第六十九話 懐かしい声
ネスがアンナに連れて来られたのは、自身が寝起きしている部屋の隣の一室だった。床も壁も濃い茶の板張りで、同じような内装の部屋。入口の真正面に小さな窓が一つ、部屋の中央に大振りのソファと、木製のテーブルが一つ。部屋の角にシングルサイズのベッドと、簡素な椅子が一つ。
ミリュベル海賊団の所有するこの船は、海賊船にしては、大きい部類に入る。設計をする段階で、出資者のアンナが「みっともない物は作るな」と口を挟んだため、不必要なほど豪奢で大きく、立派な海賊船が出来上がったのだ。
その関係で幾つか余っている部屋がある。 そのうち二部屋を客室のように使用しているのだが、海賊船に客など滅多に来ないので、言うまでもなく両室とも塵と埃に侵食されていた。
その侵食を食い止めたのは、他でもない掃除好きの船長エディンだった。
「座りなさいよ」
アンナに促され、ネスはベッド横に置いてあった椅子をソファの向かいまで移動させ、それに座った。アンナはソファに腰掛け、じいっと目を細めてネスを睨んでいる。
「な、なんだよ」
「別に」
何ともぶっきらぼうで不満げな言い方だ。
「……怒られる覚悟は出来てる」
「そ」
アンナはソファに深く腰掛け直すと、小さく息を吐いて、視線を斜め上に投げた。
「レスカとのことは、深くどうこう言うつもりはないわ。あんたにもそれなりに考えがあってのことだったんでしょうし」
ネスが船長室から飛び出した後、レスカはどこまで話をしたのだろう。今のネスにそれを知る術はないので、黙ってアンナの言葉の続きを待つ。
「あたしにも
アンナは上に放っていた視線をネスに向けて、真っ直ぐに瞳を見据えた。
「
「あの子……」
言うまでもなくサラのことだった。故郷ガミール村を後にする際、お互いの気持ちを確かめ合い、ネスの帰りを待ち続けると言ってくれた幼なじみ──恋人のサラ。
「黙っているのも優しさだと、あたしは思うけどね。言う必要なんてないでしょ? 自己満足で真実をあの子に告げても、いたずらに傷付けるだけよ」
「……そういうものかな」
「真実を話してどうなるっていうのよ。あんたが黙っていれば、誰もあの子に
「うん……でも罪悪感が……」
「罪の意識があるのなら、もうレスカと寝るのはやめなさい──って、ごめん。今のは聞かなかったことにして頂戴。あたしが口を出すことじゃなものね」
「いや……」
ネスは俯き、足下を見つめた。
──靴。黒い靴だ。
ガミール村を出て約一月。大きくなった己の足──。
「ああ!」
「な、なによ。びっくりするじゃない」
「忘れてた……」
ネスが勢いよく立ちあがったせいで、木製の椅子かガタン、と音を立てて倒れた。そのままごそごそと
「これ、返してなかった。すっかり忘れていてごめん」
「……? ああ、別にいいのに」
言いながらも、アンナはそれを受け取った。
「ありがとう、助かったよ」
ノルの町でアンナがネスに渡した一枚のカード。「これで必要な物を買え」と言われて持ち続けていたそれを、ネスはようやく返すことが出来た。
黒々としたカードを見て、ネスは
悪意のある魔法使いによる記憶の改ざんがあったことなど、ネス本人が知る由もないのだ。
「そうだ、これあげるから」
そう言ってアンナは無限空間から手のひらサイズの白い小箱を取り出し、テーブルに置いた。
「前もこんなことあったな……」
言いながらネスは箱を手に取り蓋を開ける。
「通信機……?」
「持ってないでしょ? 不便極まりなかったから、あげるわ」
小指の爪先程の、黒く平たい円状の通信機だ。耳に取り付ける種のものではなく、耳に貼り付ける種のものだった。
「その形状だったら、戦闘中に引っ掛かって耳を傷つけたりしないし、いいかなと思って」
照れ隠しなのか、アンナはネスがテーブルに置いた空き箱をごそごそ弄くりながら、下を向いている。
「ありがとう。色々と気を使ってもらって」
「いいのよ別に礼なんて言わなくっても」
相変わらずぶっきらぼうで早口だ。アンナは箱をテーブルに置くと、今度は何やら小さな紙切れを取り出し、それをネスに手渡した。見ると、何やら番号が書いてある。
「何これ?」
左耳に通信機を取り付けながらネスが言う。
アンナは足を組み、片腕伸ばしてそれをソファの背もたれに引っかけるようにして、寛ぎだした。
「通信機番号」
「誰の?」
「レノアさんよ」
「か……母さんの?」
「そ」
ネスの母レノア・カートス。
母と村人達を傷つけ、故郷を壊滅状態にした兄──。
「連絡、とってなかったんでしょ? 声だけでも聞かせてあげなさいよ」
「うん……」
「気が乗らないの?」
「……少しね」
「後ろめたいこともあったからかしらね?」
横に向けていた顔を正面に戻し、アンナはからかうように言った。
「う、うっさい! かければいいんだろかければ!」
挑発に乗ったネスを見ながら、アンナは口許を手で隠し、クスクスと笑っている。
(何だか人が変わったみたいに笑うようになったな、アンナ)
その魅惑的な顔を見ながら、ネスは紙に書かれた番号を口にした。
*
『──はい』
「あ……か、母さん?」
『……ネス? ネスなの?』
「うん……」
通信機の向こうの母の声は、思っていたよりも元気そうだった。
『元気そうでよかったわ。そっちは大丈夫なの?』
「母さんこそ、怪我は?」
ネスはノルの町で第一騎士団長アイザックが見せてくれた、
凍り付き、足首の所で途切れた血塗れの足──。
『怪我、ね。うん、大丈夫よ』
「母さん、俺──」
『大丈夫、大丈夫よ! なんて声してるのよネス』
「俺、知ってるんだよ。村を襲ったのは兄さんだってこと」
『……そう』
無理をして明るく振る舞っていたレノアの声は、少し
「村に騎士団が向かったことも知ってる」
『ネスったら物知りねえ』
「母さん、その……足は?」
ネスの言葉に反応して、アンナがちらりと視線を向けてきた。
その視線に、ネスは気まずそうに顔を伏せた。
『足? 足はね、くっついたの』
「くっついた!?」
それを聞いて、アンナは知っていたと言わんばかりに、再びクスクスと笑った。
『村に来てくれた騎士団のね……名前は忘れちゃったんだけど、腕利きのエルフがいてね。治療してもらったのよ』
「は……はあ、そうなんだ……」
ネスが困惑していると、アンナが咳払いをしながらこちらを見ていた。
(なんだ?)
唇の端を吊り上げたアンナは、何やら身振り手振りでネスに伝えようとしている。
まず自分を指差し、それから左腕を指差した。右手で左腕をスパッと切り落とす動作をした後、左腕を掴んでくっ付けるような動きをした。
恐らくネスとレノアの通信の邪魔をするまいという配慮から、声を発さなかったのだろうが──
「駄目だ、さっぱりわからん」
「あ"ぁん?」
眉間に皺を寄せたアンナは、ガツン、と、不満げに机を蹴り上げた。
『何の音?』
「悪い母さん、少しだけ待って」
レノアに断りを入れると、ネスは小声で「何だよ」とアンナに尋ねた。
「あたしも過去に腕は切り落とされてるけど、処置が早く腕利きのエルフがいたから、上手いことくっ付けてもらったことが何度もある。常識だからそのくらい知っておきなさいばか」
「最後のは絶対嫌味だよな!?」
よほど苛立っていたのだろう、アンナは早口で言い終えると、そっぽを向いてしまった。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
『済んだの?』
「ああ、ごめん母さん」
『ふふ、よかった』
通信機の向こうでレノアが突然笑いだした。可笑しくて笑っている風ではなく、何かに安心して柔らかく微笑んだような笑い声だ。
『アンナちゃんとは仲良くやれてるみたいね』
「そ、そんなこと! ……あるの……かな」
レノアの声は聞こえているだろうに、アンナは相変わらずそっぽを向いたまま、不機嫌そうに唇を尖らせている。
「アンナが現在不機嫌なので、わかりません」
ネスの言葉に、アンナは再び机を蹴り上げた。
『ふふ、あの子がそういう態度をとるってことは、仲良くやれてるって証拠よ』
「そうなのかなあ……」
首を捻ってアンナを見るも、態度は相変わらずだ。
「あ、そうだ母さん。兄さんのことで伝えおかなきゃいけないことがあって」
『世界を滅ぼそうとする組織──無名っていうのに所属していること?』
「うん……知ってたんだね」
『ええ。村に来た騎士団長さんに教えて貰ったわ。白髪で小柄な子に』
レノアの言うそれは、第二騎士団長ベルリナ・ベルフラワーのことだった。
(そうか──ガミール村に行ったのは、第一騎士団長のアイザックさんと、第二騎士団長のベルリナさんだったな)
『その辺りの話は、詳しく教えて貰ったから大丈夫よ。少しショックだったけど、事実だもの……仕方がないわ』
相当堪えているのだろう、レノアの声は先程とは比べ物にならない位、徐々にか細くなり沈んでいった。当然と言えば当然だろう。自分が
「止めるよ。兄さんのことは必ず止める」
『そう──でも無理はしないでね』
「大丈夫だよ。それより母さん。もう一つ大事なことがあって」
『なに?』
大事なことという言葉に、少なからず興味を引かれたのか、アンナもじいっとネスに視線を向けた。
「母さん、孫が出来たよ」
「ま、孫!?」
反応したのはアンナのみであった。初期動作の不具合なのか、通信機の向こう側のレノアにはどうやらネスの告白が届いていないようであった。
勢いよく立ち上がったアンナが鬼の形相でネスに迫り、胸倉に掴みかかる。
(絶対この人何か勘違いしてるっ!)
「待て待てアンナ!」
「何を」
「怖い怖い! 怖いからちょっと待ってくれ!」
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