第二十相 何よりも公平な取引

 人生は複雑怪奇、ほんの少し前の小さな出来事でその後の自分の道が大きく変わってしまうこともある。バタフライエフェクトやらと今語るつもりはありませんが、私はそれをものの一日で痛感する事になった。

 自分の秘密の露呈、その秘密を隠し通すための取引、それから始まった彼との対話。どれもが今まで私が一種苦痛になっていた秘密への捉え方を変える助けになってくれた。劇的とは言わずとも、大なり小なりと。

 中間テスト前日、最後のまとめと今まで学習した内容の振り返りをしている教師の話を聞きながら、私は昨日の出来事を思い返す。






「――――でだ、要求についてだが」

 目の前に座る男性。白みの強い銀髪を微かに揺らす彼は、肘をテーブルの上に乗せ、大きく角張った右手の人差し指を上に向けて立たせ、私の秘密を守ることと引き換えに求める対価を言った。

「俺の妹に一食、何か良い食事をさせて欲しい」

 その言葉に、顔にこそ出さないよう努めましたが、内心は疑問の嵐でした。何故妹さんへの対価の様になっているのか、何故彼は尚何も要求しないのか。私が考える「普通」ならば、自分に益のある要求を、それこそ彼の家庭事情を考えれば物品などの要求をしてきても不思議ではないだろう。実際私はその要求が来ると思い構えていた。

 しかし、彼は彼自身ではなく、彼の妹への行為を求めてきた。

「そんなことで…………良いのですか?」

 思わず確認してしまう。貴方自身もそれに含めなくてもいいのか、貴方が要求するものはそれだけでいいのか、と。何故か対価を支払おうとしている私が対価を貰おうとしている彼に問う可笑しな形になってしまっていた。だが、そう考えてしまうくらいにはその答えが自分にとっては違和感を覚える内容だった。なのに、彼はとても優しい笑顔でこちらを見ていた。

「俺の本心からのお願いだ、駄目か?」

 お願いなんて、彼が本来今言う言葉ではない。今は彼の要求を有無を言わさずに私に呑ませる話なのに、彼は我欲を一切出していないことになる。いいえ、きっと今の彼の言葉が彼の我欲なのだろう。我欲が他人主体なのは果たして言葉として正しいのかどうか。私は自分の欲と意思で彼に取り引きを持ちかけているのに、どうしてそんなにも、いつも自分が無いのだろうか。

 ずっと気になっていた。彼の自分自身への欲は何処にあるのか。彼は何処に居るのか。私には彼の姿が今、目の前にいるのに全く見えない。以前彼が月夜と月乃に言われたとごちていた、「自分に対して嘘吐き」と言う言葉。彼はその言葉をどうにも受け入れ難い物としているらしいが、私は彼の姿――――もっと言えば素に近い彼の言動や行動を見た時に、その言葉が強ち間違っていないと感じた。厳密に言えば、「嘘」と言うよりも自分への虚偽申告を繰り返した末にその申告が真であると誤認しているように見える。不足した情報からの憶測でしかないが。

 話を戻そう。彼は彼の妹に食事を振る舞って欲しいとのこと。それに対しての答えは決まっている。

「……いいえ、それが対価となり得るのなら」

「なら交渉成立だ、早速迎えに行きたいんだが――――」

「私の侍従にさせます、千歳ちとせ

「はい、お嬢様」

「今から教える場所に人を迎えに言って頂戴、その方には彼から連絡させておくので」

「畏まりました」

 であるならば、外に行くのも良いかと思ったが今日は両親が不在の日。どうせなら自宅の料理人の食事でもてなし、時間に追われたり人目を気にする事の無い状況でゆとりある食事にして欲しい。ならば彼の妹をここに赴いてもらうことになるだろう。彼が言葉を発するより早く、私は自分の侍女の名を呼んだ。すると部屋の入口、襖が音も無く開かれる。そこには、千歳緑せんざいみどりの髪をシニヨンにし着物を纏った、私が唯一信頼し、私の秘密を知っている侍女、千歳が恭しく頭を下げ立っていた。私の言葉を確認し、千歳は彼から自宅の住所を書き取る。

「あと、料理長に先程の話をして」

「はい、それでは行ってまいります」

「すみません、よろしくお願いします」

 彼に一礼した千歳は、先程と同じように音も無く襖を閉めていった。それを見届けた私と我妻さんは、一息入れるとお互いに向き直った。

「一先ず、ここで待ちましょう。そう遅くはならないはずです」

 私がそう言うと、我妻さんは珍しく眉尻を下げて頬を掻いていた。

「そうだな……すまない、感謝する」

 彼にとって、こう言ったお願い事をすることも迷惑をかけてしまう認識なのだろうか。再三これは私との取引による正当なやり取りとその対価であり、彼が後ろめたさを感じる理由は無い。そう心の中で思いつつ、私は返事を返した。

「それはこちらの言葉です」

 そうして私は、彼と暫くの間他愛も無い会話を続けていった。






 兄さんから連絡があった。「今から家に来る人に従って車に乗ってほしい」と。

 連絡不精の兄さんからの珍しい電話に驚いたのに、更には意図の読めない内容。何故と問う前に電話は切れ、私は訳も分からないままに外出用の服に着替えていた。数こそ少ないが、兄さんが何かと身の回りの物を揃えようとしてくれたおかげで、ある程度のお洒落をすることができる。自分の服も満足に買わずにと何度か苦言を呈したが、その返答は申し訳なさそうな笑顔だけ。そんな顔をされては私も何も言えないし、その気持ちあって私は友人達との外出にも違和感なく混ざることができている。貧乏を恨んだ事は無いが、しかし周囲と比較しよれた服を着ていく勇気もまた私には無かった。幸いそういった事を考慮してくれる友人が多かったのが救いだろう。

 若干剥げた箪笥を開ける。そこから私は、白のワイシャツとベージュのスキニーパンツを取り出し、それを抱えたまま洗面所兼脱衣所へと向かうと、部屋着を脱いで洗濯籠に放り込んでいく。ふと顔を上げると、鏡に映る自分の姿が視界に入った。下着姿のままではあるが私の姿を改めて見る。兄さんと同じ白みの強い一つ結いをしている銀髪のロングヘア、これは美容院に行く余裕が無いからそのままに伸ばしているだけだが。赤い瞳も同じ。母譲りの顔とスタイルの良さは、兄さんにとってどう映っているのだろうか。私はどうにもあの頃の母への印象が希薄なため、兄さんほどの嫌悪憎悪は抱いていない。勿論好きか嫌いかで言えば、嫌いの方に寄ってはしまうが。

 だが、私も兄さんも容姿についてはその母によく似てしまった。両親共に髪色が銀髪なのはまぁ大したことではないが、母の血を濃く継いだ故の容姿の良さは学校でもよく言われる。兄さんも、妹の贔屓目を抜きにしても格好良いと思う。正直自分の理想の異性は兄になるのかもしれない。そう言うくらいには、兄さんの容姿は整っており、鏡に映る私の姿も、平均より上に行っているという自負が得られるものだと思っている。

 閑話休題。何時までも自分の姿についてを鏡で見ながら考えるナルシストのような行為を慌てて私は止め、手に持っていた服を順に着ていく。季節的にも暖かい頃、今日はサンダルをはこうかなと考えていると、音が若干擦れているインターホンが鳴った。

「はーい」

 着替え終わった私は玄関の扉を開ける。その先には、着物を着た瀟洒と言う言葉が似合う女性が立っていた。出で立ちや立ち振る舞いがあまりにも見慣れないせいで呆けていると、目の前の女性は一礼し、一見すると寝ている様に見える目を伏せた顔でこちらを見てきた。

「突然のご連絡とご訪問、申し訳ありません。私は我妻銀士郎様の友人である檳榔子いろは様の侍女、千歳と申します」

「あ……我妻銀士郎の妹の眞銀と言います」

「銀士郎様より連絡して頂く旨を窺いましたが……」

「はい、兄から来た方の話に従うように聞きました」

「それは重畳、準備のほどが整いましたらお声がけください。下でお待ちしております」

「わかりました」

 着物の似合う女性――――千歳さんは私の返事を聞くと再び礼をし玄関を閉めた。私はそれを確認し、小さく息を吐いた。

「兄さん……一体何があったの……?」

 侍女と言う言葉は聞いたことがあったが、まさか兄さんがそういった人と関りを持っていたのには正直驚いてしまった。不知火学園中等部に通う自分は、勿論家柄の良い友人が多い為メイドや家政婦と言った人が居る話を聞いたことはあったが、直に見たのは今回が初めて。そもそもそう言ったものとは対極にいる我が家には縁がない物なので、今回は本当に兄の交友関係が気になるものになった。雪乃さん然り、先日兄さんを連れ出した月夜さん然り。兄さんの交友関係が私の知らない所で劇的に広がっていることが今回で確信的になった。ならば、妹として恥じぬように立ち振る舞わなくてはならないと、自分の心に言い聞かせる。

 私は貴重品を入れた鞄を確認し、肩にかけて玄関を出る。鍵をかけ一度ノブを回し、かけ忘れが無いことを確認し、錆の目立つ階段を降りていく。別に対して高価な物がある訳ではないが、それでも大切な自分たちの物。戸締りを忘れて手痛い出来事に見舞われるのは避けたい。兄さんにも再三言われたその言葉を反芻し、階段を降りていくと、オンボロアパートの前には今後一生停まることも通ることも無いであろう黒塗りの高そうな車が停まっていた。今からこれに乗るのだろうかと車の側に立っていた千歳さんを見ると、無言で後部座席の扉を開けてくれたので、私は大人しく中に入った。奥に詰めて座ると、千歳さんも後ろに乗り込み、運転席に座る初老の男性に声をかけた。

「お願いします」

「了解しました」

 乗り込んだ確認をしたのだろうか。その会話とも言えない確認作業が終わると、車はゆっくりと走り始めた。

「あの……」

「はい、何でしょうか?」

 どうにも手持無沙汰な車内、沈黙の継続が耐えられなかった私は、隣に座り常に目を閉じ伏せているせいで起きているのかどうかの判別がつきにくい千歳さんに話しかける。千歳さんは平坦だが冷たさはない声で応えてくれた。

「兄から聞いた話ではその……檳榔子いろはさんの家にお邪魔していると聞いたのですが、一体何故……? それに、なんで私を呼んだんでしょうか……?」

「詳細についてはご本人達からお聞きください。ですが、用件……と言うよりはお呼びした理由ですね。経緯は省略いたしますが、やんごとなき事情によりいろは様は銀士郎様に取り引きを持ち掛け、その対価として銀士郎様は眞銀様に食事をさせて欲しいとおっしゃられたのです」

「――――は?」

「少ない情報では理解しがたい内容なのは承知しています。ですが、私からお伝えできる情報はこれが限度なのです、どうかご容赦を」

 今、十数年共に苦難を乗り越え生きてきた兄の事が、限定的に全く分からなくなってしまった。何故私がそこで話の引き合いに出されるのか――――についてはこの際どうでもいい。あの兄は自分の事なんて二の次どころか永遠に自分の番を回してこない性格な上、私に対して重症レベルの過保護を発揮している。今更だ。

 問題はその前、取り引きとはなんだ?兄とその相手で取り引きをするには、あまりにも身分的な差が大きすぎる。逆ならまだわかるが、何故兄が対価を求める立場に居るのか。まさか、何か弱みを握ったから――――。

「弱み、と言うのは概ね正しいでしょう。ですが、銀士郎様も意図的にそれを知った訳でもなく、当初は対価を求めない姿勢で居られたのでご安心ください。全ては我が主人、いろは様が彼に対価を無理に聞いた末に熟考した結果、眞銀様のお話が出たのです」

「…………顔に出てました?」

「えぇ、とても可愛いらしい表情変化でした」

「うぅ……」

 普段はあまり顔に感情が出ることが無いのに、何故兄さんの事になると筒抜けになるのか。行き場のない感情を持て余しながら時間が過ぎていく。沈黙による手持無沙汰を嫌って会話を振ったら予想外の恥ずかしさが残ってしまったので、私はそれ以上何か言葉を発することができず、千歳さんもそれ以上言葉を続ける事はなかった。

 それから暫く車が進んでいくと、窓の外に漆喰の長い瓦屋根の塀が映り込んできた。驚き前方へと目をやると、巨大で荘厳な門がそこにあり、車はその前に停車した。

「到着致しました、少々お待ちください」

 千歳さんはそう言うと車のドアを開き、車体後方をぐるりと回ると私が居るドアを開けてくれた。降りてもいいということで外に出ると、眼前に佇む木造の大きな門がゆっくりと開かれる。その中へ千歳さんは進んでいくので、私も後に続いて行く。中はおじいちゃんの道場よりも静かで厳かな雰囲気に満ちており、自然と自分の背筋が伸びているのがわかった。今までこうして誰かの家に訪れる事は、この間の友人宅への宿泊と合わせて二回目であり、更にはその時の友人の家よりも遥かに大きく気品ある空気を感じれば、こうなるのも仕方がないと思う。

 広い玄関で靴を脱ぎ上がると、千歳さんが先導して廊下を進んでいく。古き良き日本建築の様式の廊下から丁寧に手入れされている庭が見え、それを眺めながら歩いていると、不意に千歳さんが襖の前で立ち止まった。

「いろは様、銀士郎様、眞銀様をお連れ致しました」

「ありがとう、入って頂戴」

 中からはっきりとした澄んだ声が聞こえてくる。千歳さんがゆっくりと開けた襖の先に居たのは、テーブルを挟み座っている兄さんと、檳榔子いろはさんだった。

「それでは私はここで、何かありましたらお声がけください」

 私の背を押して部屋の中に進ませると、千歳さんはそっと襖を閉めていった。

「いらっしゃい、眞銀さん。急に呼んでしまってごめんなさい」

「いえ……その、兄さん?」

「色々あってな、コイツとのやり取りで何かして欲しい事を言えと言われたんだ。俺は特になかったから、どうせならと食事をお前に出して欲しいとな」

「待って、兄さん待って」

 あっけらかんと言い放つ兄さんに詰め寄る。兄さんは驚いた顔でこちらを見ていたが、その顔をしたいのはこっちだ。

「…………どうした?」

「どうしたもなにもないよ、どうして私を話に出したの」

「何時も満足にいい物を食べさせられてないと思ったからだ」

「別に私は文句はないよ!」

「それでも、こうして機会が設けられたのなら使わない手はない。檳榔子としても重すぎず軽すぎずな要求ではあると思ったから言ったんだ」

「はい、その程度なら大したことではありません。あまり気になさらないで」

「…………はぁ」

 思わず溜め息を吐く。兄がこういう性格なのは知っていたが、まさかここまで普段の生活に対して私に要らない気遣いをしていたのかと思うと、早く私も家計の助けとなれるようアルバイトをしたいと切に思った。これでは人様に食事を集りに来た人間の様で恥ずかしい。別に自分が頼んだ訳でもないのに、居心地の悪さが増す。こんな生真面目そうな檳榔子さんに一体兄さんは何を取り引きしたのか。

「それで……一体兄さんはその、檳榔子さんと何があったの?」

「…………」

「…………」

 何故沈黙が続くのか。兄さんも檳榔子さんも、視線だけをお互いに合わせると小さく頷いていた。

「あれだ……俺が今年生徒会に入ったのは知っているな?」

「うん」

「檳榔子はそこの副会長なんだが、仕事上で俺がこいつの仕事のリカバリーをしてな。俺としては別に大した労力ではなかったんだが、どうにも檳榔子は義理堅くてな。どうにかお礼がしたいと言ってきて今に至っている。取り引きと言ったのは一種の比喩だ」

「……えぇ、彼には普段から色々とお世話になっていたので、ここでお返しがしたいと」

「はぁ……」

 なんというか、拍子抜けだった。そこにどんなやり取りがあったのかはわからないが、その程度なら私を巻き込まなくても何かしらやり様があったのではと思ってしまう。しかしこの兄だ、自分が求めるものがわからないから私を引き合いに出したのかもしれない。それなら納得できる。何時だってこの兄は自分のより他人であり、私なのだ。合点がいき肩の力が抜けるのを見てか、檳榔子さんは私に手でテーブルの側に座るよう促してくれたので、兄さんの隣に座ることにした。

 食事については今更断る訳にもいかない。こうなったら美味しく頂いて、遺恨の無いようにしようと思った。

 少しして千歳さんが持ってきてくれたお茶とお茶菓子を摘まみながら、私は檳榔子さんに学校での様子を、檳榔子さんは普段の兄さんの様子をお互いに話しながら緩やかな夕暮れ前の時間を過ごした。少し居心地の悪そうにしている兄さんを横目に。

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