第51話 炎の夜

※建物が燃える描写があります。ご注意ください。




 夜が最も深い刻。イゼットは静寂の中、唐突に目覚めた。


 今いるのが自分にあてがわれた部屋だということを確かめて、寝台から身を起こす。考えるより先に、いつもの上衣に袖を通し、槍を引き寄せていた。柄の感触がはっきりと手に刻まれた頃、眉をひそめる。


「なんだ……?」


 誰に向けたわけでもない疑問の声は、あっけなく闇夜にのまれた。

 変わらぬ暗さ。変わらぬ景色。変わらぬ静けさ。なのに、なにかがおかしい。昨年の継承の時とは違う、おぞましいものがまとわりついてくる。


 おぞましい。恐ろしい。どうしてそう思うのかわからない。だが、このままでは危険だということは、わかる。イゼットは、なるべく音を立てぬよう寝台を出た。扉に飛びつき、押し開こうとする。


 瞬間、自分のが警鐘を鳴らし。

 世界が、紅い光に包まれた。


 間を置かず、足元に衝撃が走り、それは地面を揺さぶった。

 イゼットは思わず目を細め、たたらを踏む。世界がぐるぐるとかき回されているかのように不確かだった。ほとばしった声が自分のものなのか誰かの悲鳴なのか、それすら判然としない。


 衝撃が収まって、世界がつかのま形を取り戻す。そのとき彼は、すぐさま足元を立て直して、駆け出していた。遅れてやってきた轟音の雨を背に受けながらも、ためらいなく扉を破り、部屋を飛び出す。


 正面の窓。その外、西南の方に光が見えた。――否、光ではなく、火。聖院の一部が、燃えている。


 それを認めると同時、彼は体の向きを変え、隣の部屋へと向かっていた。今、彼のなすべきことはただ一つ。思考が形を持つより早く、思いが言葉になるより早く。守るべき少女のもとへと駆け込んだ。


「アイセル様!」


 了承を得る間も惜しい。そう思いながらも、イゼットは短い時間、扉の前で動きを止めていた。少年を作法という呪縛から解き放ったのは、扉の先から聞こえる足音だ。我に返ったイゼットが扉を開いたとき、目の前には寝間着に長衣をまとっただけのアイセルがいた。こわばっていたであろう相貌が、明らかな安堵にゆるむ。目の端に涙がにじんだ。


「イゼット……よかった、無事だったあ……」

「私はなんともありません」


 そう、ほほ笑みをつくって返してから、彼は主人の安否を確かめる。アイセルもやんわりと笑った。


「私も大丈夫よ。驚いてしまっただけ」

「ご無事で何よりです」

「けれど……他のみんなは、大丈夫かしら」


 青ざめた顔が、赤く染まった窓に向く。イゼットは返す言葉を持たない。自身の中でも浮かんでいた懸念を、かぶりを振って追い払う。今はとにかく、アイセルを守り、そして状況を把握しなくてはいけない。


 いつもよりけたたましい鐘の音が聞こえる。緊急事態を告げる音。それはしかし、続く爆音にかき消された。紅蓮の中に、黄色が混じり、また飲み込まれる。

 二人は顔を見合わせた。恐怖ゆえの沈黙から先に立ち直ったのは、イゼットだった。槍を持ち直し、彼は小さな主人にあいている手を差し出した。


「緊急避難通路まで行きましょう。私がお連れします」

「わかりました。……お願いね」

「承りました」


 差し出された震える手を握り、イゼットは駆け出した。


 あけ放たれた扉を横目に、走る。あたりは夜とは思えないほど明るくなっていた。どこからか、誰かの怒号が聞こえる、気がする。二人が今いる棟は、いわば聖女・従士候補のための棟だ。許可された人間以外は立ち入れない。つまり、人気がほとんどない。


「誰も来ないのね」


 アイセルが後ろで呟いた。その声には不満や怒りではなく、憂いと恐怖があった。


「『現場』の対応に追われているのかもしれません。人に会うためにも、まずはこの棟を出ましょう。アイセル様は、私から離れないようにしてください」

「……うん」


 イゼットは、あえて思っているのと違うことを口にする。だが、隠しきれていなかったかもしれない。不安が伝染したかのように、互いを繋ぐ手に力がこもった。


 あかあかとした光は、少しずつ広がっているが、まだ小さい。今のところ、火の手があがっているのは聖院の入り口付近のようだ。後は、爆音の方角からして演習場か。イゼットは、騎士見習いたちが誰も演習場にいないことを祈った。


 ひたすらに走った、二人。その歩みがひととき止まったのは、はっきりとした人の声――「待て!」というような言葉――が小さいながらも響いたときだった。同じときに、人の声とは違う声を拾ったイゼットが、足を止めたのだ。


「精霊が……泣いている、の?」

 愕然としたアイセルの声が、イゼットの耳に届く。


 思わず精霊たちの声を拾おうとしたイゼットは、その中の一つをくみ取り目をみはった。同時に、内側のものが危険を告げる。予感と呼ぶには明瞭すぎるそれに従い、イゼットはアイセルの体を抱え上げて、前方へ跳んだ。


 悲鳴は、爆音と続く低音に打ち消される。崩れ落ちて瓦礫と化した壁は容赦なく通路に降り注ぎ、熱波が砂礫と煙とを運んできた。イゼットはアイセルの上に覆いかぶさるようにして、衝撃とつぶてをやり過ごすと、息を殺して走り出す。足もとはおぼつかなかったが、立ち込める砂ぼこりと熱の中から脱することはできた。しかし、炎の気配は近い。焦げた臭いがする。立ち上る黒煙が、はっきりと見える。急いで離れなければ危ないだろう。


「イ――」

「申し訳ありません、アイセル様。しばらく、このままで」

「う、うん。あの、ありがとう」


 震えるささやきに、イゼットは目礼だけで応じると走り出した。このあたりに燃えやすいものは多くない。それでも油断はできない。逃れられなくなる前にと、自身を引きずるように、あるいは転げるようにして、イゼットは前へと進んだ。


 やがて、緊急避難通路へ繋がる扉が見えた。揺れに耐えながら扉をくぐる。そこでアイセルを下ろしたイゼットは、取って返して扉に縋りついた。いつもの何倍もの力を出して重い扉を閉めた彼は、再びアイセルの手を取る。

 石段に差しかかると、ようやく静けさが戻った。とはいえ、なおも揺れが襲ってくる。お互いに転ばないよう支えながら、二人は石段を下りた。静まり返った地下道は、二人が並んでなんとか通れるほどの道幅だ。術によって生み出した、ほのかな光球だけを頼りに歩く。その間、二人は無言だった。


 言いようのない不安が頭をもたげる。何が起きているのか。皆は無事なのか。そればかりが頭の中を渦巻く。なにも背負っていなければ、がむしゃらに駆け出してしまっていただろう。しかし、そうはいかない。イゼットはもう聖女の従士だ。次期聖女をなんとしても守り通さなければいけないのだ。


 淡々とした道行に、少しの変化が表れる。足もとに傾斜ができて、地上の音がわずかに漏れ聞こえてきた。出口が近い。イゼットは唇を噛んだ。自分の手を握るアイセルの手に、力がこもるのを感じる。


 唾を飲み込み、喉を湿らせ、少しずつ足を速め、また遅くした。


 出口が見えると、イゼットが数歩先を行く。外の様子を覗き見て絶句しながらも、危険な気配がないことを確かめると、主人の手を引き外へ出た。出た先は、西の棟の外である。焦げたようなにおいと、鉄錆の臭気が立ち込める。顔面蒼白のアイセルが口元を両手で覆っているのを横目に、イゼットはあたりを見回した。


 砂地の上に人の姿はない。しかし、確かに漂ってくる臭いは人の血のものだ。近くで争いが起きている。どう動くのが適切なのか――すぐには判断できそうにない。


 不安がよぎる。かぶりを振ったイゼットは、小さな主人を顧みた。


「ひとまず、私が先導します。私の後ろについていてください」

「……わかりました」


 固い声で、それでも信頼を寄せて、アイセルがうなずいた。そして、とりあえず西門へ向かおうとしたとき、人の気配がした。槍を構えたイゼットはしかし、自分を呼ぶ声を聞いて目をみはる。

 門の方角から、騎士見習いの一人が走ってきていたのだ。手を振る彼を見、二人は安堵に表情をほころばせる。駆け寄ってきた騎士見習いに、イゼットは慎重に近づいた。


「イゼット、イゼットか!」

「そうだよ。何が起きてるんだ」

「俺も詳しいことはわからない。だけど、賊が侵入してきたって……」

「賊?」


 イゼットは思わず、驚きを張り付けたままの顔を主人に向けた。彼女も、大きな瞳をさらに大きくしている。アヤ・ルテ聖院に賊が侵入するなど、今までなかったことだ。ここの警備は聖都の検問以上に厳重で、部外者がやすやすと入りこめる場所ではない。


「警備にあたってた先輩たちは全員殺されちまったらしい」

「先輩たちが!?」

「そうなんだよ。信じられないけど……信じるしかなくなった」


 そう言い、騎士はうなだれる。彼が現場か遺体を見たのだと、それだけで察せられた。イゼットが黙りこんだ直後、騎士見習いは目をみはる。そこではじめてアイセルの存在に気づいたらしく、あたふたとひざまずいた後に、イゼットに向けて提案した。


「ええと、とにかく外に行こう! ほかの見習いたちや、ハヤルもそっちにいる」


 気安い先輩の名を聞くと、少し心が軽くなった。そうしよう、と答えかけたイゼットはしかし、棟の一階の窓に不自然な人影を見つけ、ひゅっと息をのんだ。

 人影は蛇のように、騎士見習いの背後へ迫る。


「――っ、後ろだ!」


 彼が叫んだときには、もう手遅れだった。


 赤い闇の中に光が走る。

 それを認めた次の瞬間、騎士見習いの頭と胴体が分かたれた。

 驚愕と戸惑いを表面に張り付けたまま飛ぶ頭を、イゼットは呆然と見つめるしかなかった。


 紅い雫を顔に浴びて、我に返る。とっさに半歩下がって主人をかばうと、右手の槍を突き出した。槍の穂先は空を切る。しかし、すぐそばを人の気配が通り過ぎた。


 黒い影が、砂地の上に降り立った。赤い血を浴びた黒衣は、炎の生み出す明かりがなければ夜の中に溶け込んでしまいそうだ。今は、黒衣の端のけばけばしい装飾がよく目立つ。


「さすがに厳選されただけはある。君は、ぼんくらな騎士見習いではないようだね」

「……何者だ」


 イゼットの誰何の声に、黒衣は答えなかった。いびつな笑い声が、燃え盛る聖院の端に響く。

 返答の代わりに、ゆがんだ一言が落とされた。


「ようやく見つけたよ」

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