第八十五話 失態と醜態

 怒号を放ったアンナの怒りの矛先は、言うまでもなくシナブルだった。幾度も刃を交えてきた彼女には分かる──彼が本気を出していないということが。



「ったく!」



 シナブルを後方へ弾き飛ばしたアンナは、勢いよく上空へと飛翔する。その与えられた隙の間に、シナブルも飛行盤フービスを取り出し次の一撃へと備える──



────ガンッ!



 上空から急降下してきたアンナが浴びせたのは刃ではなく拳。空を蹴り加速した彼女の一撃は言うまでもなく強烈だった。


「────ッ……!!」


 交差した腕でシナブルはそれを受けるも、過重されたその一撃により、闘技台にめり込む足裏。そしてバキバキと音を立てて粉砕される石の床。


 直後──振り上げたシナブルの左足がアンナの顎を掠める。迷いの残る際どい攻撃は、彼女の美肌に傷をつけた。



 赤い小さな放物線が、宙を舞う。



「申し訳ありません!」

「いちいち謝るな!」

「申し訳ありません!」

「だから……」


 言いながらも最中、アンナは飛行盤フービスの反動でぐるんとその身をその場で後転させ、複数回の足蹴りをシナブルに繰り出す。


 紙一重でそれを躱すシナブル。


 互いに髪が乱れ始めた頃、トンっ、と爪先で地を弾き再び距離を取る二人。


「申し訳ありませんは禁止」

「……分かりました────っ!」


 先行して飛び出したのはシナブルだった。低い姿勢で地を蹴りアンナとの距離を一気に詰める──!


(──どうくる? 直線的な斬撃じゃ、芸がないわよ)


 アンナの眼前ギリギリで一瞬動きを止めるシナブル。刹那──彼は飛行盤フービスで一気に加速し、アンナの左側に移動──更にそのままの速度で後方へ移動し、彼女の背を捉えた────しかし、


「遅いッ!」


 彼女の背に振り下ろした刃は、振り返った彼女の刃に防がれる。



(──これでもまだ遅いというのか)



「うっ!」



 伸びてきたのはアンナの左腕。シナブルの首を掴むと、彼女はそのまま闘技台へと彼の背を叩きつけた。


「がッ…………はッ」


 吐血。


 飛び散った血はアンナの頬と胸元に点々と跡を残す。


「まだ動けるでしょ」


 アンナは右手の中の柄を握り直すと、それをシナブルの喉目がけて──突き刺すつもりで──貫くつもりで振り下ろした。



「う……嘘だろ!?」



 それを見てようやくここで観客の一人、ネスが口を開いた。

 全く信じられないという顔だ。先程のエリックの質問に肯定の意を示したというのに、この始末。



──ネス本人も気が付いていない点が一つあった。



 彼はこの戦いの全てを、目で追えていた。


 それは彼の体が、また一段ライル族に──戦闘民族に近づいたことを表していた。


 人間の目では追うことの出来ない速度。


 その速度をネスは超越しかけていたのだ──その力を上手く発揮できるかどうかは、今この場では分からない。

 分からないがしかし、一つはっきりと言えるのは、彼がこの戦闘訓練に加わったとしたら、間違いなく全ての攻撃を見切ることが出来る、ということだ。


「まあ、避けるわよね」


 体を右に振り、その突きを躱すシナブル。横に転がりかけた体勢そのまま、蹴りを繰り出す為に左足の膝を曲げ一気に────アンナの体を蹴り飛ばす。


「──ッ!」


 宙に浮き後方へ飛ばされたアンナは、刀の切っ先を闘技台に叩きつけ減速。しかし後転し体勢を整えた所へ、迫り来るのはシナブルの撃ち出した神力ミースの閃光の群れ──その背後に彼と刃。


「うっ……」


 地を片足で蹴り後方に逃れるも、横に凪がれたシナブルの刀の切っ先はアンナの腹を捉え、切り裂いた。傷は浅いのか鮮紅の筋は微量で、その血を気に止めることもなくアンナはぐっ、と右足を踏み込み──



────ダンッ!



 左足の回し蹴りをシナブルの右脇腹へ撃ち込む。しかし攻撃を受けたシナブルは腕でその蹴りを防ぎ、その場に踏み止まる。


「へえ……止めるんだ」

「はい──姫、失礼します」


 言ってアンナの左足を掴み、ぐるん、ぐるんと振り回すと彼女を空へ放り、おまけだと言わんばかりに腹を蹴り上げた。


「くっそ……」


 背に風を受けながら、上空へと飛ばされるアンナの体。眼前に迫るシナブルが何か言っているが、ゴウゴウという風の音で全く聞き取ることが出来ない。


「そういうこと……ならッ!」


 飛行盤フービスで加速しアンナに追い付いたシナブルは、彼女の体を貫こうと刀を真っ直ぐに突き立て────迫る!



──カッ──────キイイイイィンッ!



 己の体をシナブルの刃が貫かんとした直前、アンナは刀の腹でその突きを受け止めた。


 キリキリという刃同士の攻防音、睨み合う二人。


 どちらも引かず拮抗した力と力──互いの体が弾け飛び、開く距離。直後、即座にその距離を詰めるアンナ。


 ぐんっ、とシナブルとの距離が零になる直前────アンナはシナブルの左肩に向かって刀を振り下ろした。


「がッ…………!」


 肉を切り裂く音がシナブルの耳に届くと同時に、今度はこめかみを殴られる。左肩からはらはらと花弁が舞い踊るように血が流れ、彼の体はまたしても地に──闘技台に叩き付けられた。


「シナブル!」「「シナブルさん!」」


 叫ぶのは観客達。目で追えているネスとは違い、ウェズとルイズには突然闘技台にシナブルが叩き付けられる姿を目撃することになる。


「なんだなんだ! なんだありゃあ!」


 ふらりと立ちあがり、頭から血を流すシナブルを見てウェズは更に叫ぶ。


「アンナさんはどこだ!?」


 叫んだ直後、再び斬り付けようと距離を詰めてきたアンナの姿はウェズにの目は捉えられない。


 しかしネスにははっきり見えていた。アンナが刀を振り上げ、下ろさんとするその瞬間が。


「シナブル!」


 ネスの叫びが届いたのか定かではないが、シナブルはアンナの斬撃を背面に飛び退いて躱した────ように見えた。

 アンナの刃は空を斬った。しかし彼女の足はシナブルを捉えていた。


「ッ────!」


 飛び退いていたシナブルの腹に、その場で回転したアンナの猛スピードの蹴りが綺麗に入った──と同時に吹き飛ぶシナブルの体。


「まずい──!」


 加減を知らないアンナの足は、シナブルの体を想像していた以上に吹き飛ばした。彼の体は海風に拐われることもなく、ただ真っ直ぐに海面に着水しようとしている。


「おい! 大丈夫かよ!?」

「このままでは海に叩き付けられてしまう!」


 ネスとハクラが叫び、ルヴィスが息を飲んだ瞬間、だんっ、と石の床を蹴り上げ飛行盤フービスでそれを追うアンナ。



(────お願い、間に合って!)



 最高速度に達した時、着水まであと数メートルというところで彼女が伸ばした腕は、シナブルの体を捕まえた。



「……はあ、良かった……」


 アンナはそのままシナブルの体を横抱きにし、右腕の辺りにある彼の胸元に、安堵した顔を埋めたのだった。





「無事みたいだ……」

「ネス、見えるのか?」

「うん、はっきり見えるよ」


 ウェズの目にはアンナとシナブルの姿は米粒程度の大きさにしか見えないのだ。それをはっきり見えると言うネス。


「ライル族の血、また覚醒し始めたんじゃねえのか? さっきの戦いも目で追えたんだろ?」

「まあ、見えたね」

「すげえなお前……」


 羨ましいぜ、と呟くと拾われかねなかったので、ウェズは心の中でそれを呟くことに止めた。



──ピピッ──ピピッ



「──はい」


 聞きなれない音に皆が顔を向ける。


「──ああ、そうかい────うん、うん、わかったよ」


 エリックの通信機の受信音だったようで、彼は相槌を打ちながら会話を続ける。


「──君は大丈夫なのかい? ────そうか、気を付けて。じゃあまた後で」


 通信を終えたエリックは、「アンナからだったよ」と言って、順々に皆に視線を送る。


「アンナはなんだって?」

「ああ、どうやらシナブルが頭を闘技台に打ち付けた時に、気を失ってしまったらしい……医務室で治療をしてもらうから、先に戻って晩餐会の会場に向かってくれってさ」

「え、ちょっと待って……?」


 腕を組みネスは頭を捻る。


「闘技台に頭を打ち付けて気を失った……? でもあの後シナブルは、アンナの攻撃を避けたよな?」


 ネスの言う通り、確かにシナブルはあの時アンナの攻撃を飛び退いて躱していた。


「無意識の内に避けたんだと思うよ」

「無意識の内に……!? そんなことってあるの、エリック?」

「実際にあるからこうなっているのさ。俺達の間じゃあ、そんなに珍しいことじゃないさ」


 エリックの言葉を肯定するように、首を縦に振るハクラ。それを見てぎょっ、と目を剥くウェズとルイズ。


「ティリスの常識は……まだまだ俺には理解出来ないや」





「それではアンナ様、何かしらありましたらお呼びつけ下さいませ」

「うん、ありがとうアリシア」

「本当によろしいのですか?」


──第一医務室。


 アリシアは出窓の傍のベッドで横たわるシナブルを見つめながら言った。


「構わないわよ。だって晩餐会は十八時からでしょ? 他の皆はもう行ってるし、間に合わないわよ」


 白で纏められた医務室の、丸い壁掛け時計の指す時刻は十七時。アリシア以外の医務メンバーは既に、今夜城を上げて催される晩餐会──ネスやミリュベル海賊団の歓迎会──の準備のため、医務室を後にしていた。


 アンナの隣に立つこの女性は、王族専属医師長アリシア。ハクラが医師長を辞めた時に、彼の後継として抜擢された腕の良いエルフだ。

 そんな彼女の白衣姿を見つめながらアンナは言った。


「まさかその白衣で出席するつもり?」

「駄目でしょうか?」


 アリシアは短い金髪頭をわしゃわしゃとかきながら、白衣の襟を掴んでみせた。


「駄目、というか……多分父上に怒られるわよ、それ」

「……それは避けたいところですね。分かりました、きちんとドレスアップして出席しますから」


 渋い顔になるアリシア。どうやら相当ドレスアップをするのに抵抗があるようだった。


「誰かに何か聞かれたら、シナブルが目を覚ましたら向かうと言っておいて」

「承知しました」 


 白衣の背を送り出し、第一医務室内の個室のドアが静かな音を立てて閉まる。





「起きてるんでしょ?」

「……お気付きでしたか」


 仰向けのまま目を開いたシナブルは、ゆっくりと体を起こした。アンナがこちらへ向かってくるので、サイドテーブルに置いてあったシャツを慌てて羽織る。


「分かるわよ、今まで何回……」


 言いかけて口を噤んでしまうアンナ。少し頬が赤らんでいるように見えたのは、気のせいか。


「怪我は?」

「痛みは全くありません、姫は?」

「問題ないわ」


 エルフであるアリシアは、治療術に長けている。神力ミースによる治療は、己の体内の神力ミースを患者に流し込み治癒能力を活性化させるのだ。

 神力ミース量が多く、神力ミースを繊細に扱えるエルフのみに授けられた、正に神の力。


「どうして本気を出さなかったの?」

「それは……その…………」

「本当のことを言って」

「……っ……それは……」

「シナブル」

「……その、」

「うん」

「…………正直、」

「正直?」




「……罰を受けたかったから、ですかね」




 暫しの沈黙の後ぽつりと呟き、目を伏せて紅潮した顔を主から背けるシナブル。「あなた様も本気ではなかったですよね」と口から零れかけたが、どうにか飲み込むことが出来た。


「──エリックの思惑通りって感じね」

「──そうですね」

「気が付いていたんでしょ?」


 ベッド脇の丸椅子に腰掛けるアンナ。ぼんやりと窓の外に目線を飛ばし、シナブルの答えを待つ。


「はい……」


「あたしね、あの人エリックが時々何を考えているのか分からないことがあるの……」


 シナブルの左手がスッと伸びてきて、膝に置かれたアンナの手を掴む。



「──罰として、名前で呼べだなんて」



 エリックは知っていた。シナブルがどういう時にアンナのことを名前で──敬称を取り払って呼ぶのかを。

 あの時十年前彼は見てしまったから。不本意にも目撃してしまっていたから──二人が体を重ねる姿を。彼が彼女のことを名前で呼ぶ瞬間を。


「きっとだから……わざとあなたが思い出すようなことを言ったんでしょうけど」

「嫌がらせではなくてですか?」

「真意は分からないわ。言ったでしょ? 時々、何を考えているのか分からないことがあるって」

「姫……」

「でもね、多分」


 アンナは丸椅子をベッドに寄せて、シナブルとの距離を詰めた。浮かせた腰を、椅子からベッドへと移す。


、っていう念押しだったんだと思うわ」

「それは、つまり……」


 掴んでいたアンナの手を引き込み、シナブルは押さえつけるように自分の手を重ね、指を絡ませてくる。


「姫、あの……俺は………………もう」

「思い出してしまった以上は、我慢出来ない?」


 首をゆっくりと縦に振る。


「ずっと、ずっと忘れようと、押さえ付けてきたんです。でも、それなのにあの方は……どうしてあんなことを言うのですか──」


 その想いを、苦悩を、知っているからこそ──


「だから、多分──多分だけれど、好きにしろって意味なんだと思うわ。きっと、それが真意なのよ──じゃなきゃ、あんなことをあの人が言うわけないもの」


 寄せてきた肩に掛かっていたシャツが、するりとベッドから床へ落ちる。拾い上げようとアンナが手を伸ばそうとするも、シャツの持ち主の剥き出しの腕と胸に阻まれる。


「俺は……俺は、最低です」


 情けなさからか目の端にうっすらと涙を浮かべ、自分の胸に主の顔を押しあてながら言う。


「それでも、俺は、」


「シナブル、今回は、そういうのは……無しよ。遠慮とか、言い訳とか、建前とか……最後なんだから、言わなくっていい」


 瞳を覗いてやろうと顔を動かすも、アンナの抵抗は空しく、シナブルは彼女を離すつもりはないようだ。顔を胸板に押し当てられ、頭を抱き寄せられたままの体勢で、ゆっくりとアンナは言葉を紡いだ。


「嫌ではないのですか」

「なにが?」

「その……俺に……」


 意地悪なあるじの問に、弛緩するシナブルの腕。ここぞとばかりにその腕から逃れ、アンナは両手のひらで彼の顔をそっと包み、額同士をくっつけた。


「俺に、の続きは?」

「言わなければ、ならないのですか……」

「……」

「はあ……」


 沈黙するアンナに溜め息で返すシナブル。こんな距離で瞳を覗かれては、どう足掻いても逃れることが出来ない。


「俺に好きにされて、嫌ではないのですか?」


「今まで一度だってあたしが嫌がったことがあった?」



 一瞬、時が止まったかのような沈黙。






 刹那、欲望に抗うことなく渇欲する密やかな声。



「──っ────待って」


 重なっていた唇の端から漏れる彼女の切望の声も、彼の耳には届かない──否、届いてはいるが、もう──────止まれない。


「鍵────」


 なんとかそれから逃れ、よろりと立ち上がったアンナはドアノブに手を伸ばす。伸ばすもそれすら阻まんと迫る男の手。


 二つの影は重なり、一体となる。









 その後──ドアの錠が内側からカチャリと落ちたが、落ちたのは──のは錠だけだったのか、それとも──


 

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