55……火の海の女神

(お? かゆいぞ。鼻くすぐってやがる、そうだ、これは、〝かゆい〟……だ)


 イザークは鼻のむずむずさに気付いた。すると、今度は燃えさかる炎の熱さを肌が捕らえ、閉じた瞼の向こうの炎の眩しさに眼が気付く。


 嗅覚から目覚めるあたりが、すごく、らしい。最後に尻の痛みに跳ね起きた!


「熱ッつ……!」


 見れば尻には小さな燃えた艾。頭上でふー、と女の吐息がした。


「お目覚め? 裁かれたくせに、元気ね~。お尻から飛び起きるなんて面白すぎてよ」


 ぽん、と煙管から落ちた灰が尻を再び狙う。逃げようとしたイザークは、ずし、とした感覚に顔を顰めた。女はイザークの上に座り、足を組んで、煙管を銜えていた。


 変わらずの露出の高い服に、チリチリの髪、過剰な宝飾。更に低声には聞き覚えがあった。国境なき孤児院の女、ネフトである。


「俺は裁かれたはずだ。あんたはどうしてここに?」


 ネフトは答えず、また煙管を銜え、ひょいと下を指した。まるで灼熱の塊が顔を出したように、大きな赤い火の塊が丸くなって蠢いている。


「裁きの後に来る、罪人

アザエル

のための灼熱海よ」


 イザークは世界の酷さに冷や汗を感じた。生きた人間が来る場所ではない環境だと分かる。まさに、神の世界。


 灼熱の赤い大気は僅かに曇り、湿った空気がまた熱風で煽られる。業火だ。一面が赤で染められている。山は燃えさかり、赤い火砕流が火の泉に注がれる。灼熱の中の空は赤と黒の階調で染められていた。立っている場所も、炎の色をしている。


「あんたはマアト神に裁かれ、最後の霊魂をあたしに裁かれようとしているのよ」


(そうか、俺は裁かれて、この世界に放り出されたのか……ちっぽけな人間が来る場所じゃねえぞ。熱いし、マトモに息もできやしない。蒸し風呂だ)


「マアト神はどこにいる」ネフトはようやくイザークに向いた。


「あら? 絶望しないの? 裁かれれば霊魂は消え、世界のどこにも行けないのに」


「いいや? 行けるね。どこまでだって」イザークはネフトを睨んだ。「ま、いっか」とネフトは歩き出し、「ついてらっしゃい」と振り返った。


 二人は灼熱の大地を進み始めた。ネフトは振り向かず、特徴的な黒髪をさながら炎のように戦がせている。


「本来、世界には生も死も存在しない。ティティインカは貴方に逢うために、屈辱の中、テネヴェにて、オベリスクの呪を解き、貴方への道を拓こうとしている」

「ティティが、テネヴェにいるだと?」


 火の海が見えて来た。たくさんの怨恨が舞う。ネフトの手の煙管が光った。


「覚悟なさいな、罪人イザーク。いいえ、イホメト=シュラウド=テネヴェよ」


 神と人。イザークは炎の海の海岸で手をついた。業火の迫力は自然に人は敵わないと言わんがや。イザークは濡れた眼をネフトに向ける。この状況で泣かない男がいたら、お目にかかりたいものだ。


「何故、俺を再びテネヴェに向かわせた。逃げるなと言いたいのか、神の分際で。逃げてもいいじゃないか。逃げたからと二度と立ち向かわないとは限らないんだよ!」


「喚かないで。し」


 ネフトはしゃがみ込むと、人差し指を唇に充て、驚くイザークの頬を撫でた。


(ティティを思い出す。愛を交わしている最中も、何度も俺の頬を撫でてくれた)


「見える? 火の海の中の人の無数の手。神に少しでも逆らった人々の霊魂

アク

は全てこの海に投げ入れる。それがわたしの任務だ」


 ネフトはしばらくイザークを睨んでいた。赤い瞳は炎の色だ。


「でも、貴方は何故か生身。従って、わたしがこっちに来るしかなくなったわ」


 ネフトは告げ、優しく微笑んだ。


「ティティインカにまた、逢ってみせて? 私たちに愛を教えて見なさいよ」


「上等だよ」イザークはようやく笑う感触を取り戻した。


(そうだ。心から、強くなるための感情は、愛を噛み締める瞬間だ。そうだろ、ティ)


 くっきりとしたイザークの世界と、霞む遠きティティの世界がゆっくりと一つになった。


「俺は神など信じない。ヴァベラの悪魔の民だ。マアトなんざ、珍しい鳥ってだけだ。逢って世界取り戻してオワリだよ。焼き鳥にして、食ってやるさ」


 神を罵倒したイザークを、ネフトは「さすがね」と何故か笑った。


 ――世界は編まれた平織り布だ。サアラが言うが事実なら、どの世界も繋がりがあるはずだ。なら……この世界も、あのティティと過ごした世界も繋がるはず。両方あるもの、その二つが引き合えば――……。


(あるじゃねえか。二つの世界をがっちり繋ぐもんが!)


 イザークは眼を閉じた。胸に手を当てて、ただ、ティティインカを想った。


(ティティの信頼と俺のティティへの愛情。これ以上の絆はない。この世界から、愛してると願い続ける。距離も死も問題じゃない。魂で愛してやる――)


 もはや生も死もない。ならば、愛情の終わりは永遠に来ない。恐れはしない。

 イザークの眼の前で、火の海にまた一つの霊魂アクを投げ入れたネフトは、黒く塗り潰した唇をゆっくりと動かした。


「見せてもらうわ。真実マアートの愛を」

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