1-⑭

「暗いなー」

 男が彼に投げかける好奇の視線を無視して、かけるは独り言を呟いた。

「どうだ、かける」

「んー、今んとこですね。まあこのことは任せてください」

「真琴は?」

 見坂は振り返りカウンターの後ろから出てくる真琴に言った。

 彼女は頭を振る。「こちらも収穫なしですね……」

「もうちょっとよく見てくれ。細部までだ」


『見坂さん』

 三夏はカウンターの後ろに続く部屋から顔を出して、見坂を呼ぶ。彼女に案内され厨房に着く。当日の開店に向かって洗い終えた調理器具や食材は整え、流し台や調理テーブルは整頓されていて、その清潔さに違和感を抱いてしまうくらいだが、この場所にはこれ以上探れるところはない。

 ――一つを除いては。

 不自然に壁に向いている包丁スタンドを移動すると、違う用途を持つ包丁が並ぶが、スタンドを埋め切れずにいた。




「別に一本がなくても普通だろう」

「これはセットだろう、いや、待て」と見坂は手を上げて言い返そうとする男を制した。「認めなくてもいい。少し調べたらこのなくなった包丁が凶器であるかどうかはすぐ分かる。まあその場合、あんたが容疑かかることになるから、ややこしくなるな」

 男はくっ、と喉を鳴らした。見坂の視線を感じ思考を巡らせる。

「……取られたんだ」

「誰に?」

「こればかりは本当に知らん……」

「いつのことだ?」

 男は首を傾げ口で何かを唸る。

「ええと、いちに……、ああ、そうだ、四日前くらいだ。でも何に使われているのか本当に知らん……」


 見坂は眉を寄せた。それは綾野が死体として発見された日の二日前である。つまりこの場所と繋がりがある綾野被害者を狙った人間が使用した凶器である確率は高いのだ。捜査の進展があるのは喜ばしいことだが、その凶器の行方はまだ不明であり、誰が所持しているのか、その犯人がまだ殺人を企んでいるのか、全く手掛かりが足りないのだ。新たな殺人事件を防ぐ術をまだ持っていないことに、彼を焦らしてしまう。


「た、隊長、これは恐らく……」

 声の方向を見ると真琴はレジの前にいる。見坂が近付けると彼女はテーブルの端を指す。そこには指先よりも小さい範囲で、血痕が付いている。よく見ていなければ見逃してしまうのだろう。

「こちらも……」

 真琴はテーブルの脚にあるマーク――いや、ナイフで刺した痕跡がある。

「幅だけを見れば、被害者の身体にあるのと一緒ですね」


「ふむふむ、つまりここに何かあったわけだ。で、なんだろうな、責任者さん?」

「俺は知らん……、いや、本当だ!」と彼は見坂と真琴に鋭く見つめられ慌てて言う。「準備時間以外は殆ど任せてるんだ」

「じゃあ、全てのシフトを呼んでくれ。あと念の為だが、開口玲子もだ」


*


 見た目で齢二十代の女性は戸惑ったような顔で見坂に勧められた席に腰を掛ける。彼女は見坂と向き合うために顔を上げるが、過ちを犯してしまった少女みたいに、視線を逸らす。

「私の名は見坂京次郎だ。あんたは森下もりした和紗かずさだな?」

「はい……、そうです。あの……」

 彼女は緊張して口を開けるが、見坂は無情に彼女の話を遮る。

「すまないが、こっちの質問タイムだ。そっちの質問はこちらの話が終わったら受け付ける。額の傷、痛そうだな、何があったか?」


 和紗の前髪の下に貼ってある絆創膏は見え隠れして、ハッと彼女は両手で額を隠す。

「何が、あったか?」ともう一度聞く。

「いえ……、特に何でも……」

「うーん、じゃあ推測してみよう。例えば足が滑ってレジのテーブルに当たってしまったとか」

「ま、まあ、そういうところですね……」

 だが目は依然として合わせてくれない。

 見坂は肩を竦める。




「こんにちは……いやこんばんはか、まあいいや。また会いましたね、開口さん」

 かけるは満面の笑顔で反対の椅子に座っている女性――開口玲子に言う。

「私は何故ここに呼ばれたのよ」

「まあ、それは簡単なことです。あなたも責任者さんもの顔も名前も知らないことに疑問を抱いてるからです」

「常連客って一体……、あっ、あの男のこと?」

「どうです、思い出しましたか?」

「いいえ、全然分からないわ」

 かけるは彼女の表情を観察する。どうやら“知らない”というのは嘘ではないようだ……が。


「では、人体研究同好会って知ってます?」

「な、なんなのそんなハレンチな……」

 語尾の“な”と言うと彼女は口を開けたまま凍り付いた。かけるはじっと彼女を見つめて、続きを待つ。


「え、ええ……、確かに一度、お客様の会話で『じんたいけんきゅう』みたいなことを話してた気がするわ。よく聞こえなかったから内容までは分からないけど」

「どんな人でしたか?」

「お面が……、ええ、そうだわ。鬼のお面を被ってたわ。相手も違う鬼のお面で。普通の客と違うから覚えてるの。見た感じでは若者だと思うわ」


*


 帰り道。空は紫色から紺色に染まっていく。


「消えた包丁」

「森下和紗は何かを隠している」

「スタッフで目撃者なし」

「鬼のお面」


 四人は溜め息を吐いた。かけるは手を頭の後ろに組んで言う。

「全く参考にならないことばかりですね。ただ鬼のお面はほぼ違いなく人体なんちゃらの人でしょ。お面被ってたら確かに顔も分からなくなってしまいます。これについておっさん何か言ってませんでした?」

「よく変な団体で現れるってさ。そいつらが人体研究同好会であるかどうかは知らないって」


「そうですか。というか、人体なんちゃら長いですから、いっそじんけんって呼びましょう」

人権じんけんですね、かけるさん』

「笑えないわ、犬井さん」

「じんけんと言うが、まともなことを働いてるやつらじゃなさそうだがな」

 これは見坂の個人の意見である。


 なあなあ、とかけるは三夏を肘でつつく。彼は小声で言う。「明日はちょっと付き合ってくれよ」

 彼が頼ってくることは初めてだろうと、三夏は大きい目を更に大きくして彼を見る。かけるは人差し指を唇に当てて、しーっと言った。


*


 夜の裏路地。ネオンの余った光で辛うじて一人がいることを示すが、その容貌までは判明できずにいた。

「くっ……、なんなんだ……あいつは……!」

 声からしては男のものだ。息が切れて片手を建物のコンクリートに当てて呼吸を整えようとする。

「気が違ってるのか……!」

 ついさっきまでの記憶がまるで嘘だ。いや、嘘だと信じたい。

 鈍い光の下でも刃先の輝きは、記憶から拭えない。

 そして今も、その刃に追われている。

「……どうするんだよ……くそっ……ふざけんな……」


「ふざけてねぇよ」

 もう一人、光を背けて唯一の逃げ道を塞ぐ。

「だってお前は、ここで死ぬんだからなぁ」

「な、なんなんだよてめぇ!」

「俺かぁ? 俺はなぁ……、B町の通り魔様だぁ!」

 一歩、また一歩……、彼は僅かな光をも反射するナイフを上げて、こちらに近付いてくる……。

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