第120話 忘れ去られた伝説の

「まず、二人はどこまで知っているんだ?」


 別室から人数分の玉杯グラスを持ってきたシャハーブが、尋ねる。彼はそのまま三つに水を、一つに少し濁った飲み物――瓶を見る限りでは葡萄酒――を注ぎはじめた。


「え、えっと。これに書かれていることくらいは」


 答えたルーが、腰の袋から石板を取り出した。修行場で詩文を記録した、あの石板だ。フーリが心のこもっていない瞳でのぞきこみ、視線をそのままシャハーブに向ける。飲み物を注ぎ終わった彼は、玉杯グラスをそれぞれルーとフーリに手渡し、水の入ったものの残りひとつをイゼットの枕元に置いた。葡萄酒の入ったものを自分の手元で揺らしながら、石板を見にやってくる。


「ああ。アグニヤ氏族ジャーナの詩文というやつか」

「はい」

「クルク文字は読めるんだっけ」

「少しならな」


 白い子どもの淡白な問いに、これまた短く答えたシャハーブは、ルーの手から石板を預かった。ざっとそれに目を通すと、感心の声を上げる。


「へえ。思ったより残っているじゃないか」


 薄くほほ笑んだ青年は、ルーに石板を返す。それからイゼットの方へ体を向けた。


天上人アセマーニーがこの地上にいる経緯は、だいたいはアグニヤの言い伝えの通りだ。奴らが二派に分かれて争い、その戦争に使われた道具が地上に残った。その道具を壊すため、そして『反逆者』を追うため、天上人アセマーニーの一部が地上に下りた」


 その言葉は、フーリに聞かせるためのものでもあったのだろう。小さくうなずいた彼が、続きを引き取った。


「戦争に使われた道具は『地の呪物』と呼ばれる。その呪物を壊すために、僕たちは『天の呪物』を作り出した。それを持って地上に下りた者たちは〈使者ソルーシュ〉と呼ばれる。僕はこの地域を担当する〈使者ソルーシュ〉だ」


 イゼットは、思わずルーの方を見た。視線がかち合う。彼女も同じように戸惑っていることが、察せられた。


 なるほど、これまで断片的にのぞいてきた言い伝えの意味は、はっきりわかった。やはり天上人アセマーニーは実在していたのだ。聖教の記録に残っていた『白い人』『御使い』というのも、おそらく彼らのことなのだろう。しかし、これらがどう月輪の石に繋がってくるのか――イゼットが考えて、そして口に出そうとしていたとき。突然、その回答がフーリの口からもたらされた。


「聖教の象徴『月輪の石』と、イゼットの中に宿っている『浄化の月』はどちらも『天の呪物』だ。そして、呪物の中でも特別な性質を持つものだ」


 イゼットは目をみはる。言葉が出ないまま、しばらく固まった。その間に、フーリは淡々と続ける。


「正確に言えば、本体は『浄化の月』の方だ。石は、力の一部を溜めておく器だよ」

「ちょ……ちょっと待ってください!」


 ルーが顔の前に両手を広げて、ひっくり返った声を上げた。呆然自失のイゼットに代わって、というわけでもないだろう。彼女は頬をこわばらせ、額にじっとり汗をかいている。こんなルーは、あまり見たことがなかった。


 ルーは手を下ろして、フーリとシャハーブを順番に見た。


「それは……つまり、その……ど、どういうことですか?」


 どこか気の抜ける問い。しかし、誰もそれを笑わなかった。むしろ、イゼットなどはそれのおかげで冷静になれたくらいだった。枕に頭を預けたまま、不思議そうにしているフーリに目を向ける。


「そうだな。そこのところを細かく、順を追って話すべきだろう」


 疑問に答えたのは、フーリのむこう側にいたシャハーブだった。彼は葡萄酒を一口飲んだ後、優雅に両手を挙げる。


 そうして始まったのは、彼の『物語り』だった。


天上人アセマーニー同士の争いが終わり、地上の傷も癒えた頃。地上世界に追われ、『反逆者』と呼ばれることとなった一派が、突然大きな動きを見せた。彼らは自らの力でもって、ある土地に紫色の雲を生み出した。その雲に包まれた土地は、植物が枯れて、目に見えぬ毒素に満ちて、動物が次々と死に絶えた。そうして何者も住めぬ土地となり、『よどみの大地』ができあがった。『反逆者』は呪物を世界にばらまくだけでは飽き足らず、監視対象のこの世界そのものを、汚してしまうつもりのようなのだ」


 紫色の雲――と聞いて、イゼットとルーは同時に息をのんだ。どうしても思い出す光景がある。彼らの表情の変化をおもしろそうにながめやって、シャハーブはさらに続けた。


「『よどみの大地』は次々と増えていった。反逆者の行いを見過ごせなくなった天上人たちは、対策を講じることにする。〈使者ソルーシュ〉の一人に命じて、大地を浄化する呪物を作らせ、さらにそれを地上に持っていかせたのだ。この呪物は他の『天の呪物』より強力で、そして特殊な性質を持っていた。人間に、宿るのだ。人間の感情を糧として、浄化の力に変え、そして人間の手により行使されることが許された、唯一の呪物であった。あまたあるよどみの大地を浄化せねばならぬから、呪物単体の力だけでは足りず、それゆえに人間の心の力を借りることとなったのである」


 そうか――と。イゼットは声に出さずに呟いた。


 唐突に理解できた。できてしまった。それまで、感覚的にしかわかっていなかったことが、急速に言語化されて、彼の中に入りこんでくる。


 自分の『中』にあるのはそれだ。『これ』はそういうものなのだ。

 天上人の手で作られた、人に宿る、浄化の呪物。

 目の前に、光が差しこんできたような感覚があった。


 しかし。


「〈使者ソルーシュ〉はそれを『浄化の月』と名付け、人々に託した。そして『浄化の月』は人間たちによって長く受け継がれることになった。――ロクサーナ聖教が、この地で台頭するまではな」


 最後の最後で、語り部の声が急速に冷えた。


 イゼットとルーは顔を見合わせる。青年の物語りは一度途切れていた。二人がその後、彼の顔を見ると、うっすらとした笑みが返ってくる。


「ここまではよろしいか?」

「えーっと。『浄化の月』というものがあって、それは紫色の雲が出た場所をきれいにする呪物……」

「それが俺の中に、今宿っている、と……」


 しどろもどろに答えたルー。その言葉を引き取って、イゼットは己を指さした。シャハーブは、そのとおり、とばかりにうなずく。そして、再び語り出した。


「――そもそも、ロクサーナ聖教の始まりは、『浄化の月』が宿った娘を聖女として担ぎ上げたことだそうだ。それ以降、『浄化の月』および、その分身たる月輪の石は、聖女の間で受け継がれることとなった。この決まりができたために、『浄化の月』の在り方がゆがんでしまったのだ」

「在り方が……ゆがむ?」


 イゼットは、口の中で語り部の言葉を繰り返す。うまく説明できないが、嫌な予感がした。シャハーブは、彼の呟きを聞いたか否か、少し間をあけてから続けた。


「『浄化の月』の宿主が、女性でなければならないという決まりはない。宿主になるか否かは、その力を受け入れられるかどうか、という一点のみで決まる。それゆえに、この力と親和性がある巫覡シャマンが宿主となることは多いが、性別も年齢も関係しない。ましてや身分など、天上人や呪物からしてみれば関心を向けるにも価せぬものだ。そういう呪物の継承が、無理やり人間の価値観に当てはめられたことで、呪物は本来の力を発揮できなくなっていった。浄化の力がほとんど使えなくなり、製作者ですらその行方を追うことができなくなるほどに」


 息をのんだのは、誰だったか。イゼットには、わからない。彼は、シャハーブの話を聞くのに、必死だった。


「そうやって何百年かが過ぎた。そして今回、『浄化の月』はとうとう、人間の作った枠組みから外れ、元々は聖都から遠く離れた地に住んでいた、才能あふれる男児を宿主に選んだ――というわけだ」


 語りが終わる。今度こそ。


 イゼットも、ルーも、すぐには沈黙を破れない。


 月輪の石は本来、聖教の象徴などではなかった。

 聖女だけが受け継ぐものでもなかった。


 それどころか、人間の物ですらなかった。


 その事実は、彼らに重苦しい余韻と――少しの希望を与えるものだ。

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