69......ただ愛おしさを目指して

「ここにいたか。ティティインカ」振り返ると、サアラだった。ティティは真紅のスカラベをさっと隠した。テネヴェで、オベリスクの呪を吸い込んだスカラベだ。


 ――ラムセスが、もしも真実を隠すようなら、これを使う。


(そう、わたしは無知な小娘じゃないの。ラムセス。真実

マアート

を見抜く度胸をつけた)


 ティティは僅か、眼を閉じた。テネヴェでの生活は、いつ思い出しても色鮮やか。初めて抱かれた夜。愛する夫との死をも超えて、再会――……涙を指で押しとどめた。


「行きましょう。サアラさま」


 入り江を見詰めながら、ティティは呟いた。


「私たちは有限の命と無限の心を与えられて、しっかりと生きてる。その短い生で、神に近づくなんておこがましいでしょう」


 ティティは心から、息をゆっくり吐いた。


「でもね、あたし、人間で良かった。そう思っているの」


 サアラは国境に足を踏み入れた。剣を構え、役人に躙り寄った。役人は朦朧としながら、門の閂を抜く。サアラは指先で役人を操りながら、ふと聞いた。


「人間で良かったとは? 知りたい。ティティインカ」


「イザークと一緒に生きて行くにはどうしたらいいか、本当悩む。子供の時間は過ぎても、どうしたら可愛く映るかなと。有限の時間が愛おしい」


 足元に光が飛び込んだ。暗い関門を抜けると、懐かしい国の姿が見えてきた。民の笑顔が飛び込んだ。ラムセスの治世が安定している。悔しさで唇を噛んだ。


 様々な商品を並べた市が立っている。大きな手車に載せられた供物は吸い込まれるように神殿への正門に消えた。人々が買い物をする声が高らかに響いている。


「無意識に誰かの加害者になっている事実を見ないが人間だ」


 誰もが誰かの被害者で加害者――。神であるサアラから聞くとストレートに辛い。


 言葉を無くし、神殿への大通りを行くと、大聖堂が見えた。アケト・アテンのテーベ三柱神が彫り込まれた柱の前で、サアラは足を止め、動かなくなった。


「我と、ネフトがいる……だが、あと一神は、マアト神ではないな」


「マアト神は裁きの破壊神だからね。信仰はしないの。人間はね、自分を脅かすものは遠ざけるものよ」


「ところでティティインカ。イホメトの世界に繋がる諱はどこにある」

「ラムセスが握ってる王の笏丈。諱が世界を繋ぐなんて思いもしなかった」


 サアラは質問を再び口にした。神さまと、会話が成り立つ。当たり前が嬉しい。


「諱は、世界の礎だ。人は諱を口にするとき、嬉しそうな顔をするはなぜ」


「だって名前がなかったら、認識できないもの。わたしたちは愛を持って名を呼ぶの。ラムセスに逢いに行かないと。サアラさま。手出しはしないと約束して」


「単なる兄妹喧嘩、神が手助けするまでもないね」


 昔は嫌だったサアラ神の淡泊な性格。今はどこか有り難い。『勝手にやれ』と距離を置いてくれるが丁度いい。下手な同情より、ずっと。


(イホメトとの仲があろうと、なかろうと。呪いを受けてもラムセスを討つ。マアト神はラムセスを裁かない。だから、わたしが裁く。神の領域を踏みにじったとしても)


「命を護るはイア。神を踏みにじるはティティインカ。悪魔の妻になり損ねた」


 諱は神に繋がる世界の理。諱を呪術で利用する、ティティは悪魔と呼ばれても間違いのない存在だ。生殺与奪は神の手にあるが、ラムセスを葬ろうとしているのだから。


(いるわ、すぐ近く……いつだってわたしを手の平に載せて、覧ている男)


 見えた姿にティティの神経はささくれ立った。ラムセス王は数年前よりも一回り大きく、つけている飾りも趣味が変わったようだが、変わらずに王の冠を載せている。


 ――始まりは、全てこの男からだった。イザークを喪ったのも、……イザークと出逢ったのも。


 イザークに、ひらひらと王の背後で笑顔を向けられた時、ティティはどんな気持ちだっただろう――。


(最愛の護ってくれる人に、わたしは呪いをかけたのよ。それは真実。でも、得たモノもある。ひとつになった。あの嬉しさのほうが、勝るの。わたしは、呪うより幸せを祈りたいってルウの前で、思った。気持ちは嘘じゃない。ううん、こっちが真実)


 数年を飛び越えて、ティティはラムセスへの屈辱と、過去の浅はかさを噛み締めた。


 ――だから、間違わない。二度と。迷いのないイザークを目指して。

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