ、綺麗な葉っぱですよ!」


「すごい…! 折角だから、取ってみませんか?」


「いいですね。…まあ、こっちの葉っぱも――」



 一瞬、どこかの茂みが揺れた。

 真っ白な何かがそこを通った気がした。


 でも、私たちには関係ない。


 ここには、どんな雲でも曇らせられない光があるから。


 ここに、何物にも代えられない愛が詰まっているから。


 

 後日談を語るのは、ここで終わりにしよう。

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おきつね監禁短編集 RONME @Ronme

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