第二十九話 「あの頃の苦しさを忘れないために」

「ただいま……」


 日が傾き始めた頃、ネスはホテルに到着した。ぐるっと部屋を見渡しても、アンナとエリックの姿はなかった。


(アンナが帰って来たら謝らないといけないな……)


 コーヒーでも飲みながら謝罪の練習をしようと、棚に手を伸ばそうとしたその時、アンナの使っている寝室の扉が半分ほど開いているのが気になり、ネスはなんとなく中に視線を投げた。


「な…………!」


 そこに見てはいけないものがあると瞬時に理解した。顔を上げたら引き返せないということも分かっていた。それでも一目だけなら、一瞬で目を逸らせば、という考えが沸々と沸いてきて心を侵していく。


(駄目だ駄目だ駄目だ……でも……)


 少しだけ見て、目を逸らそう──ネスは心の誘惑に負けた。しかしその決意とは裏腹に、目の前の彼女の姿に釘付けになった。


「──────ッ!!」


──全てが見えた。いっそのこと、背中を向けてくれていればよかったのに。


 ベッドの上でアンナは眠っていた。普段の彼女からは想像もつかないような柔らかな寝顔。絵画の中の女神のように、両腕を頭の上で組んでいる。

 形のよい胸が挑発するようにこちらを向いていた。一度触れた時のあの感触が手に蘇る。腕を回したくなるくらい滑らかな、彫刻のような腰と臀部。そこから伸びる嘘みたいに長い足。


 殺し屋なのに体に傷一つない──いや、あった。一度見つけてしまうと他の部分がどうでもよくなるくらい、目が離せなくなるような大きな刀傷。

 それは左の脇腹にあった。切り傷というよりも刺し傷。その上抉られたような傷口はなかなか古いようで、肌の色と一体化して不自然なくらい体になじんでいた。これを見てネスはふと、先程のシナブルの言葉を思い出した。


 目が離せなかった。どうしようもなく彼女の魅力に飲み込まれてしまっていた。

 前進も後退もできず、ネスはその場に立ち尽くした。


「ええっと……」


 背後で声がして、ネスは大きく振り返った。そこにはズボンだけを身につけ、頭からタオルを被り、半笑いになったエリックが立っていた。



 束の間、時が止まったように思えた。



「ごっ…………ごごごごめっ……」


 言いかけてエリックに口を抑えられた。彼は人差し指を立て、しーっと小声で言うと、寝室の扉をゆっくりと閉めた。


「アンナが起きてしまう」


 小声のままエリックは言った。扉を完全に閉めるとネスの口から手を離し、その手を自分の顔の前に立てて軽く頭を下げた。


「すまないね」


 エリックは扉を見やり、頬をかいた。


「ごめん……謝るのは俺の方だ……」


 ネスは頭を下げる。どう考えても自分に非があった。見てはいけないと分かっていて見てしまったのだ。しかも恋人が背後にいると気付かずに。


「いや、ちゃんと扉を閉めずにシャワーを浴びていた俺の方が悪かったんだ」


 エリックはネスを責め立てなかった。この事はアンナには黙っていてくれないか、と持ちかけられたので、ネスは驚いた。


「エリックはそれでいいのか? その、俺は……」

「仕方がないさ」


 言いながら彼は、頭からタオルを取り、テーブルに置いてあった煙草を手に取り火をつけた。

 露になった彼の体を見て、ネスは目を疑った。服の上からは分からないくらい引き締まった彼の右半身に、目を引く刀傷があった。肩から伸びるその傷はかなり大きく、彼のズボンの中にまで達している。

 ネスがその傷から目を逸らせないでいると、エリックはうっすらと笑った。


「少し、話すかい?」





「シナブルから大体のことは聞いているだろう?」


 二人はバルコニーにある、白いペンキの塗られた鉄製の椅子に腰掛けていた。向かい合わず、お互い正面──眼下に広がる街並みの方を向いている。


「これはアンナに初めて出会った時につけられた傷でね……太腿にまで達している」

「容赦ねえな……」

「お互い様さ。俺も手加減せず、渾身の力を振り絞って彼女を刺し、腕を捻って腹を抉ってやったさ」


 エリックは体の傷を、愛おしそうに撫でながら言った。

 アンナの脇腹にあったあの傷は、エリックが付けたものだということか。


(──なんだか、辛い話だな)


 ネスの気持ちを知ってか知らずかエリックは笑っていたが、当時──そんな状況ではなかったはずだ。


「死を覚悟して彼女を刺したのに、結果として俺は生かされ、ララは死んだ」


 母国を滅ぼされ、目の前で恋人を殺された彼。とてもじゃないが、ネスにその心中をはかり知ることは出来ない。

 ネスはただ黙ってエリックの話を聞いていた。二人の過去の話に口を挟むべきではないと思った。


 ゆっくりと煙草に火をつけたエリックは、それを口元に持っていきかけ──やめた。


「これが君の知りたかった真実だ」


 手の中で火を揉み消し、彼はネスを見た。


「君にはまだ、話さなければならないことがあるが──」


 いつになく真剣なエリックの眼差しに、ネスは緊張せずにはいられなかった。


「俺の口から話すより、直接本人から聞いた方がいいだろう。君に知る権利はあるはずだ」


 背後で人の気配がしてネスは振り返った。窓から数メートル離れた室内に、素肌の上にシャツを身につけただけの姿のアンナが立っていた。見覚えのあるそれは、エリックが着ていたものだなと、ネスは気が付く。彼女はネスと目が合うやいなや、顔を赤らめてシャツの前側をがばっと両手で塞ぎ、体を隠した。

 ネスはすぐにアンナから目を逸らし正面を向いた。多分、彼女と同じくらい顔が赤くなっていただろう。


「おはよう」


 夕陽の射し始めた部屋に静かに響くエリックの声を聞いて、アンナの微睡んでいた顔がぱっと明るくなった。立ち上がった彼はゆっくりと足を進めると、アンナの頭を撫で、彼女を抱き寄せた。


「そろそろ行くよ」

「……うん」

「ごめんな、あと少しの辛抱だから」

「……うん」


 涙混じりのアンナの声は、エリックを引き留めたい心の現れだった。しかしそれは、いつだって叶わない。今、自分の傍にいるとこの人を危険に晒すことになる。守りきれるという自信はない。自分は一度失敗しているのだから。

 エリックに見られる前に頬を伝う涙を蒸発させて、アンナはできるだけ笑ってみせた。それを見てエリックは、別れを惜しむように彼女に口づけをした。


「アンナ……安心しろ、大丈夫だアンナ。あの時と変わらず俺は君の味方だ。これからもずっと、永遠に」


 互いに愛を囁き合った二人は、最後にもう一度──唇を重ねる。そしてエリックはアンナの頬にそっと触れた後、部屋から出ていった。





 部屋に残されたアンナは、ぺたりと床に座り込んだ。

 ネスは扉の閉まる音を確認してから振り返った。そこにエリックの姿はなかった。

 顔を伏せているアンナの表情を確認することは出来なかったが、彼女の周りには悲しげな空気が漂っていた。


「エリックは?」


 ネスが問うとアンナは、


「……行ったわ」


 と小声で言った。



 ネスはエリックを追って廊下へ飛び出した。


「エリック!」


 エレベーターがやって来るのを待っていたエリックは、ネスの声を聞いて振り返った。彼は驚く様子もなく、こうなることが分かっていたと言わんばかりの表情だった。


「俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか?」


 エレベーターの前に到着すると、ネスはエリックに聞いた。


「君が何か言いたいんじゃなくて?」


 エリックはからかうようにネスを見ていたが、ネスの目に宿るものを見ると、腕を組んで壁にもたれ掛かった。


「君は──守りたいものがあると、人は強くなれると思うかい?」


「思うよ」


 彼の試すような口調の問をネスは肯定した。そう、その気持ちがあったからこそ自分は強くなれたのだ。力を身に付けて大切な人を守りたかったから──


「あいつはね、アンナは逆なんだ。傍に大切な人がいることで力を出しきれない」


 顔の半分を左手で覆うとエリックは、つかえていたものを吐き出すように言った。


「最強と呼ばれていたにも関わらず、大切な人を守れなかった過去がある──隣にいたにも関わらずだ。だからあいつは孤独であることを強く望み、自分の傍に守りたいと思う奴を置くことを恐れている」


 隣にいた大切な人──フォードという臣下のことか。


「俺達は思いがけず出会って、愛し合ってしまったけれど、あいつからしたらそれは不本意だっだろうよ。今まで積み上げてきた自分の力が、俺という枷によって出しきれないのだから……。だからネス君、君には自分自身を守れる力を身に付けてほしい。この意味がわかるかい? 君があいつといる限り、いつかあいつは君を守って死ぬだろう。それだけは避けてくれ」


 手を顔から離すとエリックは鋭い目でネスを睨んだ。


「でないと俺は……君を、殺したくなる」

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