62……最愛の夫を取り返す!

優雅だった神殿の床のタイルはすべて頽れ、土煙を被っている。サアラは足音を立てずに歩き、ティティもパタパタと後に続いた。


「ティティインカ」サアラの声に気付けば、鮮血のオベリスク前に到着していた。


「汝と我ならばできるだろう。オベリスクの本当の呪を解き放ち、元に戻す――二つの世界を繋ぎ、マアトを倒せ」


 ティティは驚愕でサアラを見やった。


(神を倒せ? ……何を言っているの?)


 サアラの剣が真っ直ぐに、ティティに向いた。喉に刺さりそうな距離だ。


「汝は禁断の諱を詠む力で、人を神の世界に近づけ、呪いを受けたはず。イザークと汝の呪いは、マアトが生きている限り、解けない。愛とはそんなものか。見誤った」


 ティティは相手が神だという事実を頭から吹っ飛ばした。


(わたしとイザークの愛を馬鹿にして!)


「そんなもの、ですって? 上から目線の神にはわからないのよ」


 サアラは手にしていた剣をオベリスクに向けた。


「自分たちの幸せが前提の壊れた理屈の人の愛か。愚かだ。ネフトの見込み違いだ」


 ティティはしばらくサアラを見詰めていた。


(やはり神さまに、人の気持ちなど分かりはしないの。わたしを理解して、抱いてくれる人は一人でいい。だから、高望みはしない。頑張る方向を変える)


 イザークとの愛をただ、信じる。心は信じられないほど、穏やかだった。


「確かに、愚かかも知れない……馬鹿みたいだって笑えばいい。王家の宿命だと判っている。それでも、天涯孤独になったわたしを、イザークは心から愛してくれた」


「果たして、そうか?」サアラは続けた。


「イザークは単に目的のために、利用しただけだ。神には判るんだよ。イザークは裁かれるに値する。罪の逃げ場所に汝との恋愛を選んだに過ぎないと見る」


「ねえ、意地悪ばかり言わないで。神さまなのに」


「それが真実マアートだ。我は狂言はしない性質だ。軽いマアトとは違う」


(マアトの言葉なんか聞きたくない)


 俯いた頬に水滴。イザークが消えてから、封印したはずの涙だ。手の甲で拭っても、拭っても零れて止まない。


「やれやれ」とサアラはオベリスクに両掌をくっつけると、眼を閉じた。


「静かに。ティティインカ、世界は諱で繋がる。霊魂アクを具現化したものが諱。だが、神にあるは悪諱だ。我らを勝手に表現しては、勝手に敬い、勝手に絶望する。本当の名も、姿も見ず。まったく勝手な生き物だよ人間は。世界を取り戻そうとすらしない。だが、イザークは気付いた。世界を取り戻す、と汝に誓ったはずだ」


 サアラは背中を向けたまま、続けた。


「世界を取り戻すには、悪意があっては不可能。ネフト、我が妻ネフティスへ繋げ……ネフティス、ネフティス、偉大なる冥府の女王はこの世界をより近くする」


 一心に自らの妻を呼ぶサアラの横に、ティティも並んだ。怖ろしい怨念だ。手を向けただけで心を引き千切られそうな。諱は生きている。世界を繋ぐ生きた証。


(そうか、ここに眠った人たちの思念……それなら、どこかにイザークもいるはず)


「――イザーク、わたしの、愛する夫、いつも、大切な、わたしの恋人……」


 同じく呟いてみた。サアラがモノ言わぬまま、ティティを見る。


(違う、イザークなんて恥ずかしさで呼んでいては駄目。諱を今こそ呼ばなきゃ。諱は世界が生きて行くことを許した証。何より、大切にするべき霊魂

アク

の姿)


「イホメト……愛する人――……世界で、たった一人。一緒に生きて行きたい」


 オベリスクが揺れた。「続けろ」サアラに頷いて、ティティは名を呼び続けた。


 右眼が揺らぎ始めた。世界がゆらゆらと剥がれて遠ざかる。オベリスクは業火にくるまれていた。罪を焼くための業火。怖ろしい罪の炎だ。


「イホメト、イザ……イホメト、お願い、わたしの手を引いて、世界に連れて行って!」


 オベリスクの下部、傷つけられたイザークの諱が悪の聖刻文字になった。背筋がぞっとする。触れるも躊躇したティティにサアラがとうとう告げた。


「聖刻文字イホメトとは悪魔の意だ。イザークはヴァベラの悪の民。歴史の破壊者の運命を背負っていた。彼は役目を果たした。テネヴェの民に悪意を甦らせ、煽動した。そのため、マアト神は数年前に大規模な裁きを行った」


 ティティの眼の前で、悪の文字がユラユラと揺れては遠ざかった。


「我ら神は絶対に未来への汚点を残さない。だが、汝らが罪を背負ってくれるならば未来は変えられるのではないか。神と違って、人は生きて償えるのだと知ったばかりだ。だから我らは汝らを信じる判断をし、我が妻は汝の恋人の側に飛んだ! ティティインカ! ありったけの呪術を使いたまえ。身を滅す覚悟でだ。我が妻との繋がりを無駄にするなら、我は汝を許さない」


 イザークの命は炎の中で揺れていた。業火の檻がイザークの諱をしっかりと檻に閉じ込めている。隣にあったクフの諱も一緒に剥がれ、漆黒の悪の命になった。様々な諱がオベリスクから剥がれ堕ちては、業火に巻かれて消えて行く。


「イホメトの諱を、彼を、ううん。最愛の夫の命を返して!」

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