44……神の世界に繋がる眼

 ――クフは正真正銘のイザークの弟。今やその弟は最愛のティティに忍び寄っていた。イザークの眼ははっきりと、クフの手にある短剣を映す。


(……あんの野郎! 俺の最愛の妻(決定)に手をかけるつもりか!)


 イザークは眼を何度も見開いては強く瞑った。明くる日の父の血が眼に焼き付いて離れない。その向こうに見た、幼い瞳の希望が、がらがらと崩れた瞬間も。


(昔から苦手だった。国から逃げる=クフから逃げる、だった。クフを避けるより、ティティの側にいるべきだった……!)


「動いてはならぬ。王の命令、殺されたくなければ」

「はいはい。――寝てろ……ォ! おやすみよ!」


 イザークの振り上げた脚の向こうで、一人の神官が倒れた。蹴った拍子に紐が切れた。好都合だ。次に来た神官は肘で殴って、螺旋階段に手を掛け、見下ろした。


 蛇腹のような階段は、アテンの大神殿の地下井戸に似ていた。


(数段駆け下りれば、飛び降りられるか)


 クフはティティの背中で短剣を構えて、悠々と説明を続けていた。イザークは故郷のオベリスクを睨んだ。


(一万人の奴隷が石磨きをし、真っ白に染まるまで石膏を塗り、数年かけて運ばれる。赤く染まる理由など、思いつかねえんだよ。神の呪いくらいしか)


 いつから、赤くなった? イザークはラムセスを思い起こした。


(誓い合ったオベリスク。アテン王国の王子ラムセスと、テネヴェの王子の俺の秘匿契約。世界を変え、弟を救えるはずだったんだ。マアト神を引き摺り出せさえすれば)


 裁きに怯え、王子を無碍に扱った大人への復讐は巧く行った。テネヴェからラムセスは脱出に成功し、妹を盾に、アケトアテン王と王妃を追放した。


(だが、クフを犠牲にしなければならなかった……逃げる瞬間、俺を見たクフの顔は、もう忘れたい! あれから、ぐっすり眠れやしねえよ!)


「このボケ弟がァ! 俺の妻(決定)に何しやがる!」


 クフはイザークの恫喝に気づき、さっと短剣を仕舞い込んだ。後でクスクス、ククク、ヒッヒッヒと笑いを漏らし始めた。何人もが同時に笑っているような声音は不気味だ。王の口調を捨てた悪魔は割れた声帯でイザークに渾身の言葉を投げた。


「〝裁きが嫌で〟国を捨て、放浪を選んだのではないのか? アーハハハハ、他国で、結局、しかも、女に呪われたァ? 愉快すぎる、ボケ兄。笑い死にさせたいのか!」


 ティティが身を強ばらせ、イザークを見やった。ティティの双眸はまた色を失いつつある。薄れた右眼にはほんのりと雫が溜まっていた。


(また間違っている。クフを罵倒するより、こっちだ)


 イザークはクフとの小競り合いを制し、ティティの手を掴んだ。ほ、とティティが目元を緩める。正解を掴んで、イザークは空を振り仰いだ。


「クフ、マアト神がこの世界にやって来る。俺とティの眼は、神の世界と繋がっている。影響を受けると、見えなくなるんだ」


 クフは「興味ないが」と言い放ち、さっと手を挙げた。


「始祖に倣い、神を討つ準備は出来ている。そのうちの一つがオベリスク。呪術師なら分かるはずだ。人の持つ霊力。霊祉力。オベリスクの下部に彫り込んだ聖刻文字。マアト神が来る前に、貴女はこのオベリスクの呪を受け、解放する。さすれば、両親にも逢えるかも知れませんよ……?」


 ティティが口元を強く両手で覆った。


「おまえ、ティティの両親に何をした!」


 クフは嘲った。「言ったはず。全能なる神の王に不可能はない」と――。

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