兎の目 二 赤龍帝アルフレッド

 赤城市の城壁外には、他の古都と同様に新市街と呼ばれる新興街区が広がっている。

 そして新市街のさらに外側の郊外には、長屋状の宿舎が何棟も立ち並んでいる地区がある。

 その宿舎に隣接した広大な空き地が第三軍の練兵場で、休暇明けの兵士が年に四か月間の訓練を受けている。


 四か月という長い休暇で衰えた戦技・体力の向上が目的ということになっているが、実質的には人件費削減のためである。

 そもそも休暇中の兵士には俸給が出ない。

 一応、本給の一割程度の手当は支給されるのだが、当然それでは食っていけないので、休暇中の兵士は彼らの互助組織が紹介する職場で働かねばならない。

 そして休暇明けの訓練期間中は、本給の六割支給ということになっているのだ。


 練兵場は、三千人以上の兵士が二手に分かれ、集団で模擬戦を行ったりするのでかなりの面積がある。

 その広い練兵場が、その日は一万人近い兵士たちで埋め尽くされていた。

 訓練中の兵士はもちろん、勤務中の者、休暇中でいつもなら工事現場などで働いている者までが、軍装を纏って集合していた。


 さらにその周囲を兵士以上の数の一般市民が取り囲んでいる。

 誰もが赤龍帝アルフレッドの姿を一目見ようと集まっていたのである。

 彼がこの世界を去ること、そして週明けに第三軍の兵士に訓示を与えるというニュースは、赤城市民の間にあっという間に広がり、週末にかけてありとあらゆる場所で、全ての階層の人の間で話題の中心になった。


 アルフレッドは市民たちに好かれていた。

 尊敬というより親近感をもって、彼らは赤龍帝を〝髭のフレディ〟とか〝筋肉ダルマ〟などというあだ名で呼んでいた。

 もちろん、彼は第三軍を統率する将として、申し分のない実績を挙げていたし、陽気で男らしい性格は市民の誇りでもあった。


 一方で、女の尻を追いかけるのが大好きで、何かというと上着をはだけて胸毛の濃い筋肉質の身体を見せつけたがるという悪癖もあったのだが、そんなところも含めて愛されていたのである。


 兵士や市民たちは、夜になると酒を酌み交わし、彼の功績(彼の任期中、大公国に派遣された第三軍は一度も負けなかった)や新たな赤龍帝の予想で盛り上がった。

 そして胸の締め付けられるような思いで、アルフレッドの最後の言葉を聞きに行こうと誓い合ったのだ。


      *       *


 アルフレッドは急遽造られた高い演壇の上に、赤龍帝の正装で立っていた。

 鎧の主要部に取り付けられた赤いメッキの金属プレートが陽を受けて輝き、筋肉質の堂々たる体格は、まさに一軍の将にふさわしい威厳があった。

 彼はよく通る大きな声で話すことができたが、さすがに数万人の観衆すべてにまで声を届けることはできない。


 しかし第三軍には、エコーという妖精ニンフを使役する召喚士がいて、この幻獣は〝遠くの場所まで声を伝える〟ことができた。

 普段は伝令役として重宝されていたのだが、今回はその能力を使って赤龍帝の言葉を隅々まで届けるようにと待機している。


 しんと静まり返る練兵場に、赤龍帝の張りのあるバリトンが響いた。


「兵士諸君、そして赤城市の市民たちよ。

 今日はこうして集まってくれたことに感謝しよう。

 もう既に聞いているだろうが、私は赤龍帝としての役目を終え、人としてはこの世界から退場することとなった。


 思えば二十数年前、私が初めて赤龍を召喚し契約をした時、ドレイクは先代赤龍帝の知識と経験を私に与えてくれた。

 未熟な若造だった私が、曲がりなりにも赤龍帝の責務を務めてこられたのも、代々受け継がれてきた多くの赤龍帝の智慧があったればこそだ。

 同時に部下たちの献身と市民の協力がなければ、私は軍と行政の長としての重責に耐えられなかったであろう。


 ここに万感の思いと共に、心からの感謝を捧げたい!」


 そう言うとアルフレッドは深々と頭を下げた。

 静まり返っていた聴衆からは、万雷の拍手が起きる。

 鳴り止まない反応が、やっと静まったのを見て、彼は再び言葉を継ぐ。


「皆も知ってのとおり、召喚士はその能力が尽きると、契約に従って幻獣界へと去り、新たな幻獣に転生する定めだ。

 しかし、四帝の場合のみはそうではない。

 我らは転生することなく、その魂魄は神獣に吸収される。

 そしてその魂と一つになり、永遠にこの国と赤城市を見守り続けるのだ。


 だから私が去るからといって悲しむことはない。

 私は常に諸君らと共にいるのだから――」


 アルフレッドがそこまで言った時、突然集まっていた聴衆の頭上が翳った。

 陽光を遮った影は、その場の人間たちを思わずしゃがみこませるほどの風圧をかけて羽ばたき、ふわりと赤龍帝の背後に降り立った。

 赤龍ドレイクである。


 巨大なドラゴンの身体を覆う赤銅色の鱗が鈍く輝き、長い首の先にある頭からは知性を湛えた両眼が人びとを見渡していた。

 神獣はめったなことでは姿を現さない。

 城勤めがある兵士は別だが、市民たちの半数以上は初めて間近で赤龍を見たことであろう。


 嘆声とも溜め息ともつかぬ低いどよめきが起きる中、赤龍帝は振り返って長年の相棒を見上げた。

「なんだ、ずいぶん早いではないか。

 まだ暗記した原稿の半分も喋ってないのだぞ……」


 そう言って苦笑するアルフレッドの顔は、どこか寂しげであった。

 何か言いたそうな赤龍を彼は片手で制し、再び聴衆に向き直って声を張り上げた。


「すまぬがもう時間がないそうだ。

 私の二十年余の経験は、次の赤龍帝に受け継がれる。

 いわば私の分身という訳だ。

 どうか、その若者を助けてやってほしい。


 ――では諸君、さらばだ!」


 赤龍帝がひときわ大きな声を張り上げた瞬間、ざっと強い風が吹いた。

 練兵場の乾いた地面から土埃を巻き上げた突風が過ぎるのを、聴衆は目を瞑って待った。

 その時、人びとは「ゴトッ」という重い音を聞いた。


 風が通り過ぎ、皆が目を開けた時には、壇上にアルフレットの姿はなく、そこには赤龍帝の衣装、そして剣と鎧が転がっているだけだった。


      *       *


 アルフレッドが消えたのは十月はじめのことである。

 二か月後には王都の魔導院で召喚の儀式があり、いつものとおりなら、そこで新しい赤龍帝が誕生するはずだ。

 それまでの間、赤龍帝の職務は二人の副官、即ちロレンソ少佐とヒルダ大尉が務めることになる。


 彼らより階級が上の者は何人もいるが、これは副官の職分なので関係がない。

 軍務の方はどうということもないが、赤龍帝は第三軍の司令官であると同時に、地方行政長官でもあるので、そちらの方が大変だった。

 二人の副官は煩雑な事務手続きを、事務方の協力を仰いでどうにかこなしていたが、どうしても先任であるロレンソ少佐が軍務、ヒルダが政務という役割分担になりがちだった。


 幸いヒルダはそうした事務処理能力にけていたのだが、連日の残業続きで疲労困憊していた。

 ついつい、南方で紛争でも起こって、偵察任務があればいいのに――と思ってしまう。


 十二月も半ばを過ぎた頃のことである。その日も決済すべき書類をやっと片付けた頃には、もう夜の十時を回っていた。

 南部地域とはいえ、この時期、夜ともなればだいぶ冷える。

 ヒルダは椅子の背もたれに背中を預け、腕を高く上げて大きく伸びをした。

 そして、ばたりと事務机の上に顔から倒れ込む。


「あらあら、だいぶお疲れのようね」

 横から聞き覚えのある声がした。

 ヒルダが片目を開けると、両手にティーカップを持った女性が立っている。


 事務官のミーナだった。

 彼女はもう四十歳近いベテランで、何かとヒルダを手伝ってくれる陽気な女性だ。

 ミーナはヒルダの顔の前に湯気の立つティーカップを置いた。


 その香りは紅茶ではなく、コーヒーのものだ。

「あーーー、助かるわぁ……」

 ヒルダはのそのそと起き上がって、ブラックのコーヒーを啜る。

 火傷しそうに熱いコーヒーは、濁った意識を少し晴らしてくれた。


「どうにか仕事は片付いたようね」

 ミーナもそう言いながら自分のカップに口をつける。

 彼女もまた王都に上げる報告書と、今の今まで格闘していたのだ。


「これだけの仕事をアルフレッド様がこなしていたなんて、信じられないわ」

 ヒルダはつい愚痴りたくなる。

 ミーナはそんな彼女の頭を「よしよし」と撫でてくれた。


「フレディは要領がよかったからね。

 見た目が脂ぎった筋肉中年なのに、有能だっていうのは、何だか納得いかないけど」

 ミーナは軍人ではないので、市民と同様にアルフレッドを〝フレディ〟と親しみを込めて呼ぶ。


「それに、毎日決済書類を受け取りに行くたびに、お尻を撫でられやしないかと緊張する必要がないってのは、ちょっと寂しい気もするわね」

「あら、ミーナまでお尻を触られてたの?」

 ヒルダは少し驚いた。

 ミーナは若くない上に恰幅がよく、お世辞にも美女とは言えなかったからだ。


「まぁ、失礼ね。

 フレディに言わせれば『女はデカいケツに限る』そうよ。

 『お前のそのケツを二つに割って、顔を埋めてみたい』だって。

 お尻なら最初から割れてるのに、やーね」


 二人の女性はそこで爆笑した。

 夜遅くまで仕事を続けて疲労した時にはよくあることだ。

 しばらく笑い転げて、目尻から涙をぬぐったミーナは、何かを思い出したように笑いを収めた。


 ここは事務官用の執務室で、もうほかの職員はとっくに帰って誰もいない。

 それがわかっているのに、ミーナは素早く左右を見回した。

 そして、ヒルダの耳元に顔を寄せる。


「さっき王都から届いた最新のニュースよ。

 次の赤龍帝が決まったって!」


 ヒルダの顔からさっと笑いが消えた。

「ほんと? どんな人なの?」


 ミーナはさらに声をひそめた。


「名前とか詳しいことはまだわからないの。

 でも、女の子ですって!」


      *       *


 新しい赤龍帝が誕生したという噂は、すぐに市民の間まで広まった。

 数日を経ずして、それがリディア・クルスという名の女性であることも伝わり、その報せは大きな驚きをもって迎えられた。


 国家召喚士同様、四帝になる者はなぜか男性が多い。


 十年ほど前、蒼龍帝が代替わりした時に、フロイアという貴族の娘が就任した際は国中が驚いたものだ。

 代替わりからしばらくの間、珍しい女蒼龍帝を一目見ようと、地方からも蒼城市に見物客が押し寄せたくらいだ。


 赤龍帝が十八歳の少女ならば、四帝の半分が女性ということになり、これは王国の長い歴史でも初めての事態である。

 赤城市民は驚きから覚めると、どうにかしてリディアの詳細を知ろうとやっきになった。


 彼女の赴任は新年早々ということが決まっている。

 それまでの一週間ほど、リディアは生家に十二年ぶりの里帰りをすることになっていた。

 ところが、その生家とは赤城市内だというのだ。


 つまり、彼女は女性であっても赤龍帝の伝統に適った南方人、それも生粋の赤城っ子であったのだ。

 彼女の生家はコーヒー豆の卸問屋を営む商人だった。

 そう大きな問屋ではなく、暮らしぶりで言えば〝中の上〟といったところだ。


 たちまち市民たちはこの問屋に押し寄せ、彼女のことを聞き出そうした。

 主人夫婦は六歳で生き別れとなった娘の、幼女時代の微笑ましい思い出を得意げに語るだけではなかった。

 リディアの名を冠したブレンド豆を売り出し、商魂の逞しさを見せることも忘れなかった。


 余談だが、このコーヒー豆は一時的な流行に終わらず、長く愛される赤城市の名産品となった。

 〝主人夫婦が愛らしかった娘の思い出をイメージしてブレンドした〟というのが謳い文句で、実際質の良い豆が使われ、苦みが少なくまろやかな味であったので、特に女性に歓迎された。


 「リディア・ブレンド」というのが当初の商品名だったが、リディアが赤龍帝に就任するとすぐにこの名で呼ぶ者はいなくなった。

 誰もが「プリンセス・ブレンド」と呼ぶようになり、後には単に「プリンセス」となり、商品名自体もそう変わったのである。


 そして、彼女が王都を出発したという報せと同時に、決定的な情報がもたらされた。

 リディアが華奢な〝美少女〟であるという事実だ。


 ことここに至って、赤城市民の興奮は頂点に達した。

 かくてリディアは、史上最も熱狂をもって迎えられる赤龍帝となったのである。

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