終章 彼岸

Soliloquizing

 リコリスは、無葉で開花する。

 葉が枯れてから開花するか、花が枯れてから葉が茂るかは種によるが、いずれにせよ、葉と花は、姿を現しては枯れるという一連の流れを交替して繰り返す。

 葉と花はいずれも、毎回新しく生え変わっているというわけだ。

 はたしてその一個体は、同一と言えるだろうか。一年のうちに交代する葉と花は同一と言えるとして、翌年の葉と花は、それらと同一のものと言えるだろうか。地中に隠れた同じ球根から生じているというだけで、目に見えているまったく別の新しいものを、同一と見なせるのだろうか。

 人の目には、ほとんど花しか映らないだろう。美しい花を伴わないのであれば、地味な葉はただの雑草に過ぎない。よくても、「美しい花の葉」としか思われない。それを愛でる人にとって、葉の存在意義は、花ありきなのだ。

 まるで、私たちのようだ。そのことに気づいてから、どれほどの時間が経ったのだろう。


 葉と花が同時に姿を見せる奇跡。私は今、それを目にしているのだろうか。



「残念ながら、それは違うと思うな」

 一面に、赤い花が揺れている。気味が悪いほどに鮮やかな赤の中で、少女が一人、佇んでいる。

「私は自分のことを、あなたが作り出した人格にすぎないと考えている。すなわち、私はあなたの一部でしかない。残念ながら、今期は花をつけることができなかったというわけだ。したがって私の存在は、奇跡なんかじゃない」

 葉が、花を枯らしてしまった。花茎を伸ばしている途中で。

 しかし、彼女と私は違う。私はどんなに足掻いても、変わることができなかった。彼女は、私が何ひとつ変えられないまま忘れてしまった、理想の自分だ。

 彼女が、小さく鼻を鳴らす。

「それではあなたの言う通り、私は花だとしよう。なぜだか、今期は葉をつけなかった。そうであれば間違いなく、その花が枯れてしまったらもう二度と、次の花は咲かないだろうね。それで果てるのも雅ではあるけれど、私たちはそんなに美しいものじゃないだろう。たとえそれが、あなたの望みであるとしても」

 彼女を包んでいた花が、まるでその言葉に従うかのように、音を立てて枯れる。妖艶な赤い花は、枯れてしまえば気味悪さしか残らない。

「私たちはきっと、この世界が存続するためのシステムでしかない。奇蹟を望まない人々のために、奇蹟によって作られたこの世界は、常に奇蹟の存在する外の世界に侵され続けている。だから奇蹟――この際、魔力と呼ぶべきかな。その存在を、誰かが否定し続けなければならない。それがこの世界を保ち続ける悲願である限り。それでも結局のところ、この世界とその創造主は奇蹟そのものだ。この矛盾を、人々は受け入れられるだろうか」

 受け入れられるはずがない。魔力、あるいは賢者の存在によって、どれほど私たちが虐げられてきたか、彼らは忘れてしまった。いや、知らないのだから。

「そう。だからあなたが、その誰かになるしかなかった。あなたは彼岸に至ることを望んでも、それが招くこの世界の結果を受け入れることができないから。そしてそうでありながら、この世界に価値を見出せなかったあなたは、長い年月を経て、別の自分を作ることに思い至った。そうして生まれた私は、誰の死も悼まない。それを招いたことも後悔しない。すべてを消し去ってでも、あなたを此岸から解放されるために生み出された存在が、私だから」

 私は、無意識にそれを望んでいたのだろうか。ミコトという存在を、別人格として認識できていたのだろうか。望んだ覚えはない。彼女に自分を殺してほしいなんて、願ったことはない。ミコトは、娘でもあるのだから。

 私はいったい、何を望んでいるのだろう。今はもう、分からない。



 自分の身体に触れてみる。不思議なことに、生きているような感覚がある。色素のない、すべてが真っ白な身体。やっと思い出した、自分の姿。それをミコトが見つめている。まるで、不思議な鏡のようだ。

「そんな印象的な容姿でも、千年経てば忘れるものなんだね。まあ千年も昔に、ガラスや鏡がそこら中にあるはずもないから、仕方がないけれど」

 ミコトは相変わらずの表情だ。口元だけは微笑んでいるが、その瞳は冷たい。

 これまで過ごした時間に比べればほんのわずかな間だが、私は間違いなく、ミコトと共に生きてきた。それなのに、彼女の真意も、奥底に秘めた思考も、何一つわからなかった。そして、ふと気づく。

 前の自分、つまりアニエスの死を明確に自覚するまで、私はエルピスとしての記憶を忘れていた。もしかしたら私は、まだ忘れることができるのかもしれない。それは叶わないと思っていた、私の望みではないのか。

 しかしそれでは、堂々巡りだ。

 ミコトは何を言ってるのだ、とでも言いたげに、また鼻を鳴らす。

「私は自分と、自分の好きな人間のために生きていたい。そしてそれを、すべての基準とすることにしている。殺人の善悪も揺らぐような良心は、とても信用できないからね。私はあなたが嫌いだし、この世界が消えてしまうのも困る。要するに私は、あなたの願いを叶えるつもりなど毛頭ない」

 ミコトはまっすぐこちらを向いて、歩み始める。足元の花々は彼女を避けるかのようにたわみ、さらさらと音を立てた。思考によって構築されているとは思えないほど、忠実な幻想。

「なぜ私が女神を否定したと思っているの? 奇蹟を起こすのは、神か悪魔だけで充分。人間は奇蹟を認知できるだけでいい。虚構だろうと幻想だろうと、信じたければ信じればいいし、信じられないならそれでいい。まあ私にとっては、神や悪魔への崇拝すら、馬鹿げて見えるけど。それでも人間が無能である世界ほど、平和な世界はないでしょう?」

 ミコトが目の前に立つ。こうして見ると、ほんとうに鏡の前に立っているような気分だ。この世界に君臨し続けた永劫に比べれば、たった一瞬にすぎない自分の姿。

「運命を決めるのは、自分自身でしかない。それが神や悪魔の所業だと崇めたいのなら、鏡像にでも祈りを捧げていればいい。だけど私は、神でも悪魔でもない」

 私の胸を、ミコトが指さす。

「あなたを縛っているのは、あなた自身じゃないの?」

 私を縛り続けた女神という幻想。それがもう、存在しないのであれば――。

 ミコトは不敵な笑みを浮かべる。

「あとはあなたが決めることだ」



 望み続けた忘却の川辺に、私は漸(ようや)く辿り着いた。


 やはり、私とミコトは全くの別人だ。そう願わざるを得ない。彼女は消え、私は赤い花に囲まれたまま佇んでいた。この場所は此岸か、それとも彼岸なのか。それすらどうでも良いと思える、美しい幻想。

 私が創らせてしまった世界の存在は、きっと間違いではなかったのだ。ミコトが生き続けたいと願う世界であるのなら、それこそが人々の希望になるはずだから。そしてそれは、彼女の母親としての、私の願いではなかったか。

 そのためならば、私はここで、あなたを待ち続けよう。

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