兎の目 四 教育係
リディアは赤城市の実家で一週間を過ごした。
六歳からの十二年間を親元から完全に隔離されて育って彼女には、両親の記憶はぼんやりとしたものでしかなく、とまどうばかりであった。
両親の方も、幼児期に育てた確かな記憶があるのだが、それとはかけ離れた娘の姿にどう接していいかわからない。
それでも両親は、どうにかまた〝家族〟として再出発することができそうだと感じていた。
しかし休暇の最終日、リディアは両親の前で改まって挨拶をした。
「お父さん、お母さん。
私はこれから赤龍帝として、自分に課せられた責任を果たさなければなりません。
ご存じとは思いますが、赤城市民二十万人の命を預かる重い責任です。
そしてそれを果たした後は、先の赤龍帝アルフレッド様がそうであったように、人としての存在を失い、赤龍の一部となって生き続ける運命です」
両親は娘の言う言葉を理解はしていた。
だが、それをどう受けとめればよいのかが、わからなかった。
リディアは二人に向かって深々と頭を下げた。
「どうか、明日からは〝娘は死んだ〟と思ってください」
そう言うと、彼女は両親の答えを待たずに部屋を出ていった。
母親は泣き崩れ、父親はおろおろとしてそれを慰めていたが、リディアが振り返ることはなかった。
翌日、赤城からの迎えの馬車にリディアが乗り込もうとした時も、親子の間にとりたてて会話はなかった。
父親が「身体には気をつけてな」と声をかけ、リディアが「お二人もお元気で」と答えたくらいだ。
ただ、別れ際、母親だけは涙を流しながら黙って娘を抱きしめた。
多分、それですべては伝わったのであろう。
* *
馬車が赤城に着いた後、勤番の兵士たちが整列をして出迎える間を、リディアは物珍しそうに進んでいった。
城内に入る大きな扉の前では、二人の副官が待っていてくれた。
彼らはリディアが近づくと敬礼して挨拶をしようとした。
「赤龍帝リディア・クルス様、よくぞいらしゃいました。
私は――」
年上のロレンソ少佐が口上を述べようとするのを、リディアは片手で制した。
「よい。堅苦しいのは抜きだ。
またよろしく頼むよ、ロレンソ。
ヒルダもだ。私は女だから、これまで以上にお前の手を借りることになろう。
すまぬが助けてくれ」
二人に笑いかけるリディアを、副官たちはぽかんとした顔で見つめている。
リディアもすぐに気がついて顔を赤らめる。
「あ、……ああ、そうか。
私たちは初対面なのだな。
その……私には先帝の記憶が混じっているのだ。
どうも君たちがいるのが、あまりに自然な気がしてしまった。許せよ」
二人の副官は互いに顔を見合わせた。
確かにフレディは別れの挨拶の中で、記憶の継承について触れていた。
ただ、見た目は華奢な少女が、妙に落ち着いた大人びた話し方をするのが、何だか奇妙で落ち着かないのだ。
ヒルダはとにかくリディアの案内をしなければと、気を取り直した。
「リディア様、まずはお部屋の方にご案内します。
荷物はすでに運ばせてありますから、まずは少しお休みください」
「ああ、頼む」
リディアはそう答えると彼女たちの後をついていく。
何だか〝心ここにあらず〟といった感じで、ぶつぶつつぶやきながら下を向いて歩いている。
「うわあああああ! やっぱりだわ!」
突然叫び声を上げた赤龍帝に、先を行くヒルダとロレンソは驚いて振り向いた。
「どうなされました、リディア様!」
「うわーっ、私、兵士の顔と名前を全部思い出せるわ!
結婚してるかとか、子どもがいるかとか、狙っている娘がいるかとかまで――なんか気持ち悪い!」
怯えたような涙目で、ヒルダの腕にしがみついているのは、確かに十八歳の世間知らずな少女だった。
* *
着任した早々から、リディアは赤龍帝の仕事を無難にこなしていった。
先代のフレディの記憶と経験を受け継いでいるので、軍務でも事務仕事でも、どう行動すればよいかが自然とわかってしまう。
赤城に勤務するほとんどの者の顔と名前も覚えているので、とまどうことがない。
ただ、それは彼女にしてみれば非常に気持ちの悪いことらしい。
「何だか知らない誰かに操られているみたい」
そうリディアが訴えることは、一度や二度ではなかった。
――何も問題はない。
当初は誰もがそう思って胸を撫で下ろしたものだ。
ところが、数週間もすると、いろいろな綻びが出てくるようになった。
先代の知識や経験を頼りに行動するのはいいが、それはフレディの悪い所まで受け継いでしまうということだ。
確かにフレディは優秀な赤龍帝であったが、すべてに完璧というわけではなかった。
彼はややがさつで大雑把なところがあり、また自己顕示欲が強く、派手で面白いことが大好きだった。
それに影響をされたのか、もともとリディアの性格がフレディに似ていたのかはわからないが(ヒルダは後者だと睨んでいた)、リディアの行動には同じような傾向が顕著に出るようになってきたのだ。
そうであってもフレディは年齢を重ねていたので、それなりの自制心を持っていた。
しかし、まだ十八歳のリディアにはそうした〝歯止め〟がなく、時として暴走しそうになり、二人の副官が慌てて押しとどめることが何度か続いたのである。
もう一つ、先帝とリディアでは性別が違う。
女性には自ずと女性らしい振る舞いが求められる。
身内の間ではまだしも、他の古都や王都からの使い、ましてや大公国からの使者と面会する時に、おっさんのような言葉遣いや身のこなしをしていては体面に関わるというものだ。
さらに付け加えるならば、こういうこともあった。
ある日、その日こなすべき決済をてきぱきと片付けたリディアは、ヒルダを呼んだ。
決裁文書の束を受け取ると、ヒルダは「お疲れさまでした」と彼女をいたわって退出しようとした。
二人がすれ違う時、ヒルダの尻がするりと撫でられたのである。
驚いたヒルダが「はい?」と言って振り返ると、リディアが自分の手を見つめて呆然としている。
「あの……リディア様?」
「きゃっ!
えっ? ええええええーっ!
あたっ、あたしったら何を……」
見る間にリディアの顔が耳まで真っ赤になる。
見かねたヒルダがリディアの手を取る。
「落ち着いてください。
触られたのは私の方ですから……」
「何であたしヒルダのお尻を触ったの?」
ヒルダには、とっくにその原因がわかっている。
「あー、それはですね……その、アルフレッド様の癖のようなものでして……」
「そそそ、そうなのよ!
何でかヒルダがすれ違う時、触らなきゃいけない気がして……。
そそそ、それで、『くそっ、相変わらずいいケツしてやがんな』って――。
――ギャーッ!
あたしったらまた何を言いだすの!」
ヒルダは溜め息をついた。
「さすがはアルフレッド様です。
赤龍と一つになった今でも女性のお尻を撫でにくるとは……。
もう見事と感心するしかありませんね。
リディア様はお気になさらないように。
別に女性に触られても何ともないですから」
* *
ことここに至って、第三軍の幹部たちは秘密裏に協議を行い、リディアの教育係にヒルダを付けることを決した。
これ以上リディアの〝オヤジ化〟が進行しては、対外的に非常にまずいことになるからだ。
となると、副官であり女性でもあるヒルダ以外、この任務をこなすことのできる人材はいない。
主だった部下たちは、リディアにこの件を呑ませるため団交に及ぼうとしたが、彼女は意外にも抵抗せず受け入れてくれた。
どうやら、同性であるヒルダの尻を撫でてしまったことが、相当にショックだったようだ。
翌日からヒルダは赤龍帝が女性として不適切な言動をした場合、遠慮を捨てて
同時に、リディアに対しては、「安易に先帝の記憶や経験に頼らずに、自分の考えで行動する」ように求めた。
厳しくするだけでなく、勤務終了後にはリディアの私室を訪ねて、一時間程度だが彼女の悩みを聞いたり、たわいもない雑談をして彼女の心理的な負担を取り除くようにも努めた。
人づきあいが不得手で、女性同士のお喋りの経験もあまりないヒルダであったが、仕える赤龍帝のためと思って、自分もできるだけの努力をしようと思ったのだ。
正直、ヒルダの話は、若い娘にとってそれほど面白くはなかったのだが、リディアはこれを歓迎した。
そして次第にリディアはヒルダを頼り、時には甘えるようになってきた。
第三軍の高級幹部にはほとんど女性はいないし、身の回りの世話をする女官たちは、立場上赤龍帝とは距離を置いた接し方をしていたので、勤務を離れてもリディアと付き合ってくれるヒルダの存在が嬉しかったのだろう。
リディアの悩みの多くは、やはり自分の中に存在する別人格の記憶であった。
それが男性で、しかも中年男であればなおさらである。
彼女は、部下の顔や名前がわかるのはありがたいが、そこにフレディの〝評価〟がつきまとうことが嫌だと訴えた。
リディアはできるだけ自分の目で確かめた評価で相手に接したいと願っていたのだ。
だが、どうしても長年部下を観察してきた先帝の評価に影響をされてしまう。
そして、時にはそれが〝どうやったら上手くこの部下を動かすことができるか〟というテクニックになっている場合が多い。
「まるであたしは先代に操られているみたいじゃない。
なのに結局便利だからそれに従ってしまう……そんな自分がもっと嫌だわ!
それと、女性に対して必ず容姿や体形に対する評価が含まれているのもよ。
いやらしい目で見ているのは汚らわしいだけだけど、気がつけばつい興味本位で男性の評価を覗いている自分がいるの。
最低だわ、あたし」
「ちなみに私に対してはどういう評価なのですか?」
ヒルダは苦笑しながらも、そう聞いてみずにはいられなかった。
リディアは少し困ったような顔をした。
「そうね――基本的には能力を高く評価しているわ。
容姿の方もね。ヒルダは色が白くて美人だから……。
……でも、あたしにはよく理解できないこともあるの。
自分に自信を持つべきだ、とか、〝この世界に執着するものを見つけるべきだ〟とか、一体何のことなのか……」
ヒルダは溜め息をついた。
「参りましたね。……正直、今の言葉は心に突き刺さりました。
さすがにアルフレッド様はよく見てらっしゃる……」
「そうなの?」
リディアはきょとんとしている。
「そうですね……。
――いつも私はリディア様のお悩みを聞いていますから、たまには私の悩みも聞いてもらいましょう。
少し失礼しますね」
そう言うと、ヒルダは上着を脱ぎ始めた。
「え? 何?」
リディアは突然のことにとまどっている。
リディアの私室でお喋りに興ずる時、二人はいつもリディアのベットに並んで腰かけている。
なので、二人の距離はかなり近い。
ヒルダはリディアのとまどいを無視して、軍服の上着を傍らに畳んで置く。
そしてカーキ色のシャツのボタンも外し始めた。
思わず引いているリディアにヒルダは苦笑して弁解する。
「別にあなたを襲ったりしませんから安心してください」
そう言って色気のない軍服のシャツを脱ぐと、やっと女性らしいレース飾りのついた光沢のある布地のスリップが現れる。
ヒルダはそれもがばっとめくって脱いでしまう。
とうとう彼女は胸を覆う短いコルセットだけの裸体となった。
リディアは思わず息を呑んだ。
肌が白い。
白いというより〝透き通る〟と言った方が近いかもしれない。
目を凝らせば皮膚の下を走る血管までが見えるようだ。
それほどヒルダの肌は透けるように白かった。
「どう思いますか?」
ヒルダは真面目な顔で尋ねる。
「……きれいだと思う。何だか怖いくらい」
「正直ですね」
ヒルダはにっこりと笑って、服を着始めた。
「そうです、きれいよりも怖いという感情が先になるのですよ。
私のこの顔もそうです。
私、あまりお化粧はしませんが、眉毛だけは描いています。それとアイラインとマスカラですね。
髪の毛だけは量があるので銀色に見えますが、眉やまつ毛は薄いので無いのと一緒なんです。
描いて見えるようにしておかないと、みんな怖がってしまうんですよ。
墓場から蘇った死人のようだってね」
再びきっちりした軍服に身を包むと、ヒルダはリディアの顔を覗き込んだ。
「それだけではありません。この赤い目のおかげで、私は子どものころからいじめられてきました。
魔導院に入ってからも、十二年間クラスの女子から無視され続けました。
もちろん、友だちなど一人もできませんでした。
両親は私が魔導院に連れ去られると、国から出た支度金を持って行方をくらませたそうです。
――そんな私に〝自信を持て、誰かを愛せ〟と言うのは、残酷だとは思いませんか?」
リディアは何も言えなかった。
ただ、頭の中には「違う、そうじゃない!」という叫び声が鳴り響いている。
「何だか馬鹿げた振る舞いをしてしまいました。すみません。
ただ、私がどんな人間か知っていただきたかっただけなのですが……。
不思議ですね。私はもっと抑制のきいた人間だと思っていましたが……どうしてなんでしょう。
――え?」
ヒルダは驚いた。
リディアが自分の腕にしがみついて、顔を埋めていたからだ。
彼女は肩を震わせて、泣いているようだった。
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