57……再びのマアト神。突き抜けたテネヴェの裁き

「貴方はオベリスクを使って、兄の諱を呪いで封じたの。呪いの力は強力よ。その力で、マアト神を呼び寄せ、殺すつもりだった。クフ、テネヴェを滅ぼすは、貴方だ。イホメトの諱を滅茶苦茶にすることで、兄を超えようと、神を呼び寄せ、欺こうとしたなら、貴方は裁かれていい。マアト神はバカではないわ」


(イザーク、悔しかったでしょ。兄弟なんて、強欲の前には関係がない。欲って怖い)


 ティティはじっとオベリスクを見詰めた。イザークがここに何かを彫ったなら、それが真実マアートだ。クフのねじ曲がった虚構などに騙されてはいけない。


「首を落とすよ。兄の元など行けないように、髑髏に魂を塗り込めてやる」


「クフ、よく見て。これが、神を欺いた者の末路よ」


 ティティは眼帯を外して見せた。オッドアイの強い瞳に神官

ソル

たちが一人、二人と膝を付き、ティティに頭を下げ始めた。頬が熱く焼け焦げる。左眼からの炎が溢れそうな熱のせいで。


「何をやっている! 役立たずものが! 首を! マアト神への手土産だ! 次にマアト神を狩りましょうかァ! 今こそヴァベラの悪の民の復活ですよ!」


 ティティの中の何かが目覚めた。怒りの炎が眼に宿る。哀しみと、夫への恋慕の炎だ。手に崩れたスカラベがあった。


「敬愛するネフティス神!」ティティは涙を堪えて、思い切り叫んだ。


「アメンレスト! スウト・ラー! 運命はこのスカラベに封じ込める!」


 声が掠れた。


(イザークは最後に弟の名を遺して去った。いつか、弟が粛正されることを願って! 言えば、わたしが諱を読んでしまうから……)


 クフの髪が青い炎に包まれ、頭巾が飛んだ。クフの右眼が燃え始める。イホメトはイザークの諱だから、残ったどちらかがクフの本物の名前。でも、効果はあった。


「よくも、僕の諱をおおおおおおおおお――っ! 許さないよ、もう……せっかく、この、僕が、許してやったのに……そう、僕に呪いをかけようとは、いい度胸だ……!」


 破裂した片眼を押さえ、クフは手を伸ばした。ティティはクフの目に大きなコブラの幻影を見る。クフの悪意の産物だ。悪意を形にできるクフは、呪術が使えた。違う、誰にでも呪の力はある。それを正しく使えるか使えないかだけだ。


「死ね! 全てだ! マアト神よ、今こそ降り立て! 裁きをこの女に下せ!」


 うねるコブラを見詰め、ティティは首を振った。王を気遣う神官

ソル

も、さすがに躊躇している。今、クフの道化の王の化けの皮は剥がれたのだ。


「自分を絶対神と勘違いし、謀った。もう用はない。一神教? 貴方は貴方だけを信じる民の箱庭を作りたかっただけでしょ。そのために、兄イザークを追い出したのよ」


 ティティはふいとオベリスクに向いた。「ティティ……」クフが躙り寄った。


「ねえ、ごめん。僕が悪かったよ。でも、ほら。もう大丈夫だよ。きみのお陰で眼が醒めたから、だからずっとここにいていい。兄に僕も逢いたいんだ」


 ね? と優しく笑いながら、クフはティティを抱き締めた。一瞬夫に似たぬくもりに騙されそうになって、ティティは首を振った。破裂した眼が網膜に焼き付いた。

「悪いけど、わたしが触れたいのは、イザークだけ。あっち、行きなさい」


 クフの表情が崩れた。右腕が伸びてきた。首を捕まえられ、激しくオベリスクに背中を押しつけられた。無表情のクフの目は滾って、ティティすら映してはいなかった。


「兄に愛された。どうせ嫌らしい女の本能のくせに。なら、僕にだって優しく出来るだろう? それとも、アケト・アテンに突き出してやろうか。ドレイ女」


 悪意に操られたような悪意の権化の言葉は胸を貫いてゆく。ティティは腕を伸ばしてクフを撫でた。瞬間、クフの顔が歪んだ。


「わたしは、もう誰一人と呪いなどかけたくなかった。眼を、醒ましなさい」


「なんの話かわかりませんね」クフは空っぽの笑顔を向けた。


(なんで、笑えるの……? わたしを、悪魔が嘲笑っている)


「いたっ……」悲鳴の前で、手首を捕まれた。悪魔の声音が覆い被さる。


「さあ、僕にも優しくできるでしょう? 案外、同じかもしれませんよ。イホメトは正真正銘、兄ですからね……」


 怯えた唇に爪を立てられた。痛い。痛みが体内を駆け抜けた。

 瞬間、空気が張り裂けるように揺れた。



《俺の妻に触れんじゃねえ! 弟でも、この国ブチ壊すぞ! マジで!》



 イザークの怒り口調が大音量で世界に響き始める。


「なんで死人が僕に怒鳴るんだ! 神官

ソル

! 何をしている!」


 幻聴だ。イザークがいるはずがない。でもここにはイザークの生きるべき証がある。諱という命の名前が。


 ――オベリスク……もしかしたら、今こそ繋がるのかも知れない。見上げた時、大きな鳥の影が見えた。はらり、と黒い翅が落ちた。


(マアト神の裁き! どこ、どこにいるの?)


 ――オベリスクの上だ! 



見上げると、大きな翼が赤い月に翻っているが見えた。


「――悪意は全て、消す。スウト・ラー、悪意を持つ者は世界創世に不要」


「わ、わわわわわわわわ」クフは慌てて翅を払った。


「いやだいやだいやだいやだ!」


 神殿全体に黒い翅が降り注ぐ。マアト神だ。オベリスクの頂点に人影が見えた。

 クフは王の体裁を捨て、しゃくり上げて、ティティに縋り付いた。


「嫌だ、ティティ、裁きは嫌だ! ねえ、左眼が痛いよ。僕には悪意なんか、ないんだ……本当だ、兄が、兄が全て悪いんだああああああ……!」


 クフはフラフラとオベリスクを通り過ぎ、重なった階段に躍り出た。黒い翅は止まることなく、神殿を滅ぼす勢いで増え続け、クフの足元は膝までもが黒い翅に覆われた。クフはにっこりと笑ってティティに手を伸ばした。


「ティティ、ごめんなさい! 謝るよ! だから、ふふ、きみなら、僕を助けられるんだろ! みんな、聞け! 数年前の裁きは、全部兄と、この女が――嫌だ! 僕の霊魂

アク

を返せ! 火の海なんか、嫌だあああああああ!」


 数人が絶叫するような複数声帯の声。


 凄まじい裁きの音と、絶叫を残し、神殿内でのターナ王妃の激しい悲鳴を最後に、裁きは止んだかに思えた。しかし、轟きは収まらず、テネヴェ全体に拡がってゆく。


 大きな羽音と共に、マアト神が降りてきた。


「――テネヴェ。金輪際世界に不要」


 数年前にも見た。同じ悪夢が再び起きようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます