1-⑫

 かけるは鈴花と別れ綾野が借りていたアパートを向かう。徒歩ですぐに目的地に着けるのだが、彼はもちろん部屋に入ることは不法侵入だ。見坂が来るまで周りを見ておこうとかけるは決めた。


 このアパートに至っては普通である。かけるは綾野の部屋である“203室”を眺める。中身を窓の内側にあるカーテンが遮蔽しているが、昼過ぎでも暗く見えてしまうのは、誰もいない――部屋の主がいないということを証明されている。


 問題だ。もし綾野は自分が死んでいることに気付いてなければ、ドアを開けられなかったり、照明のスイッチに触れなかったりすると彼自身は現実を受け入れるか。

 答えは、彼は自動的に壁を抜けられる身体になっているので心配はない。また、霊は自覚していなくても暗い場所が好んでいるのだ。

 つまり、もし彼を見つけ出したとしても、彼には自分が“死んだ際”の記憶を持っていないかもしれない。無理やり思い出させようとしたら凶暴化してフォグになる確率も低くない。

 何せ、これは殺人事件だ。


 だが。これが彼の霊体を探すことを辞める理由にはならない。心が開いてくれるまで少しずつ話し合って、証拠になり得るものを探ることも、かけるの仕事である。分かりやすく言えば、かつて虐待を受けていた犬や猫には、また人間と仲良く接してくれるように、対価の努力を払うみたいなものである。


 仮説。綾野達也は自分の部屋にいる。彼は自分のことを知らないから、慎重に行動を取ろう。

 かけるが考えた作戦はこうだ。ドアベルを押してを装う。念のために言っておくが、生の人間でなくなった彼らでも、ちゃんと“声”と“音”が聞こえ、映像も見れるのだ。もし綾野はいたら応えてくれるだろう。これでなんとか女の名前出して連れて行く。

 よし、簡単だ、行ける。


 見られても不審者だと思われないように平然と階段を上る。

 二階の眺めは大通りの反対のビルまでだ。これも近代から現代の呪いなのだから仕方がない。

 作戦通りにやれば上手く行ける。行くぞ、と気合を入れて、203室の横のボタンを押す。中からピンポーンと聞こえるが、誰かが答える気配も、が出てくる気配もない。かけるはカーテンの隙から覗いてみても、人っ子一人いない。

 ハッとかけるは思い出した。

 この時間帯は、彼がまだ大学にいるかもしれないことを。




 コツンコツンと階段を上る足音がして、男がだんだんと姿を見せてくる。

「なんだ、かける。ここにいたのか……、一体何をやっているんだ」

 鞄を側に下ろしてドアの外で蹲っているかけるは顔を上げて男を見る。

「なんだ、ただの見坂さんか」

「何言ってんだお前」

「遅いですよ」


「遅くも何も、お前の要望に応じて犬を捕まえてきたぞ。綾野を探すと言ったのにここで羊を数えてるわけじゃないだろうな」

「違いますよ、綾野の帰りを待ってるんですよ」

 見坂は淡々と非現実的なことを述べたかけるを見、数秒をかけて漸く彼の考えを捉えた。

「やっぱり綾野はいないんですよ。今はこいつを待つよりも、現場に残っている手掛かりを使う方が早いじゃないですか」


「そうだな……そうしようか。ところでその犬がどうしたんだ?」

 かけるは目を丸くなって見坂を見る。

「え、何も分かってないのにあの子を連れてきたんですか? 確定的な証拠とか令状がなければ許可してもらえないのでは?」

「証拠があっても無理だぞ。まあ、身分を示して事件に関与しているって言ったらあちらが勝手に渡してくれたわけだ。まあ、飼い主の許可は一応取ってある」

「嘘ですよね? まあいいです。取り敢えず調べてみましょう」


 見坂と階段を降りると彼の愛車がアパートの前に停まっている。後部座席のドアを開けて、そこにピンク色のキャリーバッグがあった。かけるはやや冷たい目で見坂を見る。

「見坂さん……いくらこれでも……」

「バカ野郎、俺がこんなもん持ってると思うか! これは飼い主のものだ」

 そう、とかけるはそう言うとバッグに手を伸ばす。すると、その中からキャンキャン鳴き声がする。これは、とかけるが言う。

「飼い主の前で検査を行いましょう」

「……ああ、そうだな」


*


「どうした? 早く呼び出せ」

 見坂はかけるを促した。

 ブラウニーのことに気取られてしまい、飼い主のことは頭から吹っ飛ばされた。まさか短い間に再び同じ場所を訪れることになるなんて。かけるの指はインターフォンを押す直前で止まった。

「見坂さん、さっきは冗談です。飼い主の前で検査するのはやめておきましょう。可哀想ですから。どうせ許可取ってありますし、一日に何回も邪魔するのは悪いですし」

「いいんだよ、質問したいならこっちの方が早いだろ?」


「あらぁ」

 ぞっと、かけるは凍り付いた。

 彼女の声はまるで呪文を詠唱しているように――犬の吠え声が混ぜているが。

「明石萌子もえこさん、ちょうどいいタイミングだ。入ってもらってもいいか?」と見坂は手帳を見せる。

「さっきの刑事さんなのねぇ、じゃあこの可愛い子も……」

「違います違います、ちょっとトラブった高校生です!」

「ふぅん、まぁいいわぁ、入ってぇ」


 玄関を潜るとリビングらしき場所にいる。“らしき”と言うのは、その一室の内装が良く言えば独特性があるからだ。天井が高く桃色の壁紙が空間を覆い尽くし、テレビの上方に幅がかけるの身長よりも広い肖像画がある。何よりも害するのは、女性の香水が嗅覚を麻痺させるような強烈さを持っている。

 かけるは吐き気を堪えながらキャリーバッグを机に置く。こんな環境でよく生き延びたなお前ら、と犬達を尊敬する。

「ブラウニーを出しますね。暴れられたらお願いしますよ」とかける。


 自由を再獲得したブラウニーは嬉しそうに飛び出した。

「わっ、ちょっと、捕まえてください!」

 かけるがそう言った途端、見坂はブラウニーを抱き上げる。ほっとしたかけるは萌子を向き直す。

「明石さん――」

 彼女は彼の話を遮る。

「ミス・アキイシよぉ」

「うる……ミス・アキイシさん」

「うるさいって言おうとしたでしょお!」

 かけるは彼女が抗議するのを無視して、話を続ける。

「ブラウニーがいなくなって、二日前帰ってきたと言いましたよね。お風呂に入らせましたか?」


「汚れたので入ってもらったわぁ」

「これじゃ肉眼では見にくくなるな……」

 かけるは鞄からチャック袋を取り出す。

「これ、恐らくブラウニーの毛です。そしてその上に血が付いていると思われます。ブラウニーが怪我してるのかと思いましたが、今見たところ怪我どころか傷一つも付いてません」

「つ、つまり?」

「つまり、これはこの子のではなく、別の犬……いや、人間の血です」

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