1-㉘

 ねえ、純一。

 夢で彼女がそう呼んでくれている。その声は幻みたいだ。ずっと……。


「純一ってば!」

 ハッとして目が覚めてしまう。晴れ渡る青空を遮って、一人の少女はむっとした顔で覗き込んでいる。

 ああ、屋上で昼寝してたな、と純一は漸く思い出した。上半身を起こして、背を伸ばした。

「なんで薫はここにいるんだ?」

 と問いかけたが理由はもう心で察していた。

「純一が教室にいなかったから探してたの。やっぱり屋上が好きなんだね」

「人いないし気持ち良いからな」

「人気者のくせに」と彼女は頬を膨らませる。

「拗ねるなよ。それに遊んでばっかでいられなくなっただろ、今の時期は」


 純一は空を見上げた。何故か虚しい気持ちになった。

「もう三年生だもんね……」と薫。ねえ、と言って彼の注意を引きつける。

「純一ってさ、高校どこ行くの?」

「……知ってて、どうするんだよ」

「私も行きたいから」

「ばか。行きたいとこ行けよ」

「私の行きたいとこは純一の行きたいとこ」


 また、そんなことを言う。ずきずきと頭が痛む。今日こそ、きっぱり言ってあげよう、と純一は決意した。

「あのな、薫……、もうやめないか」

「やめる? 何を?」

 きょとんとした彼女を見て心は動揺した。ダメだ。優柔不断のままでは誰のためにもならない。

「俺だけと関わるのやめよう」

「……なんで?」


 本気だ。彼女は自分に少しばかりの異常さを持っていることを気付いてない。それは既に構って欲しい、なんていう領域を越えている。

「……志望校は、薫に教えない」

 ならば強制的に切り離すのみ。彼女がこうなったのは、自分に責任がある。


「……なんで?」

 彼女はもう一度問うた。だが、雰囲気はがらりと一変した。

「薫……?」

「分からない。なんで教えてくれないの? 私と離れたいの?」

 顔が暗くなった薫。――可笑しい、そんな彼女見たことがない。

 薫は身体を前へ乗り出して純一の肩を掴む。

「ねえ、答えて……?」


 彼女の目は可憐な少女のような潤んだ目ではなく、――死んだ目、と呼ぶのが適切だろう。

「ま、待て、薫……」

 彼女が掴んでいる――というより握っている肩の関節はギリギリと悲鳴を上げている。

「違う……、離れたいわけじゃない!」

 離れたいわけじゃない、その言葉を聞く瞬間で彼女はぱっと明るくなって彼を離した。

「そう……! そうよねっ」

 切り替えるのが速い、と純一は彼女が二重人格ではないかと疑うようになった日である。




 ――ここに記述しているのは、あくまで開口薫の主観的なものだ。

 ノートのページをめくりながら真琴は思った。

 はあ、彼女は溜め息を吐きノートを机に放り出して眉間を押さえる。

「この子……、どうなってしまってるのよ……」


 再度ノートを手にして、ふわふわとした感じを与える表紙を開けると、一見少女の綺麗な字だが真琴にとっては呪文のように羅列している。

 ――今日も純一の家に誘われた。嬉しい。勉強のためにとか言ったけど、期待していいかな。

 ――今日は転んでしまって擦れ傷だけなのに、純一は絆創膏を貼ってくれて優しい。嬉しい。




 彼のことしか語っていないが乙女らしい。彼女が小学五年頃の日記だ。だが、数ページをめくり中学一年になると、彼女が書いた内容は激しく変わった。言葉で表すと、“狂気”さえ感じた。

 何が彼女を変えてしまったのか。


 ――入学式。家も近いから当たり前だけど、久しぶりに純一と一緒に学校に行く気がする。春休みは長くないはずなのに。

 ――変なの。クラスは違うけど一緒に昼ご飯食べようとしてもできない。近付けることすらできない。周りの人が多すぎてできない。幼馴染は私なのに。

 ――ちょっと純一に文句言ってきた。これならもうちょっと前みたいに一緒にいられるのかな?




 ここまで読むと真琴はゾッと寒気を感じた。この子は、一体どこまでこんな考えになるのだろうか。


 ――今日は純一が一人で留守してるみたいだから、飯を作った。口に合ってるみたいで良かった。明日もそれからもずっと作るよ、なんて結局恥ずかしくて言えなかった。

 ――最近純一の周りに一人の子がいる。いつも純一に会う時に絶対にいるから、気になった。……なんか嫌な感じ。

 ――どうせならサプライズの方がいいから、私はお弁当を作った。喜んでくれるといいんだけどなぁ。

 ――純一にお弁当を渡そうと思ったら既に食べてるようで、結局あの子が作ったものみたい……。嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 ――放課後。一緒に帰ろうと思ったのに、純一はあの子といる。……甘い。嫌な甘さがするから、純一を連れて行った。




 中学生になった彼女には思春期になった少年少女達の感情の刺激が強いのか、ずっと“一人だけ”という彼女の世界とぶつけ合うと、矛盾が生じてしまう。その原因でありカギでもある純一は、上手く立ち回れず、のちの薫の人格に影響を与えた……というのか。


 ――それでもあの子はいる。どうしたら純一から離れてくれるの? 甘い笑い、甘いにおい、やめて!

 ――好き、私にはそう聞こえた。純一の耳は赤くなった。待って違うの! 好きなのは私だよ! 騙されないで!

 ――二人はいつもよりよく一緒にいる。きっと純一は優しいから利用されてるだけ。気付いて! でも私の声、もう届かない……。

 ――今日は学校に行ってない。胸が苦しい。なんで純一は話を聞いてくれないの?

 ――涙が止まらない。……そうだ、きっとあの女のせいだ……、あの女が純一を騙してなければ苦しまない……。




 この後は約一年の内容がない。何かの理由によって彼女は日記を書くのを辞めたようだが、一年後、彼女が中学二年生になった頃から再開した。しかしここからの内容は平和で、相変わらず純一のことばかりだが、“幸せ”に見える。


 ――本当の幸せなのか、偽りの幸せなのか。どちらであろうと彼女がもう壊れてしまったのだろう――。

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