第二十四話 血を纏った鬼
振り返った彼女は、ネスの知らない彼女だった。蜂の巣で見た、手配書の中の彼女だ──瞳は赤くなかったが。
恐怖──それしかなかった。殺し屋と対峙する恐怖がこれほどのものとは。
夢でみた妖艶な姿も、一度だけ見せた笑顔も、芯のある鋭い声も──すべてが消えてなくなってしまいそうになるくらいの絶望感。名状しがたい恐ろしさ。
──これは駄目だ。
見てはいけないものを見てしまった。触れてはいけないものに触れてしまった。
今の彼女は、俺とは別の世界にいるんだ。
いや、今に限ったことではない。彼女はずっと俺の傍にいながら、違う世界にいた。違う景色を見ていた。
そんな彼女に、それでも俺は手を差し伸べたい。心からそう思う──だから、結果は見えていても声を掛ける。
たとえ駄目だと分かっていても────
「おかえり」
俺は何度跳ね返されようが、一人ぼっちの彼女に歩み寄ることを、寄り添うことを諦めない。
「来るな」
それだけ言うとアンナは顔を正面に戻した。体が小刻みに震えている。
「アンナ」
恐怖で押し戻されそうになる足に力を込めてネスは一歩、彼女との距離を縮めた。
「来るな」
一歩、また一歩と距離を縮める。アンナの剥き出しの肩に手を伸ばしかけたその時、彼女は悲痛な声で叫んだ。
「頼むから──頼むから来ないでッッ!」
聞いたこともない大きく高い声で、彼女は叫んだ。
「俺はあなたの力になりたいんだ」
本心だった。
「………」
しかし、アンナは何も答えない。
「大切だから──助けたいんだ」
そう──大切だから──
「……ガキが……くだらないこと、言ってんじゃ、ないわよ」
彼女は答える。それは拒絶の言葉。
それでも。それでも俺は。俺は──
己の肩に手を置かれ、ネスは振り返る。そこにいたのはシナブルだった。何も言わず彼はゆっくりと首を左右に振った。
そんなシナブルを睨み付け、ネスはアンナを振り返った。ハイネックのノースリーブに珍しくパンツスタイルの彼女は、二本の愛刀を右手に持ち、それとは別にどこに差していたのだろう、短刀を二本左手に持ってバスルームへと消えた。
力なくソファに腰を下ろしたネスに、シナブルは声を掛けた。
「ネス様。出発は三日後に延期です」
「………」
「ネス様?」
何も答える気になれなかった。俺は一体何がしたいのか。一人で考えなければならなかった。
少しだけ開いたバスルームへと続く扉の奥から、物のぶつかり合う音が聞こえ、その直後に水音が聞こえ始めた。
「シナブル」
「はい」
「俺は、一体どうしたらいいと思う」
「……何もしないことです」
扉の隙間から生暖かい湯気が漂ってきた。ほとんど無香ともいってよい石鹸の香りが、うっすらと二人の鼻をかすめた。
少し間を開けて、シナブルは遠くを見つめながら言う。
「姫の為に何かをしようともがけばもがくほど、あなたは深みにはまってしまう。姫のことを思うのであれば、これ以上何もしないことです」
「……それはシナブルのやり方だろ」
「そうですね」
そう言ってシナブルは目を伏せた。
何日も彼を見ていれば嫌でも分かる。彼がいかに
「俺は、諦めたくないんだ」
と、その時、湯気にのってうっすらと血の匂いが漂ってきた。ネスがシナブルを見ると、ネスよりも早くそれに気が付いた彼は、少し動揺した表情になり、バスルームへと続く扉に近づいた。
「……姫?」
扉の向こうからシャワーの水音にかき消されそうな、小さな呻き声が聞こえた。
「姫?」
シナブルが扉に手を掛けると、バスルームに籠っていた湯気が一気に部屋に広まった。
「姫、入りますよ」
扉が完全に開かれると、アンナの嗚咽混じりの泣き声がネスの耳にも届いた。
ネスは立ち上がりバスルームを背にして、その中の光景が視界に入らぬよう移動した。流石に凝視するわけにもいくまい。
その間中、充満する血の匂いが鼻にまとわりついて離れなかった。
「姫!」
──ものすごい血の匂いだ。
シナブルがバスルームへと足を踏み込むと、そこには熱湯に打たれながら、自らの右手を短刀で刺し続けるアンナの姿があった。
「姫ッ! 何をしているのです! お止め下さい、姫ッ!」
アンナは何かに取り憑かれたように、一心不乱に手の甲に刃を立てている。刺せども刺せども回復するその右手からは、止めどなく血が流れ続けている。その血が彼女の剥き出しの腕を、腹を、太腿を伝って足元に血溜まりを作る。
「うぅ……」
背後から左手を掴まれたアンナは、そこで漸くシナブルの存在に気が付いた。
「シ……ナブル……ッ」
アンナの左手から短刀が滑り落ちた。カラン、と音を立てると同時に、アンナはふっと体の力が抜けるのを感じた。へにゃりと床に崩れそうになった所を、シナブルが支える。
「大丈夫ですか、姫」
シナブルは右腕をアンナの腰に回して体を支え、左手でシャワーを止めた。目の前の彼女の艶かしい肉体から慌てて目を逸らす。
こういうことは過去に何度もあったが、そう慣れるものではない。
逸らした目を躊躇いがちに戻し、アンナが他に出血をしていないか確認を済ませる。近くにタオルがなかったので、シナブルは濡れた自分の上着を乾かし彼女の体に掛けた。
「……シナ……ブル……」
泣き腫らし、潤んだアンナの目を覗き込む。とろんと眠そうなそれは、何年ぶりかに見る彼女の
「何でしょう、アンナ様」
腕の中のアンナは体を起こし、その表情を隠すようにシナブルの胸に顔を埋め、ぴったりと体を寄せてきた。上着はタイル張りの床に落ち、あっという間に水浸しになった。そんな彼女の肩に、シナブルはそっと両手を添えた。
何か言おうと嗚咽混じりに声を絞り出し、少しだけ泣いた後、アンナは静かに言った。
「……シナブル……あたし、忘れてた……」
「……はい」
「……人に、好意を寄せられるって、いうことは……こんなにも……こんなにも、苦しい」
「……はい」
彼女の悲痛な叫びに、自分は答えることも、その体を抱きしめることも出来ない。それが悔しく、情けなかった。
「せっかく、忘れていたのに……あの馬鹿、何てこと言いやがる」
「……」
「力になりたいだなんて……」
「はい」
「助けたいだなんて……」
「はい」
「……苦しむ、だけなのに」
顔を上げたアンナは、すっと目を閉じると、
「……ごめん、あとは、いつも通り、よろしく──」
消え入るような声で言い、眠りに落ちた。
バスルームから聞こえてくるアンナの声。両手で耳を塞いでも、自室に引っ込んでも、耳の奥へと染み付いて離れない泣き声。
(──頼むから、頼むから来ないでッッ!)
目の当たりにしたアンナの弱さ。ネスの中で彼女はいつだって圧倒的強者だった。それなのに知ってしまった彼女の一面。
最強と呼ばれた彼女の弱さ。それはネスに大きな衝撃を与えた。
いつだって守られてきた。それが当たり前のようになっていた。
彼女の背中を追うことに慣れきっていた。心地よくなっていた。
しかし、それでは駄目なのだと、漸く気が付いた。
(──守らなきゃ。俺が、アンナを守らなきゃ)
自分が何をしたいのか分からなくなっていた。それが、アンナの泣き声を聞いてはっきりと分かった。
何度拒まれようとも、俺は、彼女を助けたい。賢者になって、彼女がもう苦しまなくてもすむような世界を作る。
今度は俺が、彼女を守る。
しかし何故アンナの為にそこまで尽くそうと思うのか、その根源をネスはまだ分かっていない。自分でそれを見つめることさえ、幼い彼にはまだ出来ないのだった。
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