第100話「宮本武蔵はすごいが佐々木小次郎だってすごい」

 此道二刀として太刀を二ツ持儀、左の手にさして心なし。太刀を片手にて取ならはせん為なり。片手にて持得、軍陳、馬上、沼川、細道、石原、人籠、かけはしり、若左に武道具持たる時、不如意に候へば、片手にて取なり。


 ――宮本武蔵『兵法三十五箇条』



 ***



 平成三十一年、夏。


 ――巌流島。


 長門と豊前との国境の海上にあるその島に、佐々木燕が現れた。

 佐々木燕は宮本武蔵女子高生(一般人が想定する二刀流剣豪が転生した女子高生・宮本伊織を指す言葉。)よりもずっと長い刀を用いた剣技を誇っており、武蔵の二刀流をもってしても討ち滅ぼすことは不可能に思われた。

 かつて――宮本武蔵は物干し竿と呼ばれる燕の太刀よりもさらに長い木戟を用意し、決闘に遅参する心理作戦さえも用いていた。

 だが――現在いま

 宮本伊織はそのような小細工は弄さず、約束の刻限通りに巌流島に姿を現した。

 波揺れを物ともせず、渡し舟に仁王立ちした伊織の両拳には、二天一流の名に相応しい本差と脇差と二刀が握られている。

 その顔に浮かぶは高揚か、あるいは――。


 ――伊織のあしうらに、舟底が浅瀬の砂を削る感触が伝わる。


 その瞬間、宮本伊織は舟から跳ぶように降り立ち、ざざっ――と波を蹴って砂浜に上陸すると、遂に生涯の敵と相対した。

「……」

 佐々木燕は伊織との決闘に臨んで、猩々緋の袖無し羽織に染革の立附袴たっつけばかまを着し、足許には草鞋くさわらじを履いている。

 その姿は、正まさしく慶長十七年四月一三日の佐々木小次郎の身装みなりと同一であった。


「――


 燕が先に口を開いた。

 伊織はその言葉に一瞬逡巡したが、海水の中に踏み止まったまま、いくぶん微笑ほほえみをもったおもてで、


「――


 と、いらえた。

 二人がお互いをその名で呼ぶのは、これが初めてのことであった。



 ***



「てっきり――試合には遅れるものと思ったけど」


 燕はいくらかかんばせを紅潮させているようだったが、その口辺には伊織と同様の微笑を蓄えている。

「――約束通り来たことは、褒めてあげるわ」

「卜伝部長にも言われたな――それ」

 伊織は苦笑した。どうも自分は、遅刻に関してはよほど信用がないらしい。

 こうして気安く話していると、これからこの友人と殺し合いをするのだということが、まるで嘘のように思われた。

 だが、伊織はふと真面目な表情になると、

「――この果たし合いは、この武蔵の生涯を賭した二刀流を以ってしてお前をたおす。

 貴様を友と思っての、せめてもの礼儀とでも思ってくれ」

 ――それが、最後の訣別の言葉であった。

「……」

 その言葉に、佐々木燕は、

「――光栄の極みね」

 そう一言いって、あとは何も言おうとはしなかった。


 ――潮風かぜが吹いた。


 その粘つく塩気に乗って、錆くさい血の匂いが鼻腔を刺す。

 果たし合いの前は、いつもする臭いだ。 殺気と殺気が混じり合い、とぐろを巻いて広がる。

 異様なまでの緊張が、豊前舟島の砂地を領していった。


 二天一流、宮本武蔵。

 巌流、佐々木小次郎。


『――――――――――――――ッ』


 次の瞬間、二人の剣豪はほぼ同時に抜刀していた。

 伊織の得物は――かつて宮本武蔵と吉岡一門との決闘で使用され、七十人余の血を屠ったとされる愛刀――無銘金重。

 南北朝時代、正宗十哲の一人にも数えられた名匠金重の手による業物であるが、そのなかごは長年の戦いで大磨上げに磨りあげられて銘が搔き消え、ゆえにこそ「無銘」と称せられる。

 伊織はその佩刀を、上段、中段、下段、左右の脇構えの五行いずれにも――

 一般人にく知られる宮本武蔵の肖像画のごとく、宮本伊織は本差、脇差ともに、力無く地面に下げていた。

 一見隙だらけにりながら、その実恐ろしきほどに隙無きかまえ


「――――有構無構うこうむこう


 燕が呟いた。

 それは、宮本武蔵二天一流の真髄とも云うべき、であった。

 その思想は柳生流に云う無形の位に酷似しているが、二刀によって両拳の束縛から解放された武蔵の剣は、柳生の剣法に弥増いやまして自在。

 完全な自由にありながら、然るに何ものにも動ぜぬ不動智。


 ――巌の身。


 しかしてそれに対峙する燕の得物は、切っ先から柄頭までおよそ三尺、細くしなやかに延びた長刀――備前長船長光。

 俗に“物干し竿”とも呼ばれる、佐々木小次郎を象徴する名刀であった。

 そのいささかもひずみの不在する直線的な抜身ぬきみからは、遣手の美しき肢体とも相乗して、ある種の妖艶ささえもが薫っていた。

 燕は背負われた鞘に手をかけ、おもむろに鞘を投げ棄てると、物干し竿の刀身をまっすぐ青眼に構えた。

 その行動に、伊織は目を瞠った。


 ――


 それは曾て、宮本武蔵自身が宿敵佐々木小次郎に告げたせりふであった。

 燕は投棄てた鞘には目もくれず、無言の儘伊織を見据える。

 その意図は明白。

「……」

 伊織は無言のまま、自らもまた燕と同じように鞘を投げ棄てた。

 それは――まさしく決死の覚悟。

 この両雄がこの決闘はたしあいに文字通り一命を賭すという誓約ちかいに他ならなかった。

「……」

「……」

 時は既に、巳の刻を廻っている。

 既に果たし合いは始まっているのだ。だが、両者は睨み合った儘、以前として塑像のように動かない。

 東側の波打際を前に立つ宮本伊織の背の彼方には、水平線を離れて光輝く日輪。

 またその光を何倍にも反射する重なり合う波の為、伊織の姿は、ぼう、と黒く滲む影法師のように見えた。

 西側の燕はその太陽を背にした伊織の、ちょうど細く長く延びた影の先端を踏む位置に立っていた。


「流石は、武蔵――」


 燕は満足げな表情を浮かべた。

 決闘に臨んで伊織の張った此の布陣。それはどこまでも、慶長十七年の豊前の舟島の故智に倣ったものであった。

「その昔――武蔵は」

 と、燕はまるで幼児おさなごに夢物語を聞かせるように語り始めた。

小次郎わたし西側この場所とどめるのに、それこそ全力をあげた――太陽のきらめく海を背に佐々木小次郎と相対することで、数分のうちに小次郎の眼を疲労さすべく、もまた、それと同じ地の利を活かした兵法を遣った――」

 謡うように――燕は伊織に「講義」をする。

「…………、………ッ」

 伊織の額に、脂汗が滲んだ。

「――――けど、

 物干し竿の剣尖から、カッと陽光が反射した。


「それでも宮本伊織は、!」


「――――――ッ」

 刹那――物干竿の切っ先が、中空に細絹を曳くがごとく伊織の真ッ向へと跳んで来た。

 まさに奇襲。

 燕にはその剣閃を、敵のまったく慮外の攻撃ものにするための奸計があった。


 ――影である。


 伊織が背に負う日輪が昇るにつれ、燕の踏む伊織の影は、徐々に短く縮こまっていく。

 燕はその影の変化による錯視を利用して、伊織との間境まざかいを僅かに詰めていたのだ。


 ――だがその奇襲を、


 伊織が燕の太刀筋を一寸の見切りでかわったその刹那――彼女は既に反撃に転じている。

 長太刀を振るい、遠心力の作り出す一瞬。

 剣と剣の拍子の間隙すきま

 長刀の間境の利を――伊織は詰める。


 (――――躱せぬ)


 そう悟った燕は、地の不利を物ともしない正確な太刀筋で伊織の無銘金重を迎え撃った。

 鉄と鉄。

 相摶つ金属音。

 だが、その刃音は激しい衝撃には在らず。

 意外にもかすかな金色ひびきでしかなかった。

「くッ――――‼」

 元来、日本刀は細く脆い。刀同士の激しい鍔迫り合いには向かない。

 ゆえに燕は、無銘金重に添えるように物干し竿を宛て、僅かにその軌道を変えたのみであった。

 受けるのではなく――流す。

 そうして流した伊織の太刀を、燕は小首をかしげるがごとく避けつつ。

 物干し竿はあたかも金重の頭身を軌条レールに辿るように――柄を握る伊織の両拳に襲い懸かった。


「――――ッァ」


 それを――弾いた。

 光が弾け、火花ほしが散る。

 そのくらみを物ともせず、跳ねあげられた長刀はすぐさま翻される。

 一足。

 伊織は後進しつつ、再度の斬撃を薙いだ。

 二閃、三閃。

 水面みなもを摶つ飛礫つぶての波紋のごとく、剣閃は絶え間なく刻まれる。

 それにつけても、陽光の不利にあるはずの佐々木燕の太刀捌きのなんと正確であることか。

 一説によれば、佐々木小次郎の師ともされる中条流・富田勢源の晩年は眼疾によって盲目の境遇にあったという。

 慶長十七年の小次郎を仮に武蔵と同年代とすれば、小次郎が勢源に弟子入りをした際には勢源は相当な老齢であったことになる。恐らく晩年の小次郎と出会った時には、勢源の眼は既に光を失っていたことだろう。


 ――ならば、佐々木小次郎の後身である佐々木燕に、陽光の利が通じぬのもた道理。


 佐々木小次郎はその刀を振るい始めた当初はじめから、常に師の心眼を見つづけてきたのだから。


「――――――――、――、――――――――‼」


 ――無念無想。

 それゆえの――無双。

 あるいは夢想の境地。

 ‪その剣技の――なんと美しいことか。

 宮本伊織の剣技が、荒れ狂う濁流に曝され猶も動じぬ巌の身とするならば。

 佐々木燕のそれは、其の巌をつ水の流れそのものであった。

 ゆえに――その存在ありかたは、まさしく巌流イワヲノナガレ


「――――――――がァっ!」


 斬る。斬る。――斬る。

 再度もつれあい、視線が交錯する。

 琥珀のに、透き通るほどに碧い翡翠ふたつが重なる。

 それもまた一瞬。

 それもまた束の間。

 命のやり取りだけが齎す高揚が。伊織のうちを満ちていく。

 生涯最高とも言える一撃を何度か繰り返したその果てに。

 正確無比に思われた佐々木燕の拍子に――ごく僅かな間隙が生じたのを伊織は見逃さなかった。

 その須臾しゅゆの間を縫うように――燕の死圏かこいに金重のやいばを差し挿れた刹那。

 全身の感覚ヒフが粟立った。


(――――斬られるッ)


 それは、ほとんど本能的な予感だった。

 初太刀は囮。本命は下段したから来る。

 避けるべきは背後か、横か――その思考ことばよりもはやく、伊織の身体は斜め前方へと跳んでいた。

 それは、生前の武蔵には決して為し得なかった、人理を超えた跳躍。

 女子高生の軽やかな肢体と宮本武蔵の強靭な脚力が組み合わさり、初めて可能となった躍動であった。

 砂塵が舞い、伊織は革袴の裾を僅かに斬られたのみで燕の後方へと着地すると、すぐさま身体を反転させて背後の敵に向き合った。

 だが、

「……」

「……」

 ――両雄、動かず。

 この一手をもって戦局は収束し、二人の剣豪は先刻と場所が入れ違いになって、伊織が西の砂浜側、燕が東の波打ち際にそれぞれ立って、再び砂浜に静止した。

「……、……」

 今しがたの戦闘によって乱れた呼吸を整えつつ、伊織は静かに口を開いた。

「今の、太刀筋は……」

「……」

「一心一刀――――か」

 ピクリと眉を動かした燕の顔は、どこか青褪めたように見えた。


 ――佐々木巌流『虎切り』は虎切こせつとも呼ばれ、佐々木小次郎の奥儀の一つとされる秘剣である。

 に通じ、即ち相手を摶つこと虎ノ尾のごとく、真っ向から斬り降ろす初太刀にてフェイントを仕掛け、下段からの斬り上げにより敵を制する。

 撃剣叢談巻之四に曰く――『此流(巌流)に一心一刀と云ふ事有り、是は大太刀を真向におがみ打ちする様に構て、つかつかと進み、敵の鼻先を目付にして矢庭に平地まで打込む也、打なりにかがみ居て、上より打処をかつぎ上げて勝つ也』

 一部の研究では、この『虎切り』こそが『燕返し』の正体ではないかともされている。それほどの秘剣であった。


「……ええ」

 燕は小さく頷いた。

「……少し、驚いた。まさかこの太刀筋を受けて、伊織あなたがまだ生きてそこに立っていられるなんてね……」

「……どういうことだ」

「簡単なことよ」

 そして燕は、フッと憂いを帯びた表情を浮かべて、

「だって前の果し合いでは、宮本伊織あなたはこの『虎切り』によって私に殺されたのだから――」

「――――――――!」

 伊織に一瞬、驚愕の色が浮かぶ。

「…………」

 だが、その衝撃はすぐに描き消える。

 そして伊織は、燕に向けて奇妙なまでに朗らかな微笑を浮かべた。

「――――なるほど、そういうことか」

 伊織は先刻の戦闘の一瞬に生じた直感の理由に、ようやく得心がいった。

「……なに、簡単なことだ。たとえ一度は通用したとしても、。たとえその記憶が失われようと、この身体は巌流オマエを憶えている、ということだ」

「――――」

 今度は燕の相貌に、雷に打たれたかのような衝撃が走った。

「…………………、……」

 いつのまにか燕の剣尖が、伊織の視線の先から垂れていた。

「…………そっか、憶えてるんだ……私との記憶が失われても、まだあなたの身体はの記憶を遺してる……」

「……」

 伊織の眉目に、戸惑いの色が浮かぶ。

 それは、燕がこの日初めて自分を伊織と呼んだことではなく――、

 燕がその名前を口にした表情に、伊織がこれまで見たこともない深い想いが籠められているのを見て取ったからであった。

「……燕」

 伊織はいま一度、燕に何かを言いかけた。

 だが、その伊織の言葉を遮るように、

「――――ならば、宮本武蔵を斃すのは、やはりこの秘剣以外にはあるまい」

 再び顔を上げた燕のオモテには、一瞬生じた迷いを打ち消すかのごとき強い決意が宿っていた。


 そして――佐々木燕は


「――――――」

 呼吸が、止まる。

 この奇妙な身構から繰り出される太刀筋が如何に恐るべきであるか、伊織は誰よりもそれを知っていた。

 それは――ヒトの身を超越した奇跡。

 この世の物理ことわりの埒外に位置する、不可避の魔剣。

 武蔵の二刀の太刀筋をも超えた、神速の三閃。


(――――――――『燕返し』)


 矢張り『虎切り』などは――『燕返し』では有り得なかった。

 佐々木小次郎の『燕返し』が――其様な尋常一様の生易しい技であるはずがない。

 そして。

 その秘剣を前にした伊織は――宮本武蔵は――、

 武者震いするほどの、昂奮を覚えていた。


「――光栄の、極みだ」


 ――――――沈黙。

 まるで二人の周辺から、大気のことごとくが消失したかのように――世界は音を失っていた。

 押し寄せ、引き寄せるさざなみだけが、唯一音を伴って燕の草鞋を濡らしていく。

 だがそれ以上に、伊織の額は脂汗によって酷く濡れていった。

 先ほどの立ち回りによって二人の位置関係が入れ替わったことで、今度は逆に伊織の方が斜めから落ちてくる陽光という地の不利に晒されることになったのだ。

 伊織は観の目つよく、見の目よわく働かせることで如何どうにか燕の姿を見極めんとしたが、この空白の時間が長引けば長引くほど、伊織にとって不利に働くことは間違いなかった。

 ゆえに――白日を浴びた伊織は、ピタとその一眼を閉じる。

 世界から光が消えて、静止した闇の中において頼みにできるものははただ――兵法家としての霊感それのみ。


 ――――――刹那。


『秘剣――――――――――――――』


 燕の掌から、一筋の光芒が漏れ出た。

 否、その光は別たれ、三つの剣閃へと実を結ぶ。

 一足一刀。

 ふたりだけの世界。

 だが――其処に具現するは遥かなる三千世界無限

 その小さな軌跡セカイに――無数あまたなる世界が「収束」する――――――――。


『――――――――――――――燕返し』


 過ぎ去りし一瞬。

 ふたつの影はまるで互いの身体を掻き抱くようにひとつに重なる。

 だが、その束の間の幻影ユメは霧へと散って。

 やがて一方の影から――血霧いのちが舞った。



 ***



(――なぜ――) 


 佐々木燕は、そう口にしようとした。

 だがその呟きは首許から、ひゅう、とか細く空気が漏れただけで声にさえならなかった。

 その燕の繊細かぼそい喉笛に、宮本伊織は小太刀を深々と突き立てていた。


 ――この場合、燕の敗因はふたつ。


 ひとつは、立ち位置の入れ替わったことで、波打ち際に立った燕が足場が悪くなり、燕返しの繊細な太刀筋に、僅かな狂いが生じたこと。

 そして、いまひとつは――、


「……お前は間違ってない。たとえその剣閃が完全でなかろうとも、その魔剣の太刀筋を避けることは宮本武蔵の見切りをもってしても不可能だった。

 ――――――だから、


 やや遅れ、伊織の肩から夥しい血が吹き上がる。

 だがもはや決死となった伊織は、その激痛に眉ひとつ動かさない。


「ただ人を殺すだけなら、片腕一本もあれば十分だからな」


 佐々木燕の足許には、巌流燕返しによって見事に切断された伊織の右腕めてが、だその佩刀をしっかと握り締めたまま転がっていた。


 ――此道二刀として太刀を二ツ持儀、


 まさにそれは、二天一流を遣う宮本武蔵のみにしかなしえない離れ業であった。

 燕の血泡の滲み出た唇が、幽かに動いた。


「――――――お見事」


 その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに燕の身体は力を失い、糸の切れた人形のように伊織の胸の中に倒れ込んだ。

「……」

 伊織はその身を抱くことも、その身を振り払うこともせず。

 ただ無言の儘相手の血に濡れて、燕が自己おのれの胸に埋れて死ぬことを、そっと受け容れていた。



 ***



(――死んだか)


 伊織は残った左腕で、断面から血を噴き出す太い動脈を探し当て、応急的な止血処理をしていた。

 燕は伊織の膝の上で、まるで眠りに落ちた赤子のように抱かれている。。

 ふたりの世界に存在するは、ただ蒼い海と、白い砂。

 その一点に、血緋ちあかく濡れた二身。

 燕の着込んだ猩々緋も、もはやその色を留めない。自分が全身に浴びているこの血のどこまでが自分の地で、どこまでが燕の返り血か、それさえ伊織には判断がつかなかった。

 ――ひどく、身体がふらついた。

 この肉体は以前の武蔵からだより多少無茶が効くようだったが、それにしてもあまりにも血を失いすぎた。

 浜辺を吹く蕭条たる風が、いやにその身に冷たい。

 だが、伊織が失ったのは果たしてそれだけであったか。

「……燕」

 伊織は力無き左手で燕の亡骸に手を伸ばし、長い黒髪を掻き分けて、その死顔をあらためる。

 ――綺麗な顔をしていた。

 だが、紛れもなく――死んでいた。


(なるほど。人とは、斬れば死ぬものであったな)


 ひどく、空虚な心持であった。

 伊織は自分がどんな顔をすべきなのかわからなくなっていた。

 燕が死ねば、きっと自分は悲しむだろうと伊織は思っていた。

 だが、いまこの手で燕を殺し、彼女の死顔を目にしても、伊織は何の感情も抱くことができなかった。

 彼女の生前の言葉が、表情が――何ひとつ思い出せないのだ。

 まるで、燕を斬ると同時に自分の感情こころまでも斬り捨ててしまったかのように――。


(――宮本伊織はこんな時、どんな気持ちになるのだろうか)


 そんな奇妙な自問といが、頭を掠める。

 そうだ。剣豪・宮本武蔵は佐々木燕と出会ったことで、初めて女子高生・宮本伊織になることができた。

 ならば、佐々木燕を失った自分は、もはや宮本伊織ではありえない。

 私は燕を斬ったあの瞬間、燕とともに、宮本伊織もまた葬り去ってしまったのだ。


(ならば今の自分は宮本伊織でも、宮本武蔵でさえもない――)


 此処にあるのはただ――ひとりのただの人殺しに他ならなかった。


 宮本武蔵は燕のほほを撫でながら、うわ言のように呟く。


「生涯のうち……二度と……こんな……」


 こんな。

 こんな――何であっただろうか?

 宮本伊織にとって佐々木燕とはいかなる存在だったのか――彼女はもはやそれさえも思い出すことができなかった。

 敵か――友か。


 そのような言葉でも言い尽くせない、かけがえのない存在を失ってしまったのではなかったのか。


「我、事に於いて後悔せず――――――――――されど」


 ――海は、黙して語らない。

 寄せては返し寄せては返す濤声だけが、もはや彼女の言葉に応える者がいないことを物語っていた。

 波騒なみざいは世の常である。

 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚ざこは歌い雑魚ざこは躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。


 だが――その時。

 いきなり長いレールガンをもった女子高生がやってきて、

 とにかくすごい攻撃で――佐々木燕を蘇生させた。


 ――だが、それでも。

 楽しかった日々の想い出は、二度と戻ることはなかった。

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