第122話 聖女の戦い 1

 息を吸う。細く。そして、深く長く、吐き出す。


 広げる。どこまでも、薄く。


 呼吸に合わせて、感覚を少しずつ、外へと飛ばしていく。それは、巫覡シャマンの術の基礎であった。


 広げる。飛ばす。精霊への静かな祈りとともに。


 それをしばらく続けていると、目の中に見ているのとは別の風景が映りこむ。


 ひと気のない高原。時折、鳴き声とともに獣の影が動いては、川の方へと消えていく。繰り返される生命の営み、その流れが突然変わったのがいつなのか、彼女に正確なことはわからない。目に映るのは、起きた事象だけだからだ。


 ふいに高原が暗くなる。夜になったわけではない。牛も、鹿も、狼も、まだ活発に動いているのだから。彼らはぶるりと体を震わせた後、一目散にどこかへ逃げ去った。高原はどんどん暗くなる。背の低い草木が色あせて、枯れていく。


 視線を上に向けると、紫色が見えた。それが雲だと気づいたのは、紫が渦を巻きはじめてからのことである。どろどろと動きながら、雲は少しずつ大きくなっていくようだった。


 暗紫色に包まれた世界。そこは荒野となり果てて、いつしか鳥獣の息遣いさえ聞こえなくなった――



 映っていた景色が消える。世界が光で満たされた。アイセルは、まぶしさに目を細め、いっそう大きく呼吸した。


 膝を立てて、立ち上がる。彼女が立っているのは狭い部屋だ。壁と床と、聖都が一望できる窓しかないそこは、聖女のためだけの礼拝部屋。それゆえに、彼女一人がいるだけでも狭苦しく感じてしまう。


 精霊たちの声が遠ざかるのを感じ取り、アイセルは両手を軽くすり合わせた。なんだか今日は後味が悪い。いつもなら、日課の礼拝の後は、心が透き通るような気持ちになるというのに。


 今日だからこそ、晴れ晴れとした気持ちで一日を始めたかった。アイセルは、少しだけ残念に思って――すぐに赤面した。自分の気持ちを一方的に押し付けるなど、精霊に対してなんたる無礼か。これでは、聖女失格である。


「それにしても……今のは、なんだったのかしら」


 先ほど見た光景を思い出す。どこのことかも判然とせぬ映像だったが、それは娘の記憶にしっかりとこびりついていた。悪夢のようだ。はっきりと覚えているぶん、それよりもたちが悪いかもしれない。


 数ある巫覡シャマンの術の中でアイセルが得意とするのは、遠視と先視だ。つまりは、離れたところで起きたことや、これから先に起きることを、精霊を通して視ることができる、というわけである。ゆえに、礼拝を行うとそれらの事象を少しだけのぞくことになるのだが――。


「もっと、力が強ければよかったのに」


 アイセルは、ため息をついた。今までの深呼吸とは違う、心の澱を外へ出す呼吸。


「力が強ければ……この短い時間でも、詳しいことがわかるのに」


 おのれの手を広げて、にらむ。白くて、細くて、薄い手は、アイセルの目にはひどく弱々しく映った。


 なぜ、私が聖女なのだろう。

 アイセルの脳裏に、何度となく抱いてきた疑問がよぎる。


 同じ遠視や先視を得意とする巫覡シャマンでも、アイセルより能力の高い者はごまんといる。自分の隣にいた従士でさえ、精霊との親和性は彼女よりはるかに高かった。なのに、なぜ、ここに立っているのは自分なのだろう。


 礼拝部屋をぐるりと見渡したのち、アイセルはかぶりを振った。


 どんな理由であれ、あるいは何の理由もなかったとしても、聖女になったのはアイセルなのだ。彼女の従士ならば迷いなくそう言って、その上で彼女を信じてくれるだろう。背中を押してくれるだろう。


 だからこそ、今は甘えてはいけないのだ。彼女が聖女であるために。彼の帰る場所であるために。


 瞑目する。


『あなたは決して孤独ではない。どうかそのことを、忘れないでください』


 彼の最後の言葉をお守りのように抱きしめて、アイセルは礼拝部屋の扉を押し開いた。――今日も、戦いが始まるのだ。



 階段を下りて、聖教本部の長い廊下を歩く。彼女が静かに足を進めていると、ほとんどの人が挨拶をしてくれて、彼女も相手に合わせた返礼をする。それが通例だ。


 この挨拶が立場によってまったく違うのが、アイセルにはおもしろい。


 男性の神官や下働きの者であれば、無言の礼。女性の神官であれば恭しい言葉遣いで挨拶の言葉をくれる。騎士の場合はもう少し砕けた態度であることが多い。元気いっぱいに「おはようございます!」と言ってくる者もいる。小隊長ほどの者に多いこの対応は、お年寄りの眉をひそめさせるものだが、アイセルは好きだった。これもまた、友人の影響なのかもしれない。


 ちなみに、これらの違いは、地位の高い者となると変質してくる。聖職者でも、騎士でもだ。それはおそらく今の聖女がアイセルだから、というのが大きいのだろう。時々からみつく粘っこい視線に気づき、少女は被きの下でため息をついた。


 年若く、力の弱い聖女を侮る視線は、聖院時代には気づかなかったたぐいのものだ。本部に上がってから数年間、嫌悪とうっとうしさを感じる一方で、それらの視線におびえてもいた。


 だが、ここ数か月、おびえる気持ちは少し薄れてきている。それはアイセル自身すらも目をみはる変化であった。


 礼をとった祭司に、アイセルも目礼で返す。そして、彼女は重厚な扉の前で足を止めた。


 両開きの扉の前には、幾人かの人が立っている。そのうちの一人が振り向くと、先ほどの祭司よりも丁寧に、しかしわざとらしく礼をとった。祭司の衣の白い裾が、床の上を音もなく滑る。


「これは、アイセル猊下。おはようございます。早朝礼拝はお済ですか」

「……おはようございます、ユヌス祭司長。ええ、礼拝は今日も滞りなく終わりました」


 アイセルも、形だけの礼を取る。顔を隠す被きがいつもは疎ましいのだが、毎度このときだけは感謝する。相手の顔を見てしまったら、自分がどんな反応をしてしまうかわからないからだった。


 アイセルの言葉を聞いたユヌスの声が、穏やかに、かつ輝いた。しかしそれも表面上だけなのだと、若き聖女は知っている。


「素晴らしきことにございますな。今日も、猊下の祈りとお力が、聖都と世界に安らぎと繁栄をもたらすことでありましょう」


 言葉の端々、そして態度の裏からにじみ出る、軽蔑と嘲笑の気配。すぐにでも背を向けたくなる悪感情に、けれどアイセルは眉一つ動かさなかった。いちいち気を取られていてはきりがない。これから半刻ほど、この男と同じ部屋で会議に参加しなければならないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る