五話「…だけどベイビー!!」
「……それでどうして僕の所に来るの?」
慧遠の声が不満気に響いたが、香苗はそれを無視して彼の肩を掻き抱いた。
「いいじゃんかいいじゃんか、あたしと慧遠の仲じゃんか?」
「納得いかないなぁ……」
「そう言うなよ、あたし達は数少ない幼馴染みじゃんか」
「見返りはちゃんと貰うからね?」
慧遠が苦笑しながら頷く。
彼も彼で別に香苗の事が嫌いなわけではないようで、どうやら今回も厭々ながら手伝ってくれるらしい。毎度の事ながら迷惑を掛けている気がしてしまうが、それでも手伝ってくれる慧遠はいい奴だと香苗は常々思う。
昨晩、うさぎの依頼は案外にも簡単に裕が二言返事で請け負ってくれたが、裕にはまだ前の仕事のやり残しがあるらしく、うさぎの護衛は香苗達に一任する事になりそうだとの事だった。
それに対して香苗に不満は無い。うさぎの依頼を受ける事に決めたのは香苗の方なのだし、香苗は裕の言う事ならば何でも聞き入れる妹なのだから。
うさぎの依頼は庚と二手に分かれて果たす事になった。庚がうさぎの身辺を調べる一方、香苗は放課後を見計らい、うさぎを同伴させて慧遠の中学校の校門を訪れたのだった。わざわざ手間を掛けて慧遠の中学校に出向いたのは他でもない。幼馴染みの慧遠の情報収集能力を頼りにしての事だ。
神楽慧遠。
香苗の一歳年下の、幼稚園、小学校、中学校と長く一緒だった幼馴染みだ。妙に時代めいた名前なのは、実家が寺社と親密な関係にあるかららしい。前に中国の僧の名前だと聞いた事がある。
幼馴染みとは言え、香苗と慧遠に深い関係は無かった。陳腐な言葉ではあるが、飽くまで香苗と慧遠はただの幼馴染みなのだ。現在においても一緒に遊び、たまにお互いの家に泊まりに行く事もあり、頬へのキスくらいは何度かしているが、それ以上の関係性は全く無かった。
だが周囲はそうは思っていないようだった。特に慧遠は美少年だ。少し幼過ぎるきらいはあるが、大きな瞳、流れるような髪質、無邪気と言って構わないであろう仕種には多くの生徒達が恋焦がれていた。バレンタインデーなど彼の机には溢れ出さんほどのチョコレートが入れられていたし、異性から告白された回数は十数回を遥かに超え、同性に告白されたという噂も多くあった。
それだけあって香苗には敵が多かった。香苗は単に慧遠と遊びたいだけなのだが、それを妬みや嫉みの視線で見る女子生徒は非常に多く、香苗が慧遠の家に泊まりに行っている事を知った時など、群れを成して香苗を取り囲む事も何度かあったものだ。
不意に思い立って、香苗は慧遠の肩に手に回したままの状態で周囲を見渡してみる。
「相変わらずだね、こりゃ」
そう呟いてしまいたくなるくらい、射竦める厳しい視線が香苗に浴びせられていた。間が悪い事に現在は下校時間だ。帰宅途中の生徒が大勢いるからか、普段よりも遥かに多くの厳しい視線を感じさせられる。
憎悪、嫉妬、怨嗟の視線の雨霰。
温かい視線は一つとして存在しない。殆どの女子生徒、或いは少数の男子生徒が香苗を憎らしげに睨み付けていた。身体に穴が開いてしまいそうなほどだ。
理不尽な視線に香苗は何となく腹が立ち、慧遠の顎を親指と人差し指で掴んで慧遠の顔に己の顔を近付けてみる。
当然、慧遠の唇に己の唇を重ねる刹那で止めたのだが、遠目には彼女等が唇を重ねているように見えるだろう。
「うわぁ……」
またも香苗は呻く様に呟いてしまう。周囲の視線は更に激しさを増していた。
気が付くと慧遠が瞳を瞑っている。慧遠も自分達が睨まれている事に気が付いているようで、この状況を楽しんでいるらしい。やはり慧遠も香苗と同じに性格が悪い。
どうしようかな、と香苗は頭を掻くが、結局慧遠の頬に自らの唇を重ねてみる。
すぐに唇を離して、香苗は嘆息しながら慧遠から身体も離した。
「……やっぱり駄目か」
慧遠に聞こえない様に呟く。
思った通りやはり駄目だったのだ。
慧遠の頬に唇を重ねた際、香苗の中に感慨深いものが何一つ流れなかったのだ。
慧遠は弟の様な存在であるという事もあるだろうが、それにしても年頃の幼馴染みが頬にキスをするという行為に香苗は何ら感じ入るものが存在しなかった。ある意味、異常なのかもしれない。
その意味では慧遠も異常だった。慧遠もその飄々とした態度から察するに、香苗と同じく感じるものはないようだ。香苗と慧遠はやはり似た者同士なのだ。伊達に長く幼馴染みをやってはいない。
苦笑しながら溜息を吐いた香苗の腕に、不意にうさぎが自分の腕を絡ませた。
「どうしたんだ、うさぎさん?」
「いえ、あの、物凄く痛い視線を感じるんですけど」
「気にするな、いつもの事だよ」
「そうなんですかぁ……? うさぎ、怖いんですけど……」
「平気だよ」
香苗の超然とした姿に少し安心したのか、うさぎが嘆息交じりに再度訊ねた。
「それより香苗さん、今日はこの学校に何をしに来たんですか? 香苗さんの恋人さんに逢いに来たんですか?」
「今日は慧遠にうさぎさんを護衛するための情報を調査してもらいに来たんだよ」
「調査……?」
うさぎが呟くと、慧遠が洒落た紳士の如く軽く手を差し出した。
「はじめまして、悪魔さん。僕は神楽慧遠って言います。君の名前は何て言うの?」
「あ、はい! 私、怨念うさぎって言います! 怨念が苗字で、うさきが名前です! よろしくお願いします!」
昨晩と同じ言葉を言って、うさぎが深く頭を下げて慧遠の手を握った。
怨念が苗字で、云々はどうやら彼女の自己紹介のお約束らしい。
「ところで情報の調査って何なんですか?」
深く頭を下げたままでおずおずとうさぎが訊ねたが、それには香苗が答えた。
「言葉通りだよ。慧遠は情報調査のエキスパートでね。中学生ながら慧遠の情報は噂好きのおばさんの情報量を遥かに超える。慧遠に頼めば好きな相手の下着の色から、性癖、恋愛遍歴、前科、職歴、何でも丸分かりなんだよ」
「そ、それは凄いですね」
「凄いぞ、慧遠は。伊達に現役ストーカーの代表格をやってないよ」
「え……?」
言葉を失ったうさぎを気にもせず、照れた表情を浮かべた慧遠が爽やかに微笑んだ。
「やめてよ、香苗ちゃん。照れるじゃない」
「いや、事実だからな。慧遠のストーキング能力は伊達じゃない。いつも頼りにしてるし感謝してる。おまえが幼馴染みで助かってるよ」
「あの、ストーカーって……、その……」
目を伏せ、両手の人差し指を重ねながらうさぎが呟いた。真っ当な反応だ。
香苗はそれを気にしない素振りで軽く彼女の肩を叩き、高く親指を立ててみせた。
「心配しなくていいよ、うさぎさん。慧遠は別にうさぎさんのストーカーをしているわけじゃないし、天使や悪魔のストーキングをしているわけでもない。飽くまで慧遠はある人間の個人相手にストーキング行為をしているだけさ。しかも、その相手には決して気付かれないし気付かせない。誰にも迷惑は掛けないし、むしろそのストーキングで磨いた能力で、ストーカーを逆にストーキングして情報を得てるんだよ。毒を以って毒を制すってやつだね」
その香苗の言葉を慧遠が誇らしげに続けた。
「最近のストーカーは礼儀を知らないよね。相手をよく知る事だけが、ストーカーに与えられた唯一の役割なのにさ。ストーカーは調査以外を行っちゃ駄目なんだよ。相手に自分の存在を気付かせたらいけないし迷惑だって掛けたら駄目。勿論、手を出すなんて論外。相手の事を調査して調査して、自分の正体は明かさないし決して自分の存在を相手に知られる事は無い。はぁ……、堪らないよね、ゾクゾクしちゃうよ」
「うむ、流石はサイレントストーカー、慧遠。惚れ惚れする下衆さだ」
そうやって誇らしげに胸を張る香苗達を見ながら、うさぎが大きく肩を落とした。
「香苗さんのお友達には普通の人っていないんですか?」
「えっ? 皆、超普通じゃないか、蒼鬼は除くけどさ」
「そう……ですか……」
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