019●第4章●四谷プロダクション…1964年6月16日(火)夜①:バケツと閻魔大王
019●第4章●四谷プロダクション…1964年6月16日(火)夜①:バケツと閻魔大王
●第4章●四谷プロダクション…1964年6月16日(火)夜
だが、ありがたいことに、ポリバケツで周囲が見えなくなったことが久のパニックを爆発寸前で止めてくれた。
しばし目を閉じる。荒い息が、落ち着く。
バスは動き、首都高速道路が下り坂になったことが体感でわかった。左に車体が振れると、さらに下へ降り、スロープを回り込んで右折すると停車した。
少し考える余裕ができて、気付いた。バケツを被せたのは、謎めいた秘密組織“四谷プロダクション”の連中が、自分たちのアジトの出入口を久の目から隠すためだ。
ここは、どこだろう。
赤坂見附の交差点から、そう遠くない、車で数分程度だ。
久はバケツで目隠しされたまま、バスを降ろされた。
そのままトンネルのような通路を延々と歩かされたように感じたが、どこをどう歩いたのか、さっぱりわからない。
エレベータに乗って上がり、この建物のどこかへ出た。自分たちの足音から、床はコンクリートから木の板に変わったことがわかる。それからガチャリとドアを開閉すると、バケツを被ったまま、椅子に座らされていた。
「しばらくここで待て」と告げて、怪獣ドシラの足音がぺたぺたと遠ざかり、ドアが閉じる音がして、手足が自由になった。そこでバケツを取った次第だ。
通された部屋は、木の机の周りに木の椅子が十脚ばかり並んだ会議室だった。
古めかしいのは机と椅子だけでなく、壁は白い漆喰、腰板と床は木で、ワックスの油っぽい臭いがする。天井には摺りガラスの球が吊られ、その中に黄色電灯が灯っていた。
窓はあるが、
……昭和レトロな木造小学校の教室みたいな、というか、NHKの“連続テレビ小説”、いわゆる朝ドラで戦後の昭和を懐かしく描く場面のセットみたいだ……
毎週土曜日の朝、家事をこなしながら朝ドラのダイジェストを観ている久はそう思った。
手足が解放されて緊張がゆるむと、下半身に、然るべき生理的欲求を催した。
ドアノブを回してみる。内側へ簡単に開いた。
「わっ」
久はのけぞった。
外の廊下に、こよみがいた。腰に手を当てて、むすっとしたふくれっ面。仁王様みたいな物々しさで立っている。いや、そのおどろおどろしさは、般若顔の閻魔大王というか大魔神というか。
しかし見た感じがさっきと違う。白ベレー帽を取ってセーラーカラーの左肩のショルダーループに挟み、太い三つ編みをほどいて、漆黒のつややかな髪を背中に降ろしている。その流麗な姿が、美少女らしさを一段と引き立てていた。
まるで別人だ。しかもスラックスを白いロングスカートに履き替えていた。素材にはシルクの光沢が混じり、プリーツはなく、軽く、なめらかに生地がたゆたうフルスカートがいかにもお嬢様っぽい。
白いセーラー服と白いリボンが合わさって、さだめし、湖水に映える白鳥の
とはいえ……
何を着ても閻魔様はやはり閻魔様だった。
「お手洗いね」
訊ねもせずにこよみは断定する。久はうなずいた。何とも気まずい。
「こっち」と、こよみが手をつかんだとたん、どこからともなくポリバケツが飛んできて、すぽっと視界を塞がれた。
これまた屈辱的だが我慢する。今は迅速かつ安全に、トイレに無事到達することが最優先課題なのだ。
手を引かれたまま板の廊下をこつこつと歩き、ガラガラとガラス戸らしきものを開けると、タイル張りの床に立っていた。
前進し、右に折れ、肩を引いて止められると、こよみの声が耳元で一言。
「はい、そこでしなさい」
「ちょ、ちょっと」久はうろたえた。したくても、標的が見えない状態なのだ。「いくらなんでも、これじゃ……バケツ、取ってもいいだろう」
「どうしたの、小さい方でいいんでしょ」
平然といなされてしまった。
「そうだけど、そんなこと、言ったって……」
いくら愛想が悪いといったって、超弩級の美少女が背後霊みたいに張り付いた状態で、こんな恥ずかしいこと、できますかって……。
と思ったら、手間かけさせないでよ、とばかりに、はあーっと、あきれた感じのため息が耳元に聞こえ、バケツが眉の高さまで浮かび上がった。
タイルの壁に並んでいる白い朝顔形陶器に対して、自分の立ち位置はぴたりと正確だったが、見回すと、いかにも古ぼけた感じの男子トイレに自分一人だった。
用を済ませて戸口の横の流しで手を洗う。蛇口にネットで石鹸が吊るされていたので、それを使った。すると頭上のバケツが降下し、肩を押される形でさきほどの部屋の前に戻る。
と、バケツが外れて空中に浮かび、ポン! と煙が湧くと、大きめの
こよみは最初からずっと、この部屋のドアの前で、大魔神のフォームで腕組みして待っていたようだ。まさに美少女型閻魔大王。してみれば彼女は一歩も動かず、久はトイレまでの往復を、念動力みたいな魔法で案内されていたわけだ。
そうか、自分の箒をバケツに化けさせて、僕にぴったりと張り付くカメラとマイク付き遠隔操縦ドローンとして使っていたのか……と久は悟る。まったく、ずっとトイレまで背中に貼りつくようについて来ていたのかとハラハラしたのが馬鹿らしい。
後で知ったことだが、この建物は彼女たちの秘密基地の一部であり、壁や天井に剥き出しで配線している布巻きの電線はすべて霊脈線を兼ねている。電灯類は思念波の中継器となっており、屋内ネットワークを張り巡らせたのと同じ、二十一世紀のWi-Fi環境が、こちらでは電波でなく魔法の思念場で構成されているようなものだ。
そこで、こよみはバケツに化けた箒を思念波の送受信機としても使い、自分の
それはさておき……
「ちゃんと手を洗ったわね、石鹸で。いつも綺麗にしなきゃだめよ」
余計なことをきっちりと確認された。
常識的な状況判断として認めたくないが、どうやらここの連中は超能力集団……というか、イリュージョンの得意な魔術団とか……そう理解せざるを得ない。
特撮映画のロケを演じていた彼女たちだから、ひょっとしてサーカスか雑技団みたいなアクロバティック・パフォーマンスの達人集団という可能性もあるが、これまでの久の体験を総合すると、本物の超能力か、それとも魔法と同じようなものだと、半分くらいは信じるしかなさそうだ。
部屋には二人の青年が待っていた。
二人とも、年齢は二十代半ばといったところだ。服は二人とも、あの特撮監督が着ていたのと同じ“四谷プロ”のブルーのデニムシャツだ。ラフで、だらしない着こなし。
「おお、スパイ少年くん、掛けたまえ」
そう言って、にかっと笑いながら椅子を勧めた一人は大柄でがっしりとした体つき、浅黒い肌に円い大きな目、くせ毛で彫りの深い顔立ちは、南方系の
なんて言ったっけ……“マンさん”と呼ばれていたな、と思い出す。
「おれは
と、万城はチョークを持つと隣の男も併せて自己紹介した。部屋には脚つきの黒板が立っていて、ご丁寧にも名前を板書してくれる。
「そうだ、こよみくんも」と促されて、こよみも黒板に“東風こよみ”と書いた。上手な筆跡でなく、一生懸命に書き初めをする小学生みたいな字体で、“東風”の隣に“こち”とルビを添える。そしてドアの前に椅子を置いて腰かけた。まるで番人だ。それが役目なのだろう。
「で、きみの名は」と万城に尋ねられたので、「星川久、十六歳です」と答える。未成年であることを強調しておきたい。あんたがやっていることは未成年者の誘拐プラス虐待なんだぞ、と。
「そこに名前書いてみな」と万城がいうので、黒板にチョークで書く。
「そうか、久だからキュウ君だな」と、小馬鹿にしたように愛称を決められてしまった。嬉しくないが、そんなことで喧嘩できる立場でもない。久は無視することにして、言った。
「僕をどうするつもりです。何か、悪いことでもしたんですか。勝手に写真を撮ったのがいけなかったら、スマホ、返して下さい。ここでデータを消去してみます」
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