第十一話 捨てた名
ネスとアンナがガミール村を出発した翌日の午後二時。青い屋根のとある家。
雲行きが怪しくなってきたので、一人分になった洗濯物を取り込んでから彼女は身支度をした。
腰まで伸ばした目を引く橙色の髪を、ヘアクリップでサッとまとめる。その最中、
着ているものを脱ぎ、クローゼットの中から適当に動きやすそうな服を取りだし、鏡の前で合わせる。それに映る体は、とても三十八歳には見えないほど若々しく、色香が滲み出ている。目につく所には張りがあり、衣服の上からでは分からないくらい筋肉質だった。
それもその筈、彼女は今となっては数少ない、戦闘民族ライル族の生き残り。幼少期の成長は遅いが肉体の最盛期が長く、十五歳からの五年間、急激に成長する彼等の肉体は、二十歳になる頃には成熟期を向かえ、その力は六十歳になるまで持続する。
筋力や体力は人間のそれより遥かに優れ、神話の時代から今に至るまで、生き残る為に
ライル族は戦いの中で戦死することが多く、平均寿命はおよそ三十歳。三十八歳という彼女の年齢は、ライル族としては長生きしているといってもよい。そんな彼女の肉体で一際目を引くのは、大きな胸の左上に刻まれた花のような刺青。三枚の花びらを象ったそれは、衣服の上からでは分からないよう、胸の上から脇にかけて大胆に彫られている。
着替えを済ませて化粧を直し、髪を頭の高いところで束ねる。
家中の窓の鍵を閉めて外に出た。空を見上げると、灰色の雲がその大半を占拠していて、やはり雨が降り出しそうだった。二人の息子の内、兄のほうが昔贈ってくれた、淡いブルーと濃いブルーの滲むような花柄の傘を持ち、玄関の鍵を閉めてレノアは買い物に出掛けた。
午後四時。
彼女が帰宅すると玄関の鍵が開いていた。扉を開けると香ばしいチキンの匂いが鼻先をくすぐる。
――誰か、いる。
気配を殺してキッチンに向かう。ドアノブを掴もうと手を伸ばすと、内側からゆっくりとドア開いた。
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディア……ん。トゥーユー……ユーとはあなた、という意味だったか、トゥーがあなたという意味だったか。名前を入れて歌いたいんだが、どうしたものか。帰ってセノンに確認するか……今回はお預けだな」
現れたのは腕を組んで考え込む、背の高い青年だった。瞳はレノアと同じ
「おかえり母さん。てっきりネスかと思ってしまった。覚えたての異国の、それも未完の歌を披露してしまいすまない」
レノアはルークの発する言葉の冷たさに違和を感じながらも、それを顔には出さず笑顔で息子に声を掛けた。
「帰っていたのね、ルーク」
「ああ、ただいま」
レノアが部屋に入ると、テーブルの上に沢山の料理が並べられていた。部屋はパーティー用の飾りで彩られ「ネス、十六歳の誕生日おめでとう」と書かれたプラカードが壁に掲げられている。
「ルーク、これは?」
買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら、レノアが尋ねる。上から二段目の棚に、細かく装飾されたバースデーケーキが入っていた。
「何を言う母さん。今日は我が弟ネスの誕生日だろう。これはサプライズというやつだ」
ルークは赤い紙でできた、星柄の三角帽を二つ手に取り、その内一つをレノアに差し出した。そしてもう一つを自分の頭にのせる。
「ねえルーク、とっても言いにくいんだけど」
受け取った三角帽を丁寧に磨き込まれたカウンターにそっと置き、レノアは躊躇いがちに口を開いた。
「ネスの誕生日は昨日よ」
「な、なんだと……」
「あれを見て」
レノアが指差した先には壁に掛けられたカレンダー。彼女は毎朝起きると、その日のマスに×印をつける習慣がある。それは息子達が生まれる前からずっと続けてきたもので、ルークもそれを知っていた。今まで一度もかかすことなく、また間違えることもなく続けてきた習慣であることも知っていた。
五月一日に×印がついている。
「まさか、そんなはずは」
ルークの表情が少しだけ歪む。
「全く、おっちょこちょいは治らないものね。この料理、二人じゃ食べきれないわよ」
「二人?」
「ネスならもういないわ。頭の良いあなたなら、この意味がわかるでしょう?」
「なるほど、そういうことか」
ルークは頭の上の三角帽をむしり取り、床に投げ捨てた。しわくちゃになったそれは、虚しくも存在意義をなくした。
「そういう意味か、母さん」
「ええ」
「
「ネスに託したわ」
「何故」
「それが父さんの意思だから」
「ネスはどこに向かった」
「私にはわからないわ」
「連れの女が行き先を言っていただろう」
「聞いていなかったから」
「嘘はやめてくれ」
「知っているけれど話せないわ」
「話せ」
「それを知ってあなたはどうするの」
「母さんの想像通りだ」
「ネスを殺してあなたが継承者になりたいの」
「俺は世界の終わりを見てみたい」
「私も父さんもそれを望まないからネスに託したのよ。あの子も世界の終わりを望んではいないわ」
「力ずくで聞き出さなければならないのか」
「私は息子に刃を向けたくはないわ」
「それは叶わない」
ルークは腰の刀を抜くと、レノアに向かって一歩踏み出した。
「こんな子に育てた覚えはないんだけどな」
レノアは
三日月型の刀身が、部屋の照明を受けて不気味にギラリと輝く。
「それがライル族に伝わるという殺人刀――
「なんのことかしら」
二人は同時に相手に向かって飛び出す。ぶつかり合った刃が、ギリギリと音を立てる。力ではレノアが勝っているのか、ルークの足がジリジリと少しずつ後退する。
レノアは力を緩めて腕を一旦引いた。そして薙刀を大きく振り上げると両の手に力を込め、ルークに向かって振り下ろす――!
「――くっ!」
ルークはその攻撃を受けきることがで出来ず、後方に吹き飛ばされる。その先に部屋の窓があり、背中でそれを割ると、彼は室外に放り出された。素早く起き上がり体勢を整えて窓の方に目を向けると、自分の背を軽く越える大きさの薙刀を携えた母が、割れた窓から悠々と出て来た。
そして冷たい声で、こう言い放つ。
「――あなたじゃ私に敵わないわよ?」
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