黒龍野会戦 十一 野戦参謀本部
マリウス中尉の尋問に基づいて、王国側は徹底した上空偵察を実施した。
要するにアランとロック鳥をタブ大森林の東部から呼び戻し、連日黒城市対岸とその周辺帝国領の偵察を命じたのだ。
その結果、分散し巧妙に擬装された兵力が、相当数コルドラ大山脈東部に進出し、活発に移動していることが明確になった。
その数は一万人強である。
アリストアをはじめとする参謀本部の高級将校たちは、黒城内に野戦参謀本部を設置して情報収集と対応指示に当たっていた。
「少なすぎますねぇ……」
ごま塩頭の参謀将校が不満げな顔でつぶやいた。
一万人の兵力は大軍ではあるが、北方の防衛拠点である黒城市に駐屯する第二軍と同規模である。王国に攻め込むには少なすぎる。
軍事国家である帝国は、戦いでは常に相手の数倍の兵力を投入するのが伝統となっていた。
本気で王国に宣戦を布告するつもりなら、少なくとも十万以上の兵力が投入されなければならない。
「現在集結しつつある兵力は先遣隊で、戦端が開かれるのと同時に、後続の本隊が送り込まれるのではないでしょうか。
大隧道に本隊が隠されているとすれば、ありえない話ではないと思います」
若手の将校が進言する。
その意見は多くの参謀たちの同意を集めることになった。
大隧道とは、コルドラ大山脈に掘られたトンネルの総称である。
大陸の東西を分断している山脈に対して、帝国が百年以上の歳月と膨大な人員と物資を投入して掘りぬいたトンネル群だ。
その数は二十本とも三十本ともいわれ、総延長は五十キロに及ぶとされている。
このトンネルの開通によって、帝国は山脈東部への侵出を可能にさせ、〝大東進〟といわれる領土拡張を成功させた。
そして、内陸国である帝国の悲願であった、外海に通じる港を得たのである。
「しかし、問題はどこで渡河するかです。現在敵は黒城市より西方、大隧道の出口に近い付近に集中しています。
クレア港とは盛んに行き来していますから、やはりそこから船で一気に下流に下って上陸するつもりではないでしょうか」
クレア港とは、黒城市の対岸にある帝国の川港で、そこに築かれた町の名でもある。
「では、兵員輸送用の船の集結がどこにも見られないのはどういう訳だ?」
そこで議論は停滞してしまう。
この数日、同じような議論が繰り返され、結局同じ問題に行き着いてしまうのだ。
王国に攻め入るためにはボルゾ川を渡らなくてはならない。
黒城市より上流は、川岸が断崖になっていて船での渡河は不可能である。
大隧道から最短距離にある渡河可能な地点はクレア港であるが、その対岸には大軍が展開する黒城市が待ち構えている。
ならばクレア港から船で川を下り、防御が整っていない任意の川港に上陸すれば侵入は容易だろうが、兵員を輸送するための船がどこにも存在しない。
現実的な話ではないが、陸上を移動して下流域で渡河しようとしても、結局は川を渡るのに船が必要となる。
もう一つ問題があった。宣戦を布告する名分がないのだ。
もちろん、他国へ軍を侵入させれば、相手国との戦闘が始まり、自動的に宣戦が布告される。
しかし、それでは一方的な侵略戦争ということになってしまい、他国から永久に非難を受けることになってしまう。
帝国はあまたの戦争を起こしてきたが、どんな小さな戦争でもそれなりの名分を立てていた。
現在、帝国と王国の間には係争地がない。ボルゾ川で明確に領土が分けられているので、言いがかりをつけようにもその取っ掛かりがない。
わずかにノルド地方の住民保護を名分にできそうだが、同地はボルゾ川最上流部で渡河が不可能だ。
はるか下流の辺境地帯あたりから上陸して、ノルド地方まで攻め上るのでは無理があり過ぎる。
帝国が侵略を企てているのは間違いないが、その目的も、手段も見当がつかない。
参謀本部の将校たちは日に日に憔悴していった。
* *
黒城内に設けられた執務室でアリストアは頭を抱えていた。
机に積み上げられ、雪崩を起こしそうな資料の山と格闘し、何か見落としていることはないか、血走った目で凝視しても答えが出てこないのだ。
駄目だ。少し休憩しなければ、よい案も浮かぶまい。
アリストアは気持ちを切り替えるため、控えの間に待機しているはずの秘書にコーヒーを頼もうと声を上げかけた。
それを待っていたように、コンコンという控えめなノックの音する。
さすがはロゼッタだ。
アリストアは満足して「何だ?」と答える。
すぐに秘書官が扉から顔を覗かせる。
「コーヒーでもいかがですか?」
彼女はそう言うはずだった。
「アリストア様、ユニさんが面会を求めているそうですが、いかがいたしますか?」
アリストアの頭の中を覆っていた霧が一気に晴れ、頭脳が急激に回転し始める。
――そうか、そうだな。いいかげんユニが怒鳴り込んでくる頃合いだ。
私は無益な思考に絡み取られて、どうも冷静な判断を欠いていたらしい。
「むろん、通したまえ。
それと、何かとっておきの甘いものを出してあげなさい。
女性の怒りを鎮めるには、あれが一番効果があるからね。
もっとも、ユニの場合は冷えたビールなのかもしれんが……」
秘書官はくすくすと笑いながら引っ込んでいった。
アリストアの予想どおり、ユニは憮然とした表情で入ってきた。
「やあ、ユニ。
ずいぶん機嫌が悪そうじゃないか。
何か嫌なことでもあったのかね?」
いつもどおりのご挨拶に、ユニの眉間の皺がますます深くなる。
「ええ、ええ、悪いですとも!
モラン村の時も言ったはずですけど、いいかげん回りくどいことはやめてください!」
参謀副総長は「ふん」と軽く鼻を鳴らした。
「その様子だと、こちらの意図は伝わっているようじゃないか。
ならば何も問題はないだろう」
「大ありです!
アスカを巻き込む必要がどこにあるんですか?
私のようなしがない二級召喚士を囮にするのはいいですけど、アスカは有能な軍人ですよ。
犠牲は私だけでいいはずです。違いますか?」
「まぁ、待て。
少しは落ち着きたまえ。
――ロゼッタ、お茶はまだかね?」
顔を真っ赤にして詰め寄るユニに辟易して、アリストアは援軍を呼んだ。
すぐにロゼッタが銀のお盆にお茶道具と可愛らしいカップケーキをのせて運んでくる。
「座りたまえ。そちらで話そう」
応接セットに座るようユニを促し、アリストアも机から離れてソファーのような椅子に席を移した。
テーブルの上には、ロゼッタが淹れてくれた紅茶がバラのような香りを漂わせている。
アリストアに勧められるまま、ユニもカップを手に取って熱いお茶をすする。
冬の寒気の中、ライガの背中にしがみついて駆け抜けてきたのだ。身体はすっかり冷え切っていただけに、それはユニの身体に染み込んで、心まで暖かくしてくれるような気がした。
ユニが多少なりとも落ち着いた様子を見せたので、アリストアは会話を再開する。
「君は何か誤解しているようだが……。
まず、現時点では、帝国はわが国へ侵入していない。
したがって戦闘は起きていないし、君やノートン大佐を囮にする必要もない」
「でも、それは時間の問題ではないのですか?」
アリストアは現在、参謀本部を悩ませている問題をかいつまんで説明した。
「帝国がどんな手段で、どれくらいの規模で現れるかはわからんのだ。
ただ、備えはしなければならん。
情報では〝爆炎の魔女〟が派遣されているらしい。
もし対峙した場合、彼女の爆裂魔法への対処が必要となるのは事実だ。
我々が君とアスカがいい餌となりそうだと考えていると疑っているのなら、それもしかりだ。
だが、我々に君たちをむざむざ爆裂魔法の餌食にするつもりなど、微塵もない」
「……どうだか」
ユニが横を向いてぼそっとつぶやいた。
アリストアは盛大に溜め息をついて肩を落とした。
「どれだけ私は信用がないんだ。
君は私という人間を完全に誤解しているぞ。
……まぁ仕方がない。
ロゼッタ!」
上司の声にすかさず控えの間の扉が開き、秘書官が顔を覗かせる。
「お呼びですか?」
「すまんがマリウス君とリリを呼んでくれたまえ」
「はい。お待ちいただいております。
お二人とも、どうぞお入りください」
ぽかんとした顔のアリストアを見るのは胸のすく思いだ。
ユニは握った手の親指を立て、ロゼッタに向かって「グッジョブ!」という賞賛を伝えた。
彼女は上司に気取られぬよう、すばやくウインクをして引っ込む。
部屋の中には亡命を希望している元帝国軍のマリウス魔導中尉ともう一人、ユニよりさらに小柄な少女が不安そうな顔でおずおずと立っている。
ゆるやかなウェーブがかかった長い黒髪、黒目がちなうるんだ瞳に幼げな顔立ち。
しかしよくよく見れば、控えめだがきちんと化粧もしており、見た目よりは年齢が上らしい。
厚手のスカートにブラウス、カーディガンを纏い、外套のようなケープを羽織っている。
「……まったく。
私の秘書官は、時々超能力者かと思うよ。
あーユニ、にやけた顔をしまいなさい。
マリウス中尉のことは当然知っているとして、リリは覚えているかね?」
ユニは首をかしげた。
「リリ? リリ……。ああ、リリ!
大人になってるからわからなかったわ。
でも、顔つきはあんまり変わっていないわね。久しぶりだわ」
その女性は、魔導院でユニが十四年生だった時に入学してきた後輩だった。
ということは、今年の春に魔導院を出たはずだ。
「ここにいるってことは……リリ、あんたひょっとして国家魔導士になったの?」
リリは慌てて顔を横に振った。
「いえいえいえ、国家召喚士なんてとんでもないです!
私はただの二級召喚士で、王都の劇場で働いていただけです。
どうしてここに連れてこられたのか、さっぱりわからなくて……」
「それはこれから説明しよう。
あまり怖がらなくていいですよ。
マリウス中尉が防御系の障壁魔法の遣い手だということは知っているね?」
ユニは黙ってうなずいた。
「彼からいろいろ聞いたのだが、実に多彩な障壁魔法を操ることができるらしい」
ユニは中之島のことを思い出した。
本物のライカンスロープの攻撃すら跳ね返す絶対防御。あれは確かに強力だ。
「つまり中之島で見た防御魔法で、私とアスカを護ろうというのですか?」
マリウスがにこにこしながらそれを否定する。
「あー、あれは物理攻撃用なんですよ。たいていの魔法攻撃はその場で起きる現象の連続ですから、そういうのには無力なんです」
ユニは少し混乱した。
「ごめんなさい、よく意味がわからないわ。現象の連続ってどういうこと?」
青年の笑顔は変わらなかったが、少し困ったような顔をした。
「えーとですね、魔法で石を飛ばすような攻撃なら、物理攻撃ですから防げるんです。
でも、例えばファイアボールで攻撃された場合を考えてみてください。
あれは空中で急激な酸化現象を連続して起こす魔法で、空気中の二酸化炭素を一酸化炭素に変換して、酸素と反応させるわけです。
大気が存在してさえいれば、可燃ガスである一酸化炭素が発生する現象の移動とともに、切れ目なく燃焼が継続するわけで……」
「ちょっ、ごめん! あなたが何を言っているのか、さっぱりわかんないんだけど」
「そうかぁ……王国では魔法化学や物理は普及していないんでしたっけ。基礎中の基礎なんだけど……。
えーと、じゃあ理屈は抜きにして、とにかく対物障壁では、魔法攻撃は防げないんだって思ってくれればいいです」
一気に簡単な説明になったのでユニはほっとした。
そこでふと、あることに気づいた。
「ちょっと待って。
あなたたち、中之島じゃその対物障壁とかを張ったら、中から魔法攻撃ができなかったじゃない。
それはどういうことなの?」
マリウスは「困ったなぁ~」という顔をした。
説明はできるのだが、それをユニに理解させられる自信がなかったのだ。
「それはですね……。
魔法現象が連続して起こってしまえば、物理的な力はいらなくなるので、対物障壁は魔法攻撃に無力なわけです。
でも、その魔法現象が連続して起きるまでには、ある程度の物理的な刺激が必要なんですよ。
その物理刺激も魔法で生み出すわけですから、高度な魔法は何重にも魔法が絡み合っているんです。
とにかく、狭い範囲の対物障壁の中では、魔法が威力を発揮する前に効果が消えてしまうのだと思ってください」
「それじゃ、魔法攻撃が防げる障壁魔法はないの?」
「もちろんありますよ」
ユニの眉がきゅっと上がった。これまでの頭が痛くなる説明は何だったのだ!
「だったら、最初からそっちの説明をしなさい!」
「いや、だって……そっちが先に対物障壁の話をするから……」
「男がグダグダ言い訳をするんじゃない!
魔法用の障壁魔法があるなら、爆裂魔法も防げる。そういうことなんでしょ?」
マリウスはちらちらとアリストアの方に視線を送った。
明らかにユニに叱られるのが嫌で、説明を代わってもらいたそうだったが、アリストアは当然それを無視する。
誰がそんな役割を引き受けるものか。
青年は情けない顔で説明を続けた。
「それがですね、ちょっと問題があるんですよ」
「どんな?」
「対魔障壁は範囲があいまいな魔法なんです……」
「どゆこと?」(イラッ)
「つまり、対魔障壁は魔法を撥ね返すものではなく、障壁の範囲内での魔法現象の発生を阻害するものなんです」
「だから?」(イライラッ)
「対魔障壁そのものには明確な範囲が存在しないので、その効果範囲を設定してやる必要があるんです。
具体的には、対物障壁のような効果範囲がはっきりしている魔法に重ねがけをすることになります」
「くどいわ。つまり?」(イライライラッ!)
「そうした効果範囲が明確な障壁魔法は強力な分、あまり広い範囲をカバーできないってことです」
ユニは溜め息をついた。
「要するに爆裂魔法は防げるけど、その範囲は狭いってことでしょ?」
「……はい」
「……あんた、説明するのに向いてないわ」
「……すみません」
ユニは気を取り直す。
「爆裂魔法は広範囲に効果を及ぼす魔法だったわね?」
「ええ」
「じゃあ、私とアスカを対魔障壁で守ったとして、その周りにいる兵士はどうなるの?」
「吹っ飛びますね。それはもう、見事なまでに身体がバラバラになって四散することになりますね」
「だったら、私たちの周囲には誰も近づけなければいいってことね!」
「それでは囮にならんだろう」
やっとアリストアが口を挟んだ。
「いくら激情家のマグス大佐も、そこまで馬鹿ではないはずだ」
「なら、この作戦自体無意味ではありませんか?」
ユニの抗議は当然である。
「だからこそ、リリを呼んだのだよ。
リリ、君の幻獣を見せてくれないかね?」
リリは少しもじもじしていたが、ケープで隠れた懐から何か光るものを取り出した。
肩から下げた袋の中に、青白く発光する子どものような人型の幻獣がちょこんとおさまっている。
ユニは一瞬、魔導院で講師を務めていた時に遭遇したピクシーを思い出した。
リリが差し出したのは、それよりずっと大きく、虫のような翼もなかった。
「私の幻獣……ミラージュの妖精です」
妖精族は非常に種類が多い。
ピクシーのように、ほとんど知能を持たないものから、妖精王のように深淵な知識と魔力を持った存在まで、寿命も霊格もさまざまである。
ミラージュは四大元素の精霊――エレメンタルほどではないが、それなりの知能と能力を持った中級の妖精だといえる。
その能力は幻影を作りだすことで、普通の人間ではそれを見破ることができないとされている。
しかし所詮は幻影であり、攻撃力など一切ない。
ミラージュを召喚したリリが、二級召喚士と判定されたのは至極当然であった。
彼女には辺境でオークを狩るという選択肢はなく、王都の劇場で特殊効果を担当するという道を見出したのである。
「リリ、この部屋に幻影を出すことは可能かね?」
アリストアの問いにリリは小さくうなずき、ミラージュに何かをささやいた。
一瞬ではあるが、部屋の空気がゆらりと揺れたような気がした。
すぐにその感覚は収まったが、その時にはユニたちの前それぞれに、自分と同じ姿をした人物が立っていた。
鏡とは違う。自分が身動きしても、相手は同じ動作をしない。
アリストアが自分と同じ顔の前で手を振ってみると、その幻影は軽蔑したかのような口調で「君は何をやっておるのかね?」とのたまった。
彼が慌てて「もういい、幻影を解いてくれ」と言うと、即座に彼らは消え失せ、何の痕跡も残さなかった。
アリストアは咳払いをして自らの威厳を取り戻した。
「つまり、リリの幻獣の力で幻の軍隊を作りだす。
わが軍には一切の損害を出さない。
どうだユニ、これなら文句はあるまい?」
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