第49話 それは心を覗くようなものです。
「おや、ロビン様。珍しい本をお読みになられたのですね」
ルイに勧められた『洞穴の孤独』を読了し、返却すると司書のリオネルさんにそう言われたのだった。
「その……友達に勧められたから」
「なるほど、そうでしたか」
リオネルさんはにこりと頷いて、『洞穴の孤独』を見つめている。
まるでその本に格別の思い入れがあるかのようだった。
「感想はどうでしたか?」
感想を聞かれてしまい、困惑する。
ルイに一番に感想を言うつもりだったのに。
まあいいや。リオネルさんには掻い摘んで感想を言えばいい。
「えっと、最後の主人公が自分の存在と世界とどちらが間違っているのか思い悩んで、自殺すべきかどうか迷っているところで終わって……どうなったのか解釈は読者に委ねるってことだと思うんだけど、それでもこの主人公がどうなってしまったのか気になって……」
リオネルさんはボクの感想をにこにこと聞いていた。
そして彼は口を開いた。
「そうですね……一つだけ、ヒントを差し上げましょうか?」
「ヒント?」
本に書かれている以上のことなどあるのかと、首を傾げた。
「ええ。これは作者の実体験を本にしたものだと書かれてあったでしょう」
「うん」
こくりと頷く。
本の一番最初に書いてあった。
「そしてこの本がこうして出版されているということは、つまり……?」
「あ……!」
死んでいたら手記は本にできない。
だから主人公、つまり作者は悩んだ末に自己の否定を止めたのだろう。
「解釈を読者に委ねている、という考え方もありますが。私は『言うまでもないことだから結末を書かなかった』のだと思います」
「なるほど……」
思ってもみなかった考え方だった。
同じものを読んでもこんな風に感想が違うのだから、ルイがボクの感想を聞きたがった気持ちが分かる。
本の感想を交流するのは確かに楽しいことだ。
「もう一つ、質問してもいい?」
「はい、なんでしょう?」
リオネルさんは鷹揚に頷いてくれた。
「この本に記されてる作者の名前は、ペンネームというものなんだよね? 本名を載せれば有名になれたのに……どうして何だろう」
ボクの言葉に、リオネルさんは言葉を選ぶのに逡巡する素振りを見せた。
「そうですね……少々直截な言い方になりますが、よろしいですか?」
「大丈夫です」
こくりと頷くと、リオネルさんは躊躇いがちに口を開いた。
「娼婦が体を売るように、作家は心を売る職業なのです」
彼の口から出た言葉に驚いて、ボクは目を丸くした。
「赤裸々の言葉を文章に綴ったものが小説というものです。特にこの本はその性質がありますね。裸の心を知人に見られるのは恥ずかしい。そう思うから本名を使うのは憚られるのです」
彼の言葉を聞いて、本を読むというのは随分と大それたことをしていたのではないかという気分になる。
他人の心を無遠慮に覗き見てしまったようで、ちょっと頬っぺたが熱い。
「ですから……もしも作家や作家志望の方が貴方に直接書いたものを見せて下さることがあれば、それはとても特別なことなのですよ」
リオネルさんのその言葉が、妙に頭に残った。
*
「それで、感想はどうだった?」
それから程なくして、ボクは本を読み終わったことを伝えにルイの部屋を訪れたのだった。
ルイにどうやって感想を伝えようか、頭の中でいっぱい考えていた筈なのに、いざとなると全部吹っ飛んでしまっていた。
「えっと……その、ボクが考えもしないこと、たくさん考えてて凄いなって思った。作者は自分自身のことも世界のことも嫌いだけれど、だからボクには見えないものが見えてて、難しいことを沢山考えてる。だから――――他の人の考えを知るのは面白いなって思った」
あらかじめ思い描いていたよりもずっとたどたどしい言葉で、感想を説明する。
それでもルイは興味深げに目を輝かせながら、ボクの感想を聞いてくれた。
「だから、ルイの感想も知りたいなって」
「…………」
ボクの言葉に、ルイは黙って横を向く。
彼の机の方を見つめているようだが、何を見ているのか分からない。
机の上には特に何も乗っていなかったし。
「僕はね」
やがて彼は静かに語り出した。
「その本を読んだとき、『僕のことが書いてあるみたいだ』って思ったんだ」
何と言えばいいか分からず、黙って彼の言葉を聞く。
「僕が思い悩んでいたことが書いてあった。僕の苦しみが書いてあった。まるで僕の心が覗き見られたかのように、書いてあることに共感できた。『なんで作者は僕のことが分かるんだ』とすら思った」
「それで……あの本が好きになったのか?」
「うん。僕の苦しみは普遍性があるものなんだって、あれを読んで分かったんだ」
ルイがこちらを向いて、微笑みを浮かべる。
「君の言う通り、他人の考えを知るのは大事なことだね。『違う』ってことを知ることも、『同じだ』ということを知ることも」
何だか、ルイがボクの見たことのない表情を見せてくれたように感じた。
今のルイの微笑みは……恥ずかしげだけど、晴れやかだ。
「ねえ、ロビン。君が興味があればでいいんだけど」
「なあに?」
彼が大事なことを言おうとしてる気がして、姿勢を正す。
「実は……僕も、少し小説を書いてるんだ。読む?」
その言葉を聞いた瞬間、リオネルさんに言われたことを思い出した。
人から小説を見せてもらうのは特別なことだと。
これはきっと、ルイの心を覗き込むのに近い。
「…………僕でいいの?」
思わずそう尋ねてしまった。
「ああ。親にも乳母にも、マルセルにも見せたことはない。君だから見せられるんだ」
彼のその言葉に胸が弾むのを感じた。
ボクは彼の特別な人になれたのだ。
「もちろん。読ませて」
そう答えると、ルイは机の引き出しから原稿を取り出したのだった。
彼の大切な心に、ボクはそっと触れた…………。
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