残夏(3)

 大学生の夏休みは遅い。高校生だった頃の感覚を拭いきれていない後藤は、七月の半ばからそわそわとして、それから実際に夏休みが始まるまでの一か月間は目も当てられないような状態だった。講義に出席していながらも心ここにあらずで、友人たちにも『ゾンビ学生』とからかわれたほどだが、それも今日で終わりだ。

 今期最後の講義を終え、弁当を手に、早めに墓地を訪れた後藤は、亡き級友の墓に手を合わせてから、見慣れた和服姿を探した。

 いつものベンチに男の姿はなかった。後藤はがっかりしたが、しばらく待っていれば来るかもしれないと、ベンチに座って待っていることにした。

 男がようやくそこに現れたのは、後藤が昼食にと持ってきた弁当を食べ終えてから、三十分ほど待ったころだった。後藤がベンチの端に寄ってやると、男は軽く目礼をしてからベンチに腰かけた。立っているときにはぴんと伸びていた彼の背中が、座ったとたんに丸くなる。


「普段は早くからいらっしゃいますけど、今日はゆっくりなんですね。ちょっと意外です」


「途中で息を切らしてしまって。そちらさんこそ、えらい早いこと」


「明日から夏休みなので、普通は二コマあるところが午前の一コマだけだったんです。そういえば、俺が大学生だって話しましたっけ。まあいいか。大学生なんです。最近ペンキ塗りかえてた、入り口がかまぼこみたいな病院の近くの大学分かりますか、あそこに通ってるんです。で、学校終わってどうせ暇だし、表の入り口に入るとこの道から大通りに出て十分くらいの所に弁当屋があるじゃないですか、あそこで弁当買って、ここで昼飯にしてたんです」


 後藤は弁当の空箱を振ってみせた。本当は、もっと早く男に会えることを期待していたのだが――彼の本音は、あえて口に出さずとも、男には伝わっていたようだった。


「待たせてしまってすまんなあ。私に聞かせたいことが、たくさんあったのやろ」


 男の言葉で自身を省みた後藤は、恥ずかしさに顔を赤くした。男を待っている間あれこれ話そうと思いを巡らせていたために、彼を前にしてやたらと饒舌になってしまっていた自身に気付かされたのだ。


「すいません、しゃべりすぎました」


「かまわんかまわん。人の話というのは、それだけで面白いもんなのや」


「さっきみたいな、どうでもいい話でもですか?」


「どうでもいい話なんてものはないのやで。誰かがひとことひとこと、時間を惜しまず口にしているというだけで」


 そうは言っても、他人の無駄なおしゃべりまで全て拾っていたら、疲れ切ってしまう――後藤はそう思ったが、口には出さなかった。

 自身の周囲にあるものをありのままに受け入れ、尊んでいるからこそ、この男はこんなにも静かでいられるのだろう。街の喧騒も、解(ほぐ)してみればあらゆる音であり、誰かにとって大切な言葉であったはずなのだが、今の後藤には、その事実を素直に受け止めることができないのだった。


「なに、心配するようなことじゃあない。それが若さというものや。――ところで、向こうの弁当屋ということは、日替わり弁当を?」


「えっ、ああ、はい。中華スープがついてて鯖が入ってる、金曜のやつです。結構量があって美味いのに安いんで、よく通ってるんですよ。水曜のから揚げ弁がおすすめです。野菜炒めも、実は曜日によって味付けがちょっとずつ違うんですって。俺には全然分からないけど。食べたことあります?」


 思わぬ切り口に、後藤は一瞬戸惑った。この辺りではいっとう知られた弁当屋だから、この男も、あそこに通っていた身なのかもしれない。訊ねてみれば、やはりそうであるらしかった。


「少し前の話だけれども、木曜の鮭弁ばっかり食べとったなあ」


「木曜って、鮭だったんですか。今の木曜はカツ弁なんですよ。平日もあと一日、頑張れ! っていう意図らしいです。知ってる限りではずっと鮭は月曜だったんで、変わったのは俺がまだ中学生の頃かな。味は変わってないと思いますけど」


 これを聞いた男が、懐かしむように目を細める。ちょうど夏休みという機会を与えられていた後藤は、来週の墓参りを月曜にしようと決めた。

 ふつりと会話が途切れたが、それもごく自然な流れだった。後藤も、男との間の沈黙が心地好いものだと気が付いてからは、無理に言葉を続けようとはしなくなっていた。

 彼は日の光をこぼす枝葉を仰ぎ、再び、男の方に目をくれる。男は、ぼうっと墓の方を見つめていた。後藤と言葉を交わす間にも、彼の心は、変わらず死者の方に向けられていたのだろう。後藤は、男の視線の先を見定めようとしつつ、彼に問いかけた。


「ご家族ですか?」


「いや、歳の離れた友人や」


 男は一言そう答えたが、それ以上あれこれと話すつもりはなさそうだった。

 この前もそうだったのだが、この男は、自ら多くを語ろうとはしない。かといって、真っ向から人を拒絶することもない。彼自身が望まない問いでない限りは、投げかければ答えてくれる。

 後藤は、彼が口をつぐんでしまうボーダーラインを探るように、続けてこう訊ねた。


「どんな方だったんですか。もちろん、無理にとは言いませんけど……」


 男の方は、しばらく黙り込んでいた。だがそれは、答えたくない問いだったというわけではなく、どう話してやるべきかと考えていたためだったらしい。過ぎし日に思いを馳せるように宙を見つめた彼は、つぶやくような調子で語りはじめた。


「――他(ひと)とはちょっと違うもんが見えとる少年やった。気は強くなかったけれども、恐ろしいくらい芯の通った子でなあ。ただ、それを周りに強いようとはせんかった。他には、何を考えているか分からないと思われていたかもしらん」


 男の言葉に、後藤が眉をひそめる。


「“少年”? その方、若くして亡くなったんですか?」


「残念ながら。当時、彼は十五……いや、早生まれであるから、十四やな。まだ十四やった」


 五年前に早生まれで十四といえば、ちょうど、後藤と同期に当たる。墓の方を向いていた男は、後藤の顔色が変わったことに気づかぬまま、言葉を継いだ。


「物静かに見えて、身の内に激しいものを秘めていてな。自分の中でこうと決めたら、それをやり通すだけの強さを持っとった。かといって、頑固というわけではないのやで。自分の意思で周りを傷つけるのでなく、周りを尊重しすぎるあまりに自分を裏切ってしまうような子やった」


「どうして死んでしまったんですか。病気か何かで? それとも――」


 ――自殺? 後藤は、口にしかけた言葉をあわてて飲みこんだ。しかし、後藤の喉に引っかかった憶測が、男には見えていた。男は、そうだとかそうでないとか答えるかわりにこう言った。


「彼の気持ちは、彼にしか分からん。だから私は、今もこうして、彼の心を問いにくるのや」

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