56……聖刻文字の彼方へ

「おはよう」ティティは眼帯をしっかりとつけながら、通り過ぎた神官

ソルに挨拶をした。


 胸騒ぎがする。慣例に倣い、クフに謁見し、柱のテーベ神に挨拶をし、キオスクに足を踏み入れた。侵略に備えての作戦会議を神官

ソル

たちは熱心に繰り広げている。


「ティティインカ。もう潮時でしょうに」


 クフはちらとティティを見ると、オベリスクの下部を指した。正方形になっていて、幾重にも象形文字が重なって彫られている部分だ。元々の白い石膏の粉が少しずつ削れて、舞い散っている。相当の時間を隔てているから、風蝕しているのかも知れない。


「この粉は身体に良くないと言われている。ティ」

「そうね。ありがと、イザーク」


 クフが驚愕の眼をした。後で、ふっとイザークと同じ笑みを見せた。すべて看破されている。ティティは唇を噛んだ。クフはあれから髪を黒髪にしたから、なおさら間違いそうになる。もしかすると、それさえも心に付け入る〝準備〟かも知れない。


(冗談じゃない。しっかりしなさいよ、わたし!)


 両手で頬を叩いて、ティティはオベリスクの真下の石版に気付いた。模様だと想っていたが、これも、小さな聖刻文字だ。


「ねえ、引っ掻き文字が、名前に見えるのだけど……これが縛り付けている原因?」


「子供の悪戯だよ。届かなかったんだろうね。ひっかき傷だ」


「いえ、間違いない。小指の爪ほどの小さな文字。大人なら、もっと高い場所に彫り込めるでしょうし。調査は隈無く済ませたはずだったのに」


(諱がこんな低い場所まで? こんな所に彫り込んであるなんて。この聖刻文字、この諱を彫り潰してあるんだ。では、数十もあるイザークへの呪いの文字はなに? 上から削って本当の文字を取ったのだわ! だとすると、この聖刻文字を書いたのは)


 ――何か、ある。顔を近づけた途端、「ターナは足止めにもならない」と悪の声がした。クフが王の剣を引き抜き、ティティの首にぴったりと当てていた。


「動かないで。呪術師ティティインカ。動けば、綺麗な首が血塗れになります」


「わたしを殺したら、結界は作れないわよ。滅びたいの?」


「構いません。もう、神に逆らう準備は済みましたから。むしろ、兄が身代わりになったお陰で、我らはマアトなどには怯えないで済みそうでね!」


(かろうじて、文字、見える……イホメトが告ぐ。ええと、アメンレスト……スウト……ラー……? 隠すように、どうしてこんな場所に?)


 オベリスクは通常は中央に神への讃辞の碑文を彫る、台座のほんの小さな一角。まるで見ないで書いたような、ひっかき傷。


(やっぱり、これ、イザークが彫った聖刻文字!)


「動くなと言ったでしょう。懲りない呪術師ですね。ティティインカ」


(ええと、急いで、急ぐの。読むのよ、わたし)


 夢中で文字を追うティティの視界に、短剣の刃が映った。クフはティティの目の前に短剣を翳し、そのまま首にぴったりと当てた。


「仕方がない。首を落としましょう。綺麗な首ですが残念ですね」


 チク、とティティの首に切っ先が刺さった。耳朶の下に、クフの舌が触れた。身体を強ばらせたティティの耳元で、クフはうっとりと低音で囁いた。


「読まれては困るんだよ。人々には、あくまで兄を怨んでいただかないと……ね。兄も兄だ。こんなところに仰々しく真実

マアート

を彫り込んでいたとは。削り潰すもどれだけの時間と、命を削ったか。テネヴェには、憎しみの対象が必要。裁きを呼ぶためにね!」


「イザークへの呪いの文言、嘘、だったってこと……あなた、呪いをでっちあげたの?」


 ティティは合点が行ったと顔を上げた。


(イザークの中傷をしでかしたは弟のクフだ。では、その下の子供の文字は誰が)


「おどきなさい。神官ソル」あまりの呪術師の怒りの迫力に、神官ソルがたじろいだ。


 クフの手はぶるぶる震えていた。怒りが激しいのか、笑っているのか。


「たかが呪術師に見破られるとはね。おまえは、素直に呪を解け。マアト神を世界に呼び寄せるためにだ!」


「短剣をどうぞ」ティティはくまなく聖刻文字に眼を走らせた。あと少しで読み終える。最後が、長い。でも大丈夫。クフはティティを殺せない。直感だ。


(クフには感情がない。違う、感情を出せない。兄の裁きを嘆いている自分に気付いていない。奥底では――)


 賭けるしかない。ティティは僅か、眼を伏せた。

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