76……還るべき、場所へ

「もうすぐ、この業火の世界をマアトさまは破壊します。時間はないけれど、失敗すれば、帰れなくなりますぅ。……それでも? 今なら無事に帰れるのに」


 イザークがいつになく口調を強くする。大きな天秤が空中に浮いている。不思議。


「俺は確かに、マアト神に赦された。もう一つ天秤に量らせたい罪がある」

「わたし、記憶が……あの、天秤ってなに」

「記憶の剥離だ。戻ったら説明する。ティティ――ちょっと待ってろ。ちょっくら罪人海へ行って来る」


 ユラユラと揺れる悪諱の束が、ティティとイザークを狙っていた。


(うう、怖い。でも、わたしはもう王女じゃない。手車くらい押せないと!)


「わたしも、手伝うわ!」

「だから、王女に頼んでいいか、迷うだろ! ……これ、前も言ったな」

「荷物載せすぎの駱駝に逃げられた手車! ――思い出した……」


 イザークは破顔して振り向くと、強くティティの腕を掴んだ。


「よし、一緒に頼む。俺の弟をこの中から探し出して、助けてやりたい」


 火影がひとつ、揺らめいた。イザークの声に呼応している。そうだ、名前はクフ。


 ――テネヴェでイザークがいなくなった。憎しみ合いの日々がなかったら……。


「イザーク。諱を呼んであげて! きっと届くわ! この世界で嘘は駄目」


 イザークは頷くと、炎の海に飛び込んだ。ちりちりと熱で頬が焦げ始める。


「スウト、還ろう! もう逃げない。置いて行かない。父を殺したは、おまえが殺されるが嫌だったからだ。俺は兄として、おまえを大切にしたかった。一番に伝えていなかったな――」


 すいっと霊魂が炎に潜り込んだ。「往生際の悪い!」とイザークは唇を噛みしめ、手を突っ込もうとした。


 ――あんた、焼け焦げたいの? 見てられないわね。


 優しいアルトトーンの声。「ネフトさま!」炎の中、透けたネフトが見えた。ネフトは諱を剥がされた小さな霊魂

アク

を掬うと、ゆっくりと姿を現した。


「ネフトさま! ネフトさまだ……! ずっと、見ていてくれたの!」


 ネフトは頷くと、業火の世界を眺めた。


〝貴女たちが、ここからの世界を創るんだよ。ねえ、ティティインカ〟


「兄さん……」悪諱に呑み込まれ、炎の蒼海に溺れるようにして、クフの容の炎が灼熱の中でゆっくりと揺らめいたが、また炎に戻ろうとする。(絶望だ)ティティは眼を瞑った。絶望はティティも良く知っている。でも、絶望の裏には、希望もある。クフに教えてやりたい……! ティティは乾く喉に唾を流し込んだ。


「――……あげる!」


 さらさらと必死で流れる記憶を止めた。


「もう一回、わたしが世界に産んであげる! あんたは嫌だって言うだろうけど、でも、もう一度やり直せるように、わたしがあなたを世界に産む。どう? いいでしょ?」


 クフの焔は初めて眼を見開き、涙を溢れさせ、笑顔になったように見えた。


 炎がクフの身長まで舞い上がった。マアトの業火の世界の崩壊の音。イザークが炎を掻き分けた。


「ちょっと、待て! 何か言ってから消えろ!」


 ――ありがとう。待ってて。また絶対、逢いに行く。あの世界、嫌いじゃなかった。お人好しだよ。ティティ。


 火影が揺れて、《声》が遠ざかった。サアラ神も、ネフティス神も、もうすぐ世界のひとつになる。


「結局、消えたじゃねえか! もう知らん! やっぱり悪魔の」


「違う」項垂れたイザークの前に、ティティはしゃがみ込んで、いつかのように頬に触れた。


「救ったんだよ。だって、あのクフが泣き笑顔になったのだもの。わたしには見えたの。最期、笑ってた。クフ、笑ってたよ……」

「笑って……あいついつも笑ってんだろ」

「信じて。――クフ、泣いて笑ってたよ。ありがとうって。世界、嫌いじゃないって」

「……そっか」


 イザークは男泣きの顔を上げた。


「ね?」とティティが手を握りしめた刹那。天空から、光が……。


「太陽と月が還って行く……。光いっぱいの世界に戻ろうとしているんだ」


 二人で手を繋ぎ、二つの天体がゆっくりと元の世界に向かう光景を見届けた。


 胸は歓喜でいっぱいだ。光の中、マアトに裁かれた諱たちが、再び現世へ戻ろうと、天の河を築いていた。悪諱も、諱も、みな、生きたいと足掻いただけ。


 ティティは壁画を思い出した。数億年前は太陽と月があった。ティティとイザークのように、遠い時代。どこかの恋人たちが頑張って、神から逃れて、愛を伝えようとしたのかも知れない。


 ――どんな世界でも、愛する人となら楽しいじゃない? ティティインカ――


 ネフトの最後のメッセージを、悪の諱たちも訊いていてくれるといい。


 大切な人の名を呼んで、一片の過去を揺らしながら生きて行こう。


 過去は振り返らない。何故なら、これは始まり。振り返る過去はないのだから。かくして業火は飛び散り、後には光だけが残った。現世へ戻る謚の橋を、一歩ずつ歩いてゆく。神さまはもういないから、自らの足で、一歩ずつだ。


〝還るべき、場所へゆこう。ティティインカ、イザーク。最後の私の力。汝のイザークへの愛が最大限になった時、汝にのみ聞こえる諱を託す。神はそうそう交渉には答えぬ。優しいものではない――〟


 耀の中、マアトの声が聞こえている。



 ――汝らの、これから始まる本当の世界。楽しみにしていよう――……。

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