74……愛する女を霊魂(アク)に堕として

無の空間に石像のような巨大な天秤がぼうっと現れた。幾度も心臓を載せたと見える受け皿は赤く錆び付いている。大きな真鍮の天秤は、微動だにしない。


「なんだ、ここは」

「裁きの間だ。時間が止まった外にある。見よ。――天秤だ」


 ふわり、と大きな羽が天秤の左の受け皿に乗せられた。


「汝の罪と愛を測る。数億年ぶりにね。だが、奇跡はない。マアティ、心臓を」


「はーい、真っ黒心臓載せまぁす」マアティたちがイザークの心臓をそろりと載せた。


「幾度も裁いた。恋人たちが絶望した瞬間を汝も迎える。見慣れた光景だ」


 天秤はゆっくりと動き出す。(そん、な……)イザークは眼の前の下がった翅を見詰めた。翅の乗った天秤は明らかに傾いていた。マアト神が首を振った。


「――愛は測られた。汝らの愛、歴史に不要。ここまで神に抗ったは見事。所詮悪魔の罪は消えないとの理だった。古代の世界はここで、終わろう。徹底的な裁きを」


 イザークに絶望が押し寄せた。ティティの声が脳裏に響く。


〝神さまが、私たちの愛を否定するの。だから、そっち、行けない……〟


(赦される日は、来ない。愛する女を霊魂にまで堕として、尚……ここまでかよ)


 絶望した自分に苛立ちを感じた。腸がぐつぐつ沸騰しまくっている。こんなの、俺じゃない。神に逆らう悪魔の血は、こんなに弱いもんじゃないはずだ。


 ――神に刃向かう悪魔の運命。それが俺だと言うならば、徹底的に抗ってやる。


「愛してる、ティティインカ」


 ぴく、と瓶の中のティティの形の霊魂が動いた。


 ――悪魔の血を引いた故郷なんざ、ご免だ。しかし、神から愛を奪うに、これほどの武器があるものか!


「真実の愛はこの手で奪う! ティティの全てを愛してるんだ、俺は――っ!」


 抜かれた心臓の部分が熱い。イザークは充血した眼で、己の黒い心臓を睨んだ。すべてを受け止めた時を思い出す。ティティの全てを受け止めた瞬間。ティティに受け止めさせた時の背徳の心臓の鼓動はもっと、重く。貴重な何かを吹き込まれたはずだ。罪の分だけ、イザークの心臓は重いはずだ。


(もう、逃げねぇ。俺は、俺から逃げねえ! 罪の重さを噛み締めて生きてやる! その重さ、引き受けた!)


「心配、すんな……。原罪? しっかり背負って生きてやる。ティティ……」


 隣に在ったはずの手はもうない。眼に、透けた小さな亡霊が映った。


(もう、ティティは生きていない。霊魂になってしまった……)


「全部覚えてる。大丈夫だ。俺が、全部、覚えてるから……戻ろうぜ……あの、ハピ河の俺たちの家で今度こそ、夫婦になる。幸せな時間をたくさん作って――」


 カタカタカタ。天秤が小刻みに震え始めた。マアティたちの声がする。


「もう、往生際が悪いですぅ」


 マアトは無言で天秤を睨んでいた。墨の入った目尻をぴくりとも動かさず。まるで天秤を見守っているかのように。軋み音が響いた。天秤が再び動き始めている。



(神に勝てるとは思わない。でも、この想いは嘘じゃない。真実だ。なんだ、真実

はここにある。心臓を抉られても、消えやしない。理を探す必要もないじゃないか――)



 ――ずっと一緒だ、ティティ――……これで、ずっと、死んでも一緒だ。やっと言える。俺と、ティティは永遠に一緒だと。


(そうだ、一緒に還ろう。互いの名を呼び合って、大切に一日を生きよう。二人で)


 愛してる。俺も、ちゃんと言うから。――まだ、遅くないと信じているから。


「有り得ぬ……」マアト神が呟きで、イザークは顔を上げた。


「天秤カースが、釣り合った……聖なる天秤カースが……世界の理を測る、理の天秤カースが……裁きは不要だ……」


 息を飲んだマアト神の前で、天秤は揺れていたが、やがて靜かに止まった。天秤は神と、イザークの心臓を水平と判断した。マアト神の爪先が、イザークに向いた。


「よく見るがいいよ。――決して我と釣り合うなど合ってはならない。だが、我が天秤に間違いはない。おまえたちの愛情、想いはこのマアトの裁きと同じだと証明したんだ。罪の重さだ。罪に耐える汝の心の重さを天秤は量り、見抜いた」


 マアトの声は、今までになく優しかった。


「汝はもう罪人アザエルではないよ。汝を業火へブチ込み、世界を一度終わらせるつもりだった。破壊の労力行使は面倒だ。……奇跡をありがとう」


 イザークは呆然としていたが、眼の前で奇跡を讃えるマアティたちの歓喜に正気を取り戻した。


「マアティ、瓶を」


 マアトはティティの入った瓶を受け取り、差し出した。


「諱を奪われた霊魂は、自身の心も、姿も覚えてはいない。諱の剥離が長ければ、記憶はさらさらと消える。ティティインカ。よい諱を貰ったものだ」


 マアト神は片手を翳し、瓶詰めにされたティティの霊魂を解放した。ティティの形の霊魂はふよふよ飛んで、イザークの掌に辿り着き、座ってぼんやりと揺れている。驚き、滂沱の涙の瞳の中で、マアト神が再び天秤を振り仰いだ。


「太陽と月を押しのけ、悪の染みついた世界を正すが使命だ。マアト神は真実の神。真実に逆らうは赦されない。あとは、太陽神と夜の神が世界を照らす。私は次の世界を裁きに行く。イザーク、汝は罪の重さを愛に変えた。呪いも解ける」


 イザークはティティの霊魂を大切に両手に包み込み、マアト神の前で頭を下げた。 振り仰いだ天秤は一縷も動かない。だが、イザークがまた、背を向ければ、なんなく傾くだろう。


 ティティへの愛情は罪を堪えることで、一生をかけて、証明して見せる。



 もう、逃げない。マアトが足を止めた。マアトの瞳を間近で見た。イザークは迷いのない口調で告げた。あと一つ。天秤に量らせたい罪がある。

「全てに絶望し、悪に堕ちた弟クフを、この手で救いたい――」

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