第126話 再び、雨の器にて

 三人が目的地の到着を確信したのは、家々の発見によってではなかった。少し離れた空の上に、紫色の雲が渦巻いているのを見つけたことによって、である。


「あっ。あの雲……」

 牡馬の上で、ルーがやや身を乗り出した。隣でイゼットはうなずく。


「間違いない。あの荒野だ」


 ヘラールを止めたイゼットも、呟く。紫色の雲を映した瞳は、それを切り裂くかのように鋭い光を宿す。同じように止まったシャハーブの態度は、彼とは対照的だった。渦巻く雲を見つけると、陽気にひとつ口笛を吹く、


「おーおー。よどみの大地が、ずいぶんとわかりやすいところに存在するじゃないか」

「今から行くんですか?」


 姿勢を戻したルーが、わずかな疑念と憂いを宿した瞳を青年に向ける。彼は、やんわりとかぶりを振った。


「いいや、まずはヤームルダマージュに行った方がいいだろう。いくら『浄化の月』の宿主が一緒とはいえ、なんの準備もなしに突っ込むのは自殺行為というものだ」

「俺も同感です。ひとまずは街を目指しましょう」


 苦笑したイゼットは、雌馬に方向転換を指示する。彼女は、少し安心したように蹄の向きを変えた。他の二人も、それにならう。


 己の前を通り過ぎていく人馬を、紫色の雲は不気味な沈黙でもって見送った。



 岩だらけのかたい道を慎重に進む。すると、そのうち凹凸の激しい山道から幅広の街道に出た。街道といっても人の気配はさほどなく、心地よい静寂が広がっている。馬蹄の響きだけを聞きながら街を目指していた三人はしかし、その途中で馬を止める。


「おや」


 シャハーブが目を丸くした。彼の視線の先には、人影がひとつ。それに気づいたイゼットたちも、目を凝らした。ここらではあまり見かけない格好の人だということが、曖昧な輪郭からもわかる。だが、それ以上に、イゼットとルーは古い記憶を刺激されていた。


「あ!」


 ルーが馬上で声を上げる。それに気づいた前方の人が顔を上げた。むこうはむこうで目を丸くしたようである。風に乗って素っ頓狂な声が聞こえてきた。


「あれ? イゼットにルーじゃないか。久しぶり」

「カヤハンさん」


 イゼットとルーは声を揃えて叫ぶ。それから、慎重に馬を近づけた。やっと色が見えてきた頃になって、青年が手を振っていたことを知る。あんまり遠くから手を振られても見えませんよ――と、喉元まで出かかった指摘をのみこんだイゼットは、代わりに馬を下りた。フーリとは別の意味で感情が読めない青年に向かって、礼を取る。


「お久しぶりです。覚えていていただけて嬉しいです」

「いやいや、こちらこそ。元気そうでよかったよ」


 カヤハンは帽子をとると、控え目に頭を下げる。のんびりとした笑顔は相変わらずだ。イゼットにならって馬を下りた少女を見つけると、彼はまたひらりと手を振る。


「ルーも久しぶり。相変わらず元気いっぱいだね」

「お久しぶりです、カヤハンさん。カヤハンさんも、変わらずあの雲のことを調べてるんですね」

「おや、ばれたか」


 底抜けに明るい指摘に対して、青年は自分の頭を軽く叩いた。イゼットは、おどけた振る舞いの中に彼の研究者魂を見出した気がして苦笑する。ここまで何度も『よどみの大地』に突入していて無傷で帰ってこられる彼は、相当な強運の持ち主なのだろう。


 帽子をかぶり直したカヤハンはしかし、二人の後ろからやってきた青年に気づいたようだ。軽く首をかしげてから、それでもお辞儀をした。


「そちらの方は初めましてだね。俺はカヤハン。この先の街に住んでいる精霊研究者だよ。よろしくー」

「これはこれは、ご丁寧にありがとう。俺はシャハーブ。何も持たぬ旅人さ。イゼットたちとは成り行きで共に行動している」


 シャハーブの優美な微笑を友好の証として、二人の青年は握手を交わす。その様をはたで見ていて、この二人は意外と似た者同士なのかもしれない、などと考えていた。


「それで、君たちは今回、どういう用事でここに来たの?」


 一通り形式が終わると、カヤハンは帽子のつばを下げて問う。イゼットは、遠くに見える紫色の雲を手で示した。


「実は、あそこに用があるんです。けど、その前にヤームルダマージュへ立ち寄ろうと思っています」

「なるほど。それなら俺も同行しよう」

「いいんですか? カヤハンさんはカヤハンさんで、用事があるんじゃ……」


 イゼットが陽の色の瞳を丸くすると、研究者の青年は曖昧に笑う。


「構わないよ。俺は俺で成果なしだったから。それに、君たちと一緒にいた方がなにかとおもしろい発見があるからね」


 やはりこの人はシャハーブさんに似ている、とイゼットは思いを強くした。


 彼の視線を受けた当の旅人はなにも言わない。ただ、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。



 町に着く頃には、空に薄い雲がかかっていた。それでも人々は明るい。風変わりな格好の研究者を見つけると、誰もが一瞬足を止めて声をかけていく。カヤハンも、彼は彼でのんびりとそれに応じるのだった。


「なるほどなるほど。正面から入ったことがなかったから、これは新鮮だな。遥か西より風吹く日、と」


 ヤームルダマージュの町並みをながめ、シャハーブが歌うように呟く。イゼットは思わず足を止める。彼の言おうとしたことはぼんやりとしかわからなかったが、そのささやかな歌声は人を惹きつけるには十分すぎた。


 ルーもその声に気づいたらしい。彼女は小首をかしげると、黒茶の瞳を丸くした。


「『正面から入ったことがない』ってことは、別のところからは入ったことがあるんですか?」

「おっとお嬢さん。そういうのは、揚げ足取りというんだ。覚えておくといい」


 シャハーブはひらりと手を振る。少女の追跡を危ういところでかわした男は、半歩前に出ると二人を振り返った。


「さてさて。まずはどこか宿をとって、簡単な打ち合わせをしようか。いくつか再確認しておきたいこともある」


 イゼットは軽く肩をすくめる。これから初めての浄化に挑むのだ。その実感が遅まきながらわいてきて、彼の全身を緊張させた。そんな彼を一瞥した精霊研究者が、ゆったりとした調子で口を開く。


「なにか密談したいときはうちに来るといいよ。さすがに三人を泊めてあげるのは難しいけど」


 イゼットたち三人は、なんともいえぬひきつった笑みを交わしあう。気まぐれな精霊そのもののようなカヤハンの言動は、今も健在のようだ。


 結局のところ、イゼットたちはその言葉に甘えることにした。町の中で適当な宿を確保した後、まっすぐカヤハンの家へ向かったのである。


 文字通り足の踏み場がないという資料室も健在らしい。のほほんとそう語るカヤハンに苦笑しつつ、三人は居間を使わせてもらうことにした。


 何やら動き回っているカヤハンの横で、イゼットは椅子を引く。座る前に手を止めた。精霊研究者を振り返る。彼がこちらに気づく様子はない。肩をすくめて、イゼットは今度こそ席についた。


「それじゃあ、まず『よどみの大地』内での動き方を再確認だ。ルーと俺が絶対に守らねばならん事項がひとつ。イゼットのそばを離れないこと」

「はい!」


 シャハーブがまじめくさって切り出すと、ルーが元気よく手を挙げる。満足そうに口の端を持ち上げる青年に、イゼットは率直な疑問をぶつけた。


「シャハーブさんもですか?」

「俺も元は人間だからな。魂が変質しているといっても、よどみの大地のあの気を浴びて、まったくの無傷というわけにはいかないんだよ。基本的には天上人か『浄化の月』の宿主のそばにいるのが安全だ」

「なるほど」

「そういうわけで頼んだぞ、坊ちゃん」

「俺は何もできませんがね……」


 イゼットが軽く肩をすくめると、シャハーブはやや大げさに手を振る。

「あの地においては、そこにいるだけでもありがたがられる存在だぜ?『浄化の月』の宿主ってのは。それに、肝心の浄化はイゼットがするんだからな」

「その浄化ですけど、俺はまだやり方を教えてもらっていませんよ」

「あれはで教えられるようなものじゃないんだ。現場についたらフーリもくっついてくると思うから、そのときに聞いてくれ」


 イゼットとルーは顔を見合わせる。正直、不安だった。こんな行き当たりばったりで大丈夫だろうか。


 二人が不安に顔を曇らせていたそのとき。イゼットの横の椅子が静かに引かれる。驚いて顔を上げた若者は、のほほんと笑う青年と視線をぶつけ合うことになった。


「やあ。何やらおもしろそうな話をしているね」

「ええ、まあ」


 どう返してよいかわからず曖昧に笑ったイゼットは、それからはたとあることに思い至る。カヤハンの顔を見つめ返すと、以前と変わらない感情の読めない笑みが返ってきた。しかたなし、とばかりにかぶりを振った若者は、シャハーブに向き直る。


「そうだ、シャハーブさん。カヤハンさんが同行するかもしれないので、そのときはよろしくお願いします」

「おや。いいのかい?」


 カヤハンはへらりと頬を緩める。一方、シャハーブは珍しく目をみはった。イゼットは、さりげない所作で彼に顔を寄せる。自称何も持たぬ旅人の青年は、秀麗な顔をしかめた。


「さすがに、一般人を連れていくのはどうかと思うぞ」

「止めても黙ってついてきそうなんです、この方。それなら、最初から一緒に行動していた方が安心かと思いまして……」

「……なあるほど」


 深々とため息をついたシャハーブは、大仰に髪をかき上げた。それから、声を大にする。


「しかたがない。男のお守りは気が進まないが、勝手に死なれるよりはましだろう。カヤハンとやら、ついてきても構わんが、そのときは絶対に俺たちから離れないようにしてくれ」


 音楽的な声はしかし、どこか疲れたように響く。対してカヤハンはにこにことしたままだった。「わかったよ。よろしくね」とよどみなく答えた彼は、ついていく気満々のようである。

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