第四相 瑠璃色は赤から逃れたい:1
慌ただしい生徒会顔合わせをしてから一週間後、俺こと我妻銀士郎は新学期・新クラスの雰囲気や新たな風紀取締の仕事にも慣れてきたと思う。当初不安要素だった紅との関係も、業務的な対応を意識すれば然程衝突しないため目下の問題はそこにはない。
問題はあの日転倒し俺に馬乗りになる形となった瑠璃だ。お互いに怪我も無く、その後も特に何かが起こった訳でもない。ないのだが、どうにもあの後の瑠璃が変にぎこちない様子でこちらの言葉にも上の空な応答が返ってくるのみだった。どこか痛めたのかと聞いたりもしたのだが、やはり怪我も何もない。月乃が気にしなくても大丈夫だと言うのでそれ以上聞く事は無かったが、あれからまだまともに会話ができていないのが気になる所だ。あの女所帯で友好的に接してくれている彼女との関係が悪化するのは避けたい。どうにかならないものかと思案していると、見覚えのあるライトブラウンのセミロングと片側に垂れたウサギの耳の様なカチューシャの端が見えた。
「瑠璃」
「ひゃうっ!」
特に声を低くした訳でも、威圧した声色な訳でもないのだが、瑠璃は肩を大きく上げ小さく悲鳴を上げた。恐る恐ると言った具合に振り返った瑠璃は、俺の顔を見るや否や後ずさりを始めた。
「あ、あはは……銀士郎さんこんにちは……」
「逃げるな」
運動部を掛け持ちし特待で入学した身体能力で逃げ出す前に腕を掴む。流石に力加減ができない間抜けではないから痛みを伴うほど握ってはいないが、体格や筋力の差もあり難無く捕らえる事に成功する。
「はぁ……なんで逃げようとする?」
「いえ、その、何と言いますか、この間はご迷惑をかけたなーって思いまして顔を合わせるのが気まずかったと言いますか、その、はい……」
「俺は別に気にしていない、気を抜いてバランスを崩した俺の落ち度だ。こちらこそ怪我がないか気になってこうしてお前を探していたんだ」
「ありがとうございます、私は何もないですよ! ほらこの通り!」
俺が掴んだままの腕をぐるぐると回し、元気であるアピールをする瑠璃の様子に、ひとまず大きな問題が無いことを再確認する。避けていた理由もわかったので、これ以上の追及は不要だろうと考えていると、彼女の小脇に抱えられたものが目に入る。どうやら筆記用具と何かの科目のテキストだった。
「これから自習か?」
「はい! 私、スポーツは得意なんですけど何分頭が悪くて……赤点ギリギリなのを先生に怒られちゃったんですよね」
「さすがはスポーツ特待生と言ったところか。しかし一人でやるのは大変じゃないのか、他に人は?」
「実は一人でなんですよね……できるなら人に迷惑をかけたくないので……」
「…………」
「銀士郎さん?」
どうにも今の彼女の表情が俺の中の何かに引っ掛かった。照れ笑いでもない、自虐笑いでもない何か。見覚えがあるのか、それとも知っているのか、それはわからないが。
「……奇遇にも俺は今日、風紀取締の見回りが無い」
「はぁ……」
「そしてお前は赤点ギリギリだと言った、そうだな?」
「お恥ずかしながら……」
「話を聞いたのも何かの縁だ。その自習、俺が付き合おう」
「え……えぇ!?」
「そんな驚く事か?」
「いえいえいえ! ダメですって! 銀士郎さんは学費免除の為に頑張っているんですよね!? それなのに私の勉強を見てもらうなんて迷惑に――――」
「ここで自分から言うのは心底恥ずかしい限りだが、俺はこれでも学年主席だ」
「――――ほぇ?」
「一人の友人の勉強に付き合うだけで成績を落とす様なヌルい勉強はしていない。それにお前の勉強を見れば俺の復習にもなる。何ら不都合はない」
「で、でも、少しでも銀士郎さんの重荷になるのは……!」
「お前一人で重荷にはならない。生徒会の役員仲間になった以上、独力でやるには難しいことをやろうとしてるなら力を貸すのは何ら不思議じゃない」
「でも……でも……」
そう言っても尚受け入れようとしない瑠璃。嘆息した俺は、掴んだままだった瑠璃の腕を俺の方に引き、至近距離で目線を合わせる。これが意思を伝えるのに最適だ。
「俺はお前の助けになりたいと思ったから今申し出ている。俺とやるのが嫌だったり、俺の事を嫌っているなら断ってくれて構わない。俺はそれで態度を変えるつもりも無い。だが俺に迷惑がかかるだとかの他人第一の理由なら聞かないぞ」
「う……」
「知り合って一週間程度なのは承知の上だ、返答が欲しい」
「ま、待ってください待ってください! 近いです!」
「……すまん、熱くなり過ぎた」
瑠璃が体を俺とは逆方向に動かしながらそう言ったのを聞き、自分があまりにも詰め寄りすぎた形になっているのに気が付いた。流石にやり過ぎたと冷静になり、俺は身を引き腕も放した。距離をとった瑠璃は何故か持っていたテキストで顔を隠している。
「……何しているんだ?」
「な、なんでもないです……」
「そうか……それで話を戻すが――――」
「あれ? 銀士郎、なにしてるの」
「おー我妻君、こんなところで何してるの?」
背後から声が聞こえてくる。聞き覚えのある声に俺は振り向くと、紫がかった黒髪と紫と橙のオッドアイを持った男と、桜色が仄かに混ざる灰色の外跳ねの髪に青色の瞳の少女が居た。
「……響也と伊桜か、今取り込み中だ」
「顔真っ赤の女の子と怖い顔した男が立ってたら私なら声かけるかなぁ」
「あ……すいませんご心配をおかけして、私は大丈夫です!」
「まぁ銀士郎に限って理由なく女子に手を上げる事は無いのはわかってるけどね。もしかしてその人が生徒会の?」
「あぁ、そうだ」
「胡桃瑠璃と言います!」
「んー、オレは
「こんにちは胡桃ちゃん、よろしくねー」
「はい! 銀士郎さんにはお世話になってます!」
「どっちかって言うと世話かけてる方じゃない? 銀士郎」
「さぁな、お前らは何してるんだここで」
時刻は既に三時を回り放課後、運動部の掛け声や教室に残っている生徒の会話がそこかしこから聞こえてきている。特に委員会や部活に所属していないこの2人に、俺は純粋な疑問を投げた。
「ちょっと屋上で寝てたら伊桜に起こされたところ。今から帰る」
「いくら暖かくなったからって外で寝てると風邪ひくって何度も言ってるのに、響也が全然言うこと聞かないんだもん」
「暖かければ寝るのは当然の事じゃないか? いい天気の日に寝ないのは勿体無い」
「お前はもう少し目を開けて活動する事への意識を高めろ、誰のおかげで進級できてると思ってるんだ」
「伊桜のおかげ、いつもありがと」
「う、うん。そう思ってくれてるなら……しょうがないなぁ」
「そう言う甘いところがコイツをダメにしてるんだ、伊桜。幼馴染だからってそれは締めろ」
「うーん、わかってはいるんだけどね……」
「伊桜、取り敢えずあそこのカフェ行こう。新作のパフェが食べられるらしい」
「いいよー、じゃあ我妻君と胡桃ちゃん、またね」
「また明日、銀士郎」
「はぁ……買い食いを禁止されてはいないが程々にしろよ」
「さよならー」
ふらふらと歩く響也の腕を取り引いていく伊桜の姿を見送る。途中から腕を組んで歩く姿を廊下に居る生徒たちが眺めている姿に、何を珍しがっているのかと思った。
「あのお二人、お付き合いされているんですか?」
「何故だ?」
「え?」
「ん?」
「いえ……腕組んでたりしてあれほど距離感が近いなら付き合ってるんじゃ……」
「何をしたら付き合っているとするのか俺にはわからないが、あいつらは別に恋人関係ではないと思う」
「……銀士郎さんの見解はそれに限っては信用があまりできないと言いますか」
「まぁ俺はその手の話には疎い、これ以上話す事ではないだろう」
そう、本題はそこではない。あの二人の乱入に話が一旦逸れたが、それを戻す。
「それでだ、さっきの話の返答が欲しい」
「…………あー」
「なんだその顔」
「いえ、そのまま流れるかなと思ってたので」
「記憶力はいい方なんだがな」
「それは大変失礼いたしました……」
わざとらしい声で頭を下げる瑠璃。カチューシャの耳がそれに合わせて揺れるのを見て、これが立っていたら喜怒哀楽を一目でわかるものになってくれたのではないかとどうでもいいことを考える。本当にどうでもいいな、やめよう。
「えっと……本当に迷惑に、ならないですか……?」
「さっきも言った通りお前一人に勉強を教えたくらいで成績は落ちない。もし落ちたらお前に……そうだな、甘味の一つでも振る舞う約束をするくらいの自信はある」
「銀士郎さんの懐的に痛すぎる出費ですよね……?」
「そういう無謀な約束ができるくらいには自信があるってことだ」
「なるほど……なるほど……」
俺の言葉に瑠璃はテキストを胸元に抱きながら顔を伏せる。そして何かを小さく呟いたかと思うと、勢いよく顔を上げ俺の目に視線を合わせた。その眼は何か覚悟を決めた様な眼だった。
「よろしく……お願いします……!」
「よし、わかった。少し強引な話にしてしまって悪かった」
「いえ、私としてもそこまで強く言っていただけたので踏ん切りがつきました」
満面の笑みを浮かべた瑠璃は、くるりと後ろに体を回し少し先へと小走りで進む。そして後ろ手に筆記用具とテキストを持ち、顔だけをこちらに向けた。
「そこまで自信満々に言ったからには、是非とも私の成績をグンとアップしてもらいますからね!」
にひひ、と。出会って間もないながら初めて聞いた彼女の笑い声。それが何故か酷く自然な、彼女本来の笑顔のように俺は思えた。よかった、俺は彼女を笑顔にできたようだ。
「あぁ、言ったからには責任を持ってお前の面倒を見る。安心してくれ」
「ならば善は急げです! 図書室に行きましょう!」
「あぁ」
軽やかに前を歩いて行く瑠璃の背を追い、俺も歩き始めた。窓から吹く風が瑠璃の胡桃色の髪を靡かせ、桜の色に映えるのがよく見えた。
—―――――――――――――
――――――――
場所は変わり図書室、隅で本を捲っている白群を見つけた俺と瑠璃は、彼女の確認を取り同じ机に同席することになった。彼女曰く、適度な雑音が欲しかったとか。
「さて、お前に勉強を教える前に一つ確認することがある」
「へ?」
テキストを広げシャーペンを手に取り、意気揚々と始めようとしていた瑠璃に待ったをかける。
そう、俺はまずコイツの事について把握しなければならないことがある。それは教えていく上で前提として知っておかなければならない事であり、それにより教える内容も変わってくる。それは――――――
「うちの学校は成績を電子データ化してそれぞれのアカウントで随時確認ができているのは知ってるな? 張り出し以外に自分の成績や模試の結果の確認ができるのはアナログとデジタルの融合と言うべきか、二度手間を忌むべきか。まぁそれはいい。メインの話はその成績照会でお前の成績を確認したい」
「ゑ」
「なんだその声は」
「あ、はい、そうですよね、教えてもらうからには自分の成績を伝える必要がありますよね、はい」
「……?」
「その……私の成績を見てやめるとか……言わないでくださいね…………?」
「言わないし笑いもしない、把握したいだけだ」
「うぅ……どうぞ……」
若干震え声になりながら瑠璃が学校から提供された電子デバイスを差し出す。画面には去年一年間の成績が映し出されていた。
そこには――――。
「――――――――」
「あうぅ……絶句されました……」
「瑠璃は筋金入りのおバカだから……」
「七望ちゃんまで酷い!」
俺は俺の推測眼をもう少し養わないといけないみたいだ。もしくは友人と言う色眼鏡に毒されたか。
瑠璃は確かに言っていた、赤点ギリギリだと。その言葉から成績が悪いのは当然予想できるしどの教科が悪いのかと考えたりもした。
しかし、瑠璃は5教科の内3教科が赤点間際、1教科は可もなく不可もなく、唯一社会科目のみ成績は並と言った具合。まさか赤点の危機のある科目が3つもあるとは想像していなかったが、しかし俺の想像の足りなさのせいだと思うことにした。現状を嘆いたところで、成績は好転しない。
「……はぁ、現状はわかった。今成績のいい社会は最後に回す。中間試験までに数学・理科・英語の成績を平均以上にすることを目標にする。国語はその次だ」
「すみません……」
「謝るな、嘆いたって変わらないからな。これからは俺とお前の二人で協力していかなければ目標までにいかない。短い期間しかないが、できる限りの事はやるぞ」
「……はい!」
「じゃあ早速始める。数学をまずはやるぞ」
「わかりました、頑張ります!」
「……ふふ」
今、白群が笑ったような気がしたが、視線を向ければいつもと変わらない読書姿があるだけだった。
俺は
さぁ、俺は何処までコイツの役に立てるだろうか。
—―――――――――――――
――――――――
銀士郎さんはいい人だ。私は最初、彼の瞳を覗き込んだ時にそう直感で感じた。
あの眼は人の役に立つために躍起になる人の眼だ。それも利己的なためではなく、本心で誰かの役に立つことを望んでいる――――いえ、一種の枷みたいになってるようにも見えました。じゃらじゃら絡んでる鎖みたいに。
だからこそ私は、私は対等に、銀士郎さんの生きがいの障害にならない様にしようとしました。仲良く、しかし迷惑をかけないように。
――――なのに、あの日の交流会では何故か銀士郎さんを、その、お、押し倒してしまって。でもすごい反射神経で私の事を助けてくれました。雪乃さんが言っていた通りなのか、私と密着していたのに一切表情を動かさなかったのはちょっと、ちょっとだけ不服と言いますか。自分で言うのもなんですが、平均よりスタイルがいいとは自負していますし、周りからも言われます。それなのに自分だけ意識してるみたいで、つい1週間ほど銀士郎さんと顔を合わせるのが気まずくて避けてしまいました。まぁ、すぐに捕まってしまいましたが。
そして避けたかったことに早速捕まる始末。私の勉強を見てくれると申し出てくれた彼は凄い真面目な顔で、一瞬思考が停止してしまいました。元からそんな働きの良い脳味噌じゃないんですけどね。
勿論断るつもりでした。学年主席だと言う話を聞いたら余計に銀士郎さんのお手を煩わせる訳にはいかないですから。
なのに、銀士郎さんは私の手を引きまたあの日みたいに間近まで顔を寄せてきて、まるで告白のような言葉を言ってきました。文脈を知らない人が見たら熱烈な告白ですよ、全くもう!
でも――――あの眼と言葉の力強さに迫られたら仕方ないですよね。
顔が赤くなるのも、異性の顔が急に近くなったから。
声がたどたどしくなるのも、告白紛いの言葉を言われたから。
心臓がうるさいのも、急に手を引かれてびっくりしたから。
関係無い。
関係無いはずです。
今は、隣で真剣に問題を教えてくれている銀士郎さんの話を聞くべきなんです。
――――顔は、見なくて、いいんです。
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