夢の誘い 三 夜の訪問者

 イネ村はゴーマの言うとおりの所だった。

 村は二・五メートルほどの高さの太い木塀で囲まれ、その周囲には野菜や小麦の畑が広がっている。

 遠くの方からは放牧されている羊の鳴き声がのどかに聞こえてくる。

 村の門は開け放たれていて、見張り番もいなかった。


 オオカミたちはライガを残して村人の目に入らないように森を目指す。

 彼らは森で自分たちの食料を狩らなければならない。ライガの分はあとでヨミが運んでくることになっていた。

 荷物は牛車ごと後で運び入れることとして、二人はとりあえず役屋を訪れた。


 この村の肝煎きもいりはアリという男だった。百八十センチ余のゴーマと同じくらい背が高いが、やせ形でそう逞しいという体つきでもなかった。

 アリは近くにいた若者に何事か言いつけると二人を出迎えた。


「よくおいでくださった。肝煎をしておりますアリ・ヤンデルと申します。そちらは……確かゴーマさんでしたな。

 お嬢さんの方は初めてと思いますが……」

 軽く握手を交わし、ゴーマがユニを紹介する。

「こちらはユニ・ドルイディア。オーク狩りに関しては名の知れた召喚士だ」


 ゴーマの言うとおり、辺境ではユニは結構な有名人なのだが、アリはよく知らないようだった。ニコニコしてユニと握手を交わす。

「さっそくだが、依頼の内容について詳しい話を聞かせてくれ」

 そう言って椅子を引き寄せたゴーマの動きをアリが手で制する。

「それについてはここではなく、マリサ、――依頼にもあったくすですが、彼女の家で説明いたします」

 そう言って付いてくるように手招きをする。

 ゴーマとユニはその後に続いた。


 マリサの家は村はずれ、村を囲む木柵から五メートルほどしか離れていない場所にあった。

 小さな萱葺き屋根の家の前にはよく手入れされた花壇があり、美しい花々が咲き誇っていた。

 アリが扉をノックすると女性の声が応え、肝煎は中に入った。ゴーマとユニも後に続く。


 家の中にはそれと分かる薬草の匂いが漂っていた。

 内部はきれいに整頓されており、小さなテーブルの上にはお茶の用意がされている。

 マリサは、ふっくらとした優しそうな顔立ちの女性だった。若いころはさぞかし美しかっただろう、そんな顔だった。

 年齢は四十歳を少し越えたくらいだろうか。

 質素なブラウスに藍染めの厚手のスカート、たくさんの染みがついたエプロンをしている。

 彼女の傍らには、十代後半と思われる若い男が控えていた。


 「私はマリサ・ドーエン、この村で薬師をしております。

 こちらはハンス。近所の子で、薬草摘みの手伝いをしてくれています」

 マリサに紹介された若者は、ぺこんと頭を下げる。

 続いてアリがゴーマとユニを紹介する。

 二人が召喚士と聞いて、マリサは一瞬眉根を寄せた。


 辺境において、召喚士はオークを狩る血なまぐさい職業と認識されているので、特に女性はそういった反応をすることがある。

 ゴーマはそれが面白くないのか、彼女から目をそらしてむすっとしている。

「ハンスよ、まずは三日前の夜に起きたことを話してくれないか」

 全員が椅子に腰をおろすと、アリはただ一人立ったままの若者に命じる。彼は素直にうなずいて話し始めた。

 これまで何度も説明してきたことらしく、よどみない話しぶりだった。


      *       *


 その夜、ハンスは自分の粗末な寝床で目を覚ました。

 麦わらの芯を大きな麻袋に詰めた〝しべ布団〟は、彼の体重と寝汗で潰れ寝心地のよいものとは言えない。

 それでも一度寝付くと、朝に母親から叩き起こされるまで目が覚めることなどめったになかった。


「何だか誰かに呼ばれたような……」

 ハンスはぼんやりした頭でつぶやいた。同時にぶるっと体を震わせる。強い尿意に気づいたのだ。

 暖まった寝床から抜け出すのは嫌だったが仕方がない。


 便所は家の中ではなく、外の庭に建てられていた(当時の辺境ではそれが普通だった)。

 勝手口から外履きをつっかけ、かんぬきを外して外に出る。

 夜空には雲もあったが月と星が見え隠れして、庭を薄暗く照らしている。


 便所で放尿の快感を味わったあと、ハンスは寝床に戻ろうとしたが、庭の途中でふと隣のマリサの家が目に入った。

 十メートルも離れていない家の窓からは明かりが洩れている。

 マリサは「真っ暗だと眠れないの」と言って、夜中小さな明かりを灯していた。


 普通の家ではそのような贅沢を許すはずがなかったが、一人暮らしのマリサを叱る者はいない。

 彼女は薬師らしくミツバチの巣のありかをよく知っていて、かなりの量の蜜蝋みつろうを蓄えていた。

 それは食料や化粧品、薬の材料ともなったが、蝋燭を作ることもできたので、マリサにとって夜の明かりはそれほどの〝贅沢〟ではなかった。


 ハンスには見慣れた隣家の様子であり、気に留めるようなことはなかったが、その時はなぜか目をそらすことができなかった。

 何か妙な違和感があるのだ。

 やがて彼は、窓から漏れる光がかすかに揺れ、明るくなったり急に暗くなったりしていることに気がついた。


 もう真夜中、多分午前二時ころだろう。

 いつも早起きのマリサさんが、こんな時間まで起きているはずがなかった。

 気になったハンスは隣家の方へ向かった。

 戸締まりがされているだろうから、気が咎めるが窓から様子を窺ってみようと思ったのだ。


 しかし、垣根を越えマリサの家の庭に入ったハンスは異変に気づいた。

 扉が開け放たれていたのだ。

「マリサさん!」

 慌ててハンスは開いている入口から飛び込み、居間を数歩で駆け抜けると、寝室で寝ているはずのマリサの安否を確認しようとした。

 ところが寝室の扉も入口と同様開け放たれていたのに、中に入ることができない。

 寝室を入ったところに何か大きくて黒い物体が立ちふさがっているのだ。


 ハンスは両手でそっとその障害物に触れ、正体を確かめようとした。

 それが何かはすぐに分かった。

 短い体毛に覆われた筋肉の塊りの感触。熱い体温。鼻をつく獣臭。

「オーク?」

 ハンスの全身がすっと冷たくなり、手足がガタガタと震え出す。

 彼の目の前には、身の丈二メートルほどのオークが立っていたのだ。


「殺される!」

「逃げなくちゃ!」

 ハンスの頭の中に浮かんだ思いはその二つだった。

 それなのに足がすくんで動けない。

 足だけではない、彼の手はオークの背中に当てられたままで、それを引きはがすことができないでいた。


 ハンスにとって、永遠とも思われる時間が過ぎ去った。

 実際は数秒間だったのかもしれない。

 手足が冷たく、目の前が暗くなり、意識が遠のいて気を失いそうだった。

 周囲の音が何も聞こえなくなった中で、体の奥から音が聞こえてきた。


「どっどっどっどっどっどっどっどっど……」

 音は次第に強く激しく響く。

 それは彼の心臓の鼓動だった。

 心臓が太鼓でも叩いているようにはね回ると、全身に血流がかけめぐり、冷たかった手足に熱が戻ってきた。

 いつの間にか止めていた呼吸が突然よみがえり、肺がヒューヒューと喉を鳴らして大量の空気を吸い込む。


 ハンスはそっとオークから手を離し、じりじりと後ずさりをする。

 このままオークに気づかれないように逃げるんだ。一刻も早く家に戻って、家族に危険を知らせなくてはいけない。

 オークから目を離さぬまま寝室から離れ、廊下を後退し、居間に続くドアまで後退した時、彼は妙なことに気づいた。


 さっきからオークが動こうとしないのだ。

 自分が触った時も、手を離した時もオークは全くの無反応だった。

 何かおかしいという思いと同時に、マリサを見捨てて逃げることへの罪悪感が若者の心に湧き上がってきた。


 ハンスは十歳のころから八年にわたって彼女の手伝いをしてきた。

 薬草を摘みながらその見分け方や薬効、毒草も薬として利用できることなどを教わってきた。

 仕事の合間には読み書きも教わった。

 マリサは歳の離れた弟のようにハンスをかわいがってくれたのだ。


 よく分からないがオークは動かないらしい。

 マリサの寝室の隣は薬草の調合部屋で、そこからも寝室に通じるドアがある。

 「彼女を救出しなければ」。若者の決断に迷いはなかった。


 ハンスは足音を忍ばせて調合部屋にそっと入った。

 少年のころから毎日のように通っていた彼は、家の間取りや家具の配置をすべて記憶していた。

 窓から入るかすかな月明かりしかなくても、物につまずくようなヘマはしない。


 寝室に通じるドアをそっと開け、隙間からオークの顔を確認する。

 寝室はテーブルの上に置かれた小さな蝋燭の明かりで満たされていた。


 オークの恐ろしげな顔がはっきりと見える。目は開いているが焦点を失っているようで、何も見ていないような感じだ。

 だらんと両手を前に垂れ、ただぼおっと立っているだけ……のように見えた。

 ベッドにはマリサであろう毛布のふくらみが見える。


 ハンスはありったけの勇気をふりしぼり、そっと寝室に入る。

 案の定、オークは視線すら動かさない。

 ベッドの傍らまでにじり寄ると、マリサの両肩を掴んで軽く揺する。

 耳元に口を寄せ、小声で囁く。


「マリサさん、僕です。ハンスです。

 起きてください!」

 耳にハンスの吐息がかかったためか、マリサはぶるっと震えて目を覚ました。

 彼女が叫ばないようハンスは素早く口をふさぎ、自分の唇に指を立てて「声を出さないで」と伝える。

 そしてゆっくりとオークの方を指さし、何が起きているのかを伝えようとした。


 その時、オークに異変が起こった。

 ハッとして振り返ったハンスとオークの目が合った。

 オークの視線は、はっきりとハンスとマリサを捉えている。

 怪物の意識が戻ったことは明らかだ。


「しまった、殺される!」

 黒く冷たい絶望がハンスの心臓を鷲づかみにする。

 何か武器を持っていればよかったと後悔し、何かないかと彼が周囲を見回すと、こちらを凝視していたオークもつられたようにあたりを見回した。

 オークの表情が明らかに変わる。

 驚愕、不安、恐怖、そんな感情が渦巻いているような表情に思えた。


「ガアアアアッーーーーー!」

 オークは片足を前に出して威嚇するように吼えると、そのまま反対方向へものすごい勢いで駆けだした。

 そしてガタガタと物にぶつかる音を残して外へ飛び出すと、そのまま暗闇の中へ消えていった。


 ハンスとマリサはしばし茫然として抱き合っていた。

 やがてハンスはのろのろと起き上がると、「そのままで」とマリサを手を制し、外の様子を見に行った。


 入口の扉の側にはへし折られた〝かんぬき棒〟が転がっている。

 地面にはオークの足跡が柵まで続き、そこで途切れている。

 どうやら柵をよじ登って逃げていったようだった。

「何だったんだよ、あれ……」


 混乱した頭のまま、ハンスは自分の家に向かった。

 まず親父を起こして、それから肝煎の家だ。

 いや、肝煎の前に半鐘を鳴らして、村中の奴らを叩き起こしてやろう。


 ハンスは無理やりにでも笑おうとした。

 しかし、舌がこわばっていて、うまくいかない。

 両手で頬をぐりぐりと揉みほぐしながら歩く。

 夜の冷えた空気が火照った顔に当たって気持ちがいい。


 少しずつ、ハンスの頭に冷静さが戻ってくる。

 彼はこれから起こる騒動のことを思いやってうんざりとした。


「こりゃあ、本当のことを話しても信じてもらえないだろうなぁ……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る