第35話 梅雨の夜は
雨の季節。6月。
どこからともなく聴こえてくる、カエルの鳴き声と、鮮やかな紫陽花。
静かな梅雨の夜は、雨音に耳を傾けるのも私の楽しみの1つ。
連日の雨を、皆さんはどのようにお過ごしでしょうか?
忙しい日々の中では気が付けない小さな喜びや、楽しみが、梅雨の中にはあるかもしれません。
一見すると、どんよりとした灰色の空や、鬱陶しいと思ってしまいがちな雨も。
ここに来れば、違う見方や感じ方が出来るかもしれません。
「ぽんすけ、ただいまっ。結構降ってきましたねぇ」
「本当に。あまり酷くなる前に帰って来られて良かったですね」
午後8時。
食堂のドアを開けて、待ち焦がれた様に尻尾を力一杯振るぽんすけが出迎えてくれました。
私は、雨に濡れたレインコートを脱いで傘をたたみ、「待っててくれてありがとう」と、ぽんすけの頭を撫でてやりました。
「佐野さんと美香さん、綺麗だったのよー」
キッチンで葉子さんがお茶を淹れながら、足元にやって来たぽんすけに言います。
今日はお二人の結婚式がありました。
「はい、どうぞ」
葉子さんが、温かいお茶を2つ、コトンと食堂のテーブルに置きました。
「ありがとうございます。ちょっと待っててくださいね」
私はそう言うと、キッチンに向かいました。
「わぁ!和菓子だ!作ったんですか?」
「えぇ、今夜にでも食べようと思って作っておいたんです。水無月って言うお菓子ですよ。京都では6月30日の夏越の祓という時期に食べるそうです」
6月は1年の折り返しですから、半年の穢れを祓って、残り半年の無病息災を願うものだそう。
真っ白な三角形のういろうの上に、甘く煮た小豆が乗ったもの。
1日の終わりに、温かいお茶と共に、優しく甘い水無月をいただくのも素敵ですね。
「美味しいー!良いですねぇ、この時間。ほっとします」
「ふふっ。喜んでいただけて嬉しいですよ」
ざーっと降っていた雨も、気がつけばシトシトとした音に変わっていました。
ぽんすけは、私の足元に丸まって目を瞑っています。
静かな食堂に柔らかな雨音が響いています。
「美香さんも佐野さんも、本当に幸せそうでしたねぇ。美香さん、ただでさえ美人なのにドレスで更にパワーアップしちゃって、佐野さんは感動し過ぎて大泣きするし。面白かったなぁ」
「ふふっ。そうですね。栗原さん達も感極まって泣いてらっしゃいましたし。とても素敵な結婚式でしたね」
穏やかな空気に包まれた、それはそれは幸せ一杯の結婚式を思い出しながら、水無月をひとくち。
ほんのり甘い余韻を口いっぱいに感じながら、温かいお茶を飲んで。
遠くから聞こえる、ケロケロという鳴き声も、楽しげな癒しの音楽に感じられます。
「あ。もうこんな時間」
時刻は午後9時30分。
「ささっとお風呂入って寝ちゃいましょうか」
「葉子さん、お先にどうぞ。ここの片付けは私がしますから」
私がそう言うと「すみませんっ。ありがとうございます!」と、食器を流しに持って行ってから、階段を掛け上がって行きました。
「ぽんすけも眠たいのね。ゆっくりおやすみなさい」
寝床となっているクッションに丸まるぽんすけをそっと撫でると、嬉しそうに目を細めました。
こんな穏やかな時が、ずっと続くと良いのに。
そんな事を考えながら、うとうととするぽんすけを眺めていました。
「ねぇ、明宏さん。私は今、とても幸せですよ」
縫い物をしていた手を止めて、部屋のテーブルに置いてある1枚の写真に声をかけました。
「葉子さんもとても面白い方で、それでいてとても一生懸命に私の食堂を手伝ってくださるの。お客様も皆さん本当に良い方ばかり。ぽんすけもね、とってもおりこうさんで可愛いんですよ。ふふっ」
思わず笑みが溢れてしまいます。
夫の隣には、愛娘と自分が幸せそうに微笑んでいます。
あの頃に戻りたい。
二人を亡くしてからは、そんな事ばかりを考えていました。
願っても叶うことの無い、虚しいばかりの思い。
「あの頃は本当に悲しかったし、今だって願いが叶うなら一緒に居たかった。でもね、食堂をやりはじめてから、本当に毎日が楽しいんですよ」
クツクツと、おいしいご飯の炊ける音
優しいお味噌の香り。
新鮮なお野菜。
お客様の笑顔と、自然に恵まれたこの土地と。
「私がそっちにいく時は、沢山の思い出話を持って帰るから。今はまだ、待っててくださいね 」
雨が止んだのでしょう。
窓から見える空には、月が浮かんでいます。
綺麗なお月様に照らされて、窓の雨粒がキラキラと輝いていました。
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