1-⑦

「お疲れ様です」

 かけるは車を降り開けた窓を通して運転席の見坂に言った。

「おう。また三夏と荷物を送るから、それまでに部屋を片付いとけよ」

「はいはい、ジーさん出てくるかもしれないですけど、妹の部屋を使ってくれ」

 かけるは頭を抱えた。まさか三夏は自分で言い出して、しかも見坂は本気でこの理屈を通そうと思っている。三夏もまた彼の秘密を知る少数の人間の一人であり、例え彼がカラコンを取ったり、白い少女と話したりしても構わない。問題は、三夏は事あるごとに彼の行動に口出しする。かける自身が不自由と感じてしまうのだ。


 ふと、ある事が頭を過ぎる。そうそう、と彼が言う。彼は笑顔で二人を見る。

「……また何か企んでいるな」と見坂。

「いえ、別に何もー? さあ行ってらっしゃい。今日はまだお仕事が残ってるでしょ?」

 彼が言っているのは三夏がメモしていた、綾野の“女達”のことである。

 にこにこと笑う彼を見ると、和やかな気持ちになるどころか、寒気に襲われる気がした。


 見坂の車がこの場を去るのを見送り、かけるは背後を向ける。


 カサッ、と風もないのに葉が摩擦する音がする。

 誰かが彼が家に帰る瞬間を待っていたようだ。


 自分の存在は秘密にされているとしても、顔を知っている人間の中に、誰も反感を買っていないと断言できるのだろうか。殺意を持つ人間までいるのかもしれない。住所さえ掴んでいれば、残りはチャンスを待つだけだ。


 そう分かっていながらも、かけるの顔に一つの変化もない。

「お前、朝もいただろ? なんの用だ」

 人影は動かない。頑なに見せようとしないのか、躊躇っているのか、動静がない。暗殺者かなとかけるは冗談半分で思った。

「出るまで待ってやるよ」

 どうせ死ぬなら。


 ふふっ、と軽い笑い声がする。その声から敵意が全く感じられない。漸く人影は動いて、姿を見せる。

「かける……、かけるはいつから柔軟さがなくなったのかな?」

 少女は鈴のような声で言う。声は多少変わったが高校生になるまで人と関わっていなかったかけるにとって、記憶を探るのは困難ではなかった。いや、その名は覚えずにいられなかった。……幼い頃の記憶。

 少女はかけるの目を真っ直ぐに見、すぐに逸らした。

「目は……カラコン使ってるんだね」


「お前は……みや、か」

「昔みたいに未音みねって呼んで欲しいなぁ……なんて」

 囁くように言うと、未音は顔を上げてかけると目が合う。朝と比べると寂しさが満ちた彼の瞳を見、心が刺される。ぐっと唾を飲み込み、涙をこらえる。


「なんの用だ」と、かけるは氷の如く冷たく、もう一度問うた。

 未音は口を開けるが、声が喉に詰めている。唇が震えて、辛うじて自分のものだと思えないほどの声が聞こえる。

「用がなければ会えないの?」

 聞き返され、かけるは眉根を寄せた。

「お前の母さんに知られたら怒られるだけじゃ済まないだろ」

「……うん、ここに来てることは母さんに言ってない」

「そうか」


 会話が終わってしまう。

「……かけるに会いたかった」

 ふと自分の言葉の意味に気付いて、未音の顔は瞬間真っ赤になる。しかし、それは偽りのない本音であることだ。だがこのままだと、彼の顔も直視できなくなるので、慌てて誤魔化す言葉を探す。


「ず、ずっと同じ学校でこ、高校から違うんだからちょっと心配してただけ……」

「え、そうだっけ?」

 かけるにとっては小学校から話していない相手でありながら、同じ中学校だと告白されて驚きを隠せずにいた。

 うん、と未音は静かに頷いた。二人の間に沈黙が流れる。


「……もう十年だよ」

 十年? 彼女と会わなくなったのは小学入学式だったとして、八年しか経っていないはずだ。かけるは疑問を抱いた。

 彼女は拳を握り彼に歩み寄って、利き手を伸ばして彼の左手を取るとその掌にある物を置き、そのまま自分の両手でその物と彼の手を握る。

「来週の金曜日、これを持って公園と小道で繋がっている水色の花畑に来て……?」


 もう一度彼女は彼の目を見つめる。かけるは掌を見ると、光沢を失った鉄のような表面は、鈍色をする鍵だった。未音を見つめ返すと、彼女の目に見え隠れする涙が輝いているが宿っている光は揺るぎがない。

 未音は彼から離れてぽつりと言う。「それじゃあね。……待ってるから」


*


 幽霊って空気を吸うのか、と今までに思ったこともないことを、かけるは気になってしまった。

 何故と聞かれれば、白い少女は頬を膨らませて、土色になりつつある布団を敷いたベッドの上に居座っている。彼女に三夏がこの部屋を使用すると言ったらずっとこの調子である。


「別にいいだろ、引き籠りのお前にもお友達できるぞ。まあ俺も反対してるけどね」

「じゃ、あ、な、ん、で」

「見坂さんがそう言ったから?」

「う、そ、つ、き」

 むっとして少女は睨んでくるが、かけるは言い返さずにいた。


「こ、こ、は、わ、た、し、の、へ、や、な、の」

「え、そうだっけ? 俺いつお前にこの部屋をあげたっけ」

「か、け、る、の、へ、や、で、も、な、い」

「誰もいないから俺のもんだよ」


 自分で言ったら虚しくなるものだ。当たり前なのにを持っていることに改めて考えてみると、なんとも言えない感覚が胸に貯まるように気持ちが悪くなる。少女を無視して布団とシーツを腕にかけて、部屋を出ようとする。


 おっと、と彼は部屋の出口で止まった。少女は首を傾げて立ち上がる。

 何かが彼を止めたのだ。彼の背中がその“何か”を遮ってしまっているので、少女は彼の隣に駆け寄る。すると、彼の前に立ち尽くした一人の男の子がいる――身体が透き通る子供だ。


 この家に彼女以外の“あの世”の住人がいるのは珍しい。余程の事情がなければ、あちらから“人間”と絡みたくはないはずだ。だから人気のある住宅やモールなどは滅多に見かけない。

 昨日のフォグに続け、連続で霊がこの家に訪れるのはイレギュラーだ。


 少女はかけるを覗き見すると、彼はかえって安堵したように表情が緩んだ。

「お前か」とかけるは霊に聞く。「街で俺を見てたのはお前か」

 霊は頷いた。

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