十二話「PARADE」

 帰宅中、香苗は天使と悪魔と肩を並べ、雑談をしながら歩いていた。

 天使と悪魔の存在が浸透してきたとは言え、天使と悪魔が並んで歩いている場面に遭遇するのはまだまだ稀だ。人々がすれ違う度に香苗達の方に振り返ってしまうのも、どうにも仕方が無いというものだろう。

 かく言う香苗も天使と悪魔を引き連れて往来を闊歩するのは初めてだった。初体験に少しだけ緊張しながらも、客商売を営む者として無理のない微笑を浮かべるように尽力した。多少は引き攣っていたかもしれないが、そこには目を瞑ってもらいたい。

 うさぎの中学校から多少離れている宇品橋は昼間よりも少し人通りが多かった。おそらくは帰宅途中なのだろう。自転車の立ち漕ぎで橋を渡る学生達が多数見受けられた。自分の隣で息が上がっているうさぎを横目で見ながら、香苗は少しだけ微笑んだ。

「運動不足だな、うさぎさん。体力が無いんじゃないの?」

 香苗が指摘してやると、うさぎが悪魔のくせに半死人の如き表情で呟いた。

「む、無茶言わないで下さいよ……。悪魔は運動不足だからって運動したりしないし、こんな高い橋を渡ったりなんか絶対しないんですよ……。どうして宇品にはこんなに高い橋があるんですか? 理不尽ですよ……」

「あたしに言われても困るけどね」

 息も絶え絶えのうさぎに即答してやったが、実は香苗もそう思わなくはなかった。

 京橋川に架かる宇品橋はうさぎの言う通りそれなりに高さのある橋だ。いや、高いと言ってもそれほどの高さがあるわけではなく、高いと言うよりは傾斜がある長い橋なのだ。特に頂上付近の傾斜が外見以上に長く、体力の無い人々は大体がそこで力尽きる。特に人間ではなく悪魔が力尽きる。

 宇品橋を通る際に注意深く観察すると、力尽きて休憩している者の殆どが悪魔である事に誰もが気付くだろう。悪魔殺しの橋なのだ。勿論、それは宇品橋に問題があるのではなく、悪魔の体力の無さにこそ問題があるのだが。

 うさぎの言う様に悪魔は運動をしない。勉強もしないし、仕事も真面目にやらない。怠惰で不真面目で体力の無い享楽的な種族。それこそが悪魔という種族なのだ。別に悪魔が不真面目で怠惰だろうと関係無い事だが、体力くらいは付けた方がいいのにと香苗はいつも思っている。いや、余計なお世話か。

 対して香苗はうさぎが半死人となっている宇品橋を、息一つ切らさずに渡っていた。

 不意に香苗が視線をやるが、元バレー部の庚と勤勉な天使であるこはるも平然とした表情を浮かべていた。疲れ切っているのは悪魔であるうさぎだけだ。天使どころか人間にすら体力で劣っているとは情けない悪魔だった。

「本当に体力が無いですよ、うさぎさん。精進なさい」

 出会った時から殆ど変わらない冷淡な表情で、こはるが冷淡に言った。こはるの言葉にうさぎが表情を歪める。泣き出しそうな表情に見えたが、もしかしたら微笑もうとしたのかもしれない。

 庚が小走りに香苗達より一足先に橋の頂上に辿り着いた。その場で緩慢に伸びをしてから、夕陽を浴びつつ香苗達に振り返る。庚の無駄に長い黒髪だけが、少しだけ香る潮風に靡かされている。

 長髪を耳の後ろに持っていきながら、庚が呟く様に小さく言った。

「綺麗な夕焼けじゃねぇ……」

 何かを思い出しているかのような静かな言葉だった。

 確かに綺麗な夕焼けだった。

 赤い、否、紅い夕焼けに照らされた世界は、非常に神秘的に見えた。

 呑み込まれそうな渺茫たる紅。

 遥かなる深紅。

 紅が包む。

 人間を、天使を、悪魔を、全ての物を平等に染め上げていく。

 美しく、猟奇的な夕焼け……。

 だが香苗は庚の言葉に肯定も否定もしなかった。できなかった。

 庚のそれは恐らくとても深い意味を内包している言葉であり、香苗に何らかの言葉を口にする事を許さなかった。香苗が何かを言う事を拒絶しているようにも思えたからだ。それ故に香苗は自分の言葉を呑み込む事しかできなかった。

 不意に庚が微笑んだように見えたが、夕陽のせいでよくは分からなかった。

「ときに香苗」

「何だよ?」

「香苗には好きな人っておるん?」

 突然に何を言うんだ、こいつは、と香苗は思った。夕陽の中で唐突にそんな話題を振るとは、まるで安い青春ドラマの一場面にしか思えない。だが庚にも何か思惑があるのだろう。香苗は少し思案して、庚の言葉に応じる事に決めた。

「居るぞ、お姉さまだお姉さまの魅力には誰であろうと敵わないからな」

 肩を落とした庚が、そうじゃなくて、と付け加えた。

「そういうんじゃなくて男相手に好きとか嫌いとか思うかって事なんよ。ほら、香苗にも色んな男友達がおるでしょ? その中で好きな男とかはおらんの? 蒼鬼は論外としても連さんとか」

「確かに蒼鬼は論外だけど連さんも駄目だな。連さんは確かにいい奴で面白い奴だけど、お姉さまと気が合うのは頂けない。お姉さまと趣味が合うのはいいんだが、それで休日にあたしのお姉さまを横取りする時なんかは嫌になるよ。特撮趣味ってのもあたしには分からない世界だしな」

「悠樹さんとかはどうなん?」

「悠樹? いや、あいつも駄目だよ。悠樹もいい奴だけど沙羅さんに惚れまくってるし。口では否定するけど。もしあたしが悠樹を好きになったとしても、沙羅さんには敵わないだろうな」

「じゃあ……、誰が好きなんよ?」

「何だよ? 好きな男が居ないといけないのか? まあ、強いて言うなら慧遠かな。幼馴染みだし、長く付き合っているだけあって気も合うしさ。恋愛感情だか何だかは分からんが慧遠は好きだよ。その答えじゃ不満か?」

 香苗の言葉に複雑そうに肩を竦めながら、庚がゆっくりと頭を振った。庚も分かってはいるのだろう。自分の中の答えにならない矛盾の答えを。

 少しだけ嘆息をしてから庚が続けた。

「それじゃあ折角だからそっちの二人にも聞かせてもらうけど、うさぎとこはるさんはどうなん? 天使と悪魔って言っても、恋愛くらいするじゃろ? どうなん? 二人は誰か好きな人とかおらんの?」

 急に話を振られて少しだけ面食らっていたようだったが、意外な事にうさぎより先にこはるが答えた。無論、言葉自体はこはるらしい冷淡なものに過ぎなかったのだが。

「天使の世界に恋愛感情というものは存在しません。人間の世界に降臨して初めて恋愛感情という感情を知ったと両親も言っていましたわ。恋愛感情とは人間が子孫を反映させる為に誰もが感染する麻疹のような精神病なのだと」

「精神病ときたか」

 酷い言い種だ、と思いながら香苗は呟いたが、同時にあながち間違っていないのではないかとも思えていた。

 確かに恋愛感情は精神病かもしれない。恋愛感情とは脳の処理が異性に対する複雑な感情の処理に追い付かず、その処理不足から起こる脳のバグこそが恋愛なのだと人間が勝手に思い込む事だと何処かで聞いた事がある。

 香苗の考えている事など無関係に、こはるが無表情に続けた。

「しかしわたくしも中学校を卒業した際には子を産まねばなりません。既に相手も決まっております。わたくしと相手の天使としての生業が決定された暁には、彼と人間の言う結婚生活に入る予定ですわ」

「あ、こはるさんってもう婚約しとるん? 天使の人は結婚するのが早いとはニュースとかでは聞いとったけど、その歳で結婚相手が決まっとるほどじゃとは思わんかった。あ、でも確かに同級生の天使の人にも何人か婚約しとるんがおったっけ。その時は話半分で聞いとったんじゃけど本当だったんじゃね。相手は誰なん?」

 そこでこはるは香苗が考えてもいなかった言葉を言った。あまりにも自然な感じで言われたために冗談としか思えないほどだったが、どうも冗談ではないようだった。

「兄ですわ」

 何でもない事のようにこはるが言った。

 庚がひどく間抜けな表情でひどく間抜けな声を上げた。

「は? 兄? 兄って、兄ちゃんとか兄貴とかの兄?」

「ええ、さくら・はるいちばん。わたくしの兄様です」

「何なん? え? ギャグ?」

「何を言っているんですか?」

「えっ? だって、あれっ? それってあの、法的にいいん? だって兄妹でしょ?」

「問題ありません。法的にも認められていますから」

「あ、じゃあ、義理の兄ちゃんとかなんじゃね。義理の兄妹なら結婚も認められとるみたいじゃし、それなら問題無い……のかな?」

 狼狽する庚を無視してこはるが冷淡にかぶりを振った。

「いいえ、さくら・はるいちばんは私と両親を同一にするはらからです。彼はわたくしの兄様であると同時に私の婚約者であり、わたくしと子供を作る理想の相手でもあります。何か問題がありまして?」

「はあっ? だって問題も何もそれって近親相姦……」

「おい、庚。あんた、知らなかったのか?」

 庚の言葉は香苗が遮った。ずっとバレーに青春を懸けてきたせいか、庚はこういう所で意外と無知だ。実を言うと香苗も最近知ったのだが。

 殆どの天使の結婚相手は誰あろう血族から選択される事が多い。天使の近親婚は多いどころか、天使の中では親等が近ければ近いほど理想的な関係とされている。血が近いほど優秀な子孫が遺せると信じられているらしい。神話に詳しい者であれば誰もが知っているだろうが、神話の中の神々は兄弟間どころか親子間でも相当数の近親相姦が行われている。それを倣っているのかどうかは知らないが、とにかく天使の交配の殆どは近親間で行われているのだ。

 当然ながら広島に人間の近親婚を認める法律は無いのだが、特例として天使間の近親婚は認められている。本当は広島県も天使の近親婚を認めたくはなかったようなのだが、天使が『天使の文化への侵害だ』と主張し続けたので認めざるを得なくなったのだ。

 それ故か天使の近親婚について触れる人間は広島人の中でも数少ない。禁忌的な話題でもあるし、天使に人間が屈したという事例を声高に叫べるものでもない。それを香苗が庚に説明してやると、庚が脱力してその場に座り込んだ。

「全然知らんかったよ……」

「無知は良くないぞ、庚。天使の人達には人間の常識からでは考えられない取り決めがあるんだよ。それを人間の価値観で判断しても意味が無い。天使には天使の考えがあって、人間には人間の考えがある。勿論……」

 目配せをすると、うさぎが香苗の言葉をまだ息を弾ませながら継いでくれた。

 意外といい悪魔らしい。

「悪魔には……、ふいー、ふいー……、悪魔の考えがありますしね」

 ちなみに『ふいー』は息切れの音だ。

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