第七十話 移ろう表情
この様子だと、アンナはきっと
「おい」
「は……はい」
「どこの女よ」
(ほら! やっぱり勘違いしてる!)
「ち、違うんだアンナ!」
「何が?」
「俺じゃない! 兄さんだよ兄さん!」
「ルーク?」
「そう! 俺じゃなくて兄さんだよ!」
ネスの方がアンナよりも身長は高くなったものの、胸倉を掴まれ体が床から持ち上がったネスは、何も抵抗をすることが出来ない。少しでも抗おうと足をパタパタと動かすも、その動きは自分の首元を締めるだけで解放に繋がるものではない。
『ちょっとー? ネスー? 何、何て言ったの?』
ネスの通信機の向こう側から、レノアの不満げな声が聞こえる。アンナは納得してくれたのか、ネスから手を離すとソファに腰掛け顔をしかめた。
「……それ、通信でレノアさんに伝えて良いの?」
「直接話した方が良いのかな?」
「あたしはそう思うけど」
深く考えていなかったが、アンナの言う通りかもしれない。ましてや本人の承諾も得ずに母に伝えて良いものかここに来て悩んでしまった。
『……ネス? 何か大事な話なんじゃ──……』
「ううん、なんでもないよ。俺が村に帰ったら沢山お土産話があるから楽しみにしてて! そういうことだから、何かあったらまた連絡するよ……じゃ!」
『えっ! ちょっとネス、ま──』
追いかけてくる母の声を無視し、ネスは通信を遮断した。
「え? え? 切ったの?」
大人しく様子を伺っていたアンナが、目を丸くして立ち上がった。
「うん、切っちゃった」
えへへ、とネスは誤魔化すように頭を掻いた。
「えへへ、じゃないでしょ、何で急に切ったのよ? レノアさん悲しむわよ?」
アンナに怒鳴られるかもしれないと、心に汗をかき始めていたネスだったが、呆れ顔の彼女は胸の下で腕を組み、溜め息をつくにとどまった。
「……ごめんなさい」
「あたしに謝ってどうするのよ?」
「うん……今、正直あんまり母さんと話したい気分じゃなかったかな」
「……まあ、親と話したくない気分の時もあるわよね。無理矢理話をさせたみたいで、なんか……その……ごめん」
珍しく謝罪の言葉を口にしたアンナは、ぺこりと頭を下げ、上目遣いでネスを見た。
(さっきもよく笑ってたし、謝ったりするなんて、どうしちまったんだよ、アンナ────あ、ひょっとして、
自分を見上げる彼女の視線に少しばかりどきりとしながらも、ネスは平静を装うように咳払いをし、アンナの腹を盗み見た。
「女絡みの後ろめたいことを話した後だったし、まあ、母親と話したくないってのも、当然か」
「いい加減それ引っ張り出して
「はいはい」
「ちょっとドキッとしたのが馬鹿みたいだ……」
「どきっ?」
「いや、気にしないでくれ……」
「……?」
ころころと変わるアンナの態度に振り回され、むっと唇をひん曲げながらも、ネスはそんなアンナの
(出会った頃とは大違いだ)
氷のような顔付きだったアンナが、今やこんなにも様々な表情を見せる。先程レノアが言ったように、
「はあ、それにしてもあのルークがねえ……」
「……? ああ、そうか。アンナは兄さんの小さい頃も知っているんだっけ」
アンナが生まれたばかりのネスを育てていた時期があったということは、同時にルークの世話もしていたということだ。
「なあ、アンナ」
「ん……なに?」
「兄さんのことで、話したいことがあるんだ」
怪訝そうに眉をひそめたアンナは、神妙な面持ちのネスに座るよう促すと、彼の話に黙って耳を傾けた。
*
「自分は死にたいけど、子供二人を残して死ぬことは出来ない。だからと言って子供達を手に掛けて、自分の命を絶つことも出来ない。だから世界のほうが滅びてくれればいい、ですって?」
ネスの話を聞き終えて、アンナは不満げに舌を打った。
「自分を甘やかして世界を巻き込んでんじゃないわよ、あのガキは」
アンナは驚くほど早く、鋭い口調でルークを罵った。
「……なあ、アンナ。俺、どうしたらいいと思う」
「あんたはルークを助けたいわけ? 殺したいわけ?」
「そりゃ、助けたいよ」
本心だった。ネスは兄を助けたい。絶望の淵から飛び降りようとしている兄の手を、掴んで引き寄せたいと思っていた。
しかし、その解決策を見出だせずにいた。
だから、兄に「帰れ」と言われたとき、何も言葉を返すことが出来なかった。
「俺は賢者になりたいのに……兄一人さえ救うことが出来ないのか」
息を吐いてネスは頭を抱え、俯いた。
(アンナのことも「助けたい」なんて言っておいて、俺は──)
「夢は夢よ。そんなに駆け足で叶えようなんて考えないほうがいいわ」
そんなネスの姿を見て、アンナも俯き気味の体勢を取る。そして、「うん」と膝を打ち、短く息を吐く。
「あんたはルークと戦いたいって思うの?」
「戦いたいわけないだろ」
「やっぱりそうよね」
「それは……戦わずに、賢者らしく説得しろってこと?」
正直、ネスは兄とこれ以上刃を交えたいとは思っていなかった。しかし説得する術も策も持ち合わせていない。壁にぶつかりどうしようもなく途方に暮れた末、アンナに相談したのだ。
「あんたがそう思うのなら────ん?」
一瞬驚いた顔になったアンナは、腹に手をあて首を捻った。
「どしたの?」
「……」
「アンナ?」
「……う、
「動いた!?」
「うん」
そう言ってアンナは、腹を優しく撫でた。
「あ、止まった……」
「え、な……触っても、いい?」
「いいわよ。あ、また動いたわ」
立ち上がり、一歩、また一歩とアンナに近寄るネス。彼女の足下に膝をついたところで、ハッとしたネスは、その手を急いで引っ込めた。
「触らないの?」
「俺、思ったんだけど、エリックが先に触るべきだろう!?」
腹の子の父親が触れてもいないのに、自分が触れるわけにはいかないと、ネスは引っ込めた手を体の後ろに隠した。
アンナは全く気にしていない様子で、不思議そうに腹に手を添えたままでいる。
「そういうものかしらね?」
「そういうもんだろ! ちょっと待ってて、呼んで来るから!」
勢いよく立ち上がりドアを開け、ネスは駆け出す。
「大事な話が途中だったのに……いいのかしら、あいつ」
そう一人呟くと、アンナは愛おしそうに再び腹を撫でた。
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