幕間

Reflection

 幸せな日常ほど、記憶から零れ落ちてしまうものらしい。どうして忘れていたのだろう。


 私が一度死ぬ直前の、誕生日のことだ。

 彼は私に、鏡をプレゼントしてくれた。当時は金属を磨いたものが一般的だったのだが、その鏡は当時珍しく、非常に高価なガラス製のものだった。錬金術師である彼の自作で、私は大喜びしたはずだ。

 姿見のように大きなものではなかったが、顔全体を映すには充分だった。私は子どものようにはしゃいで、しばらくその鏡を観察していた。そのうちふと、彼がこれを用意するために苦心したのではないかという不安がよぎる。

「手間がかかったでしょう? 仕事だって忙しいのに」

 鏡越しに見える彼の後ろ姿を見つめながら、恐る恐る尋ねてみる。彼は首を傾げた。

「面倒であることに変わりはないが、買うよりはましだな」

 どうしてそこまでして、鏡を選んだのだろう。そんなことを訊いたら怒られてしまいそうなので、鏡の中の彼を窺ってみる。彼は作業する手を止めず、何でもないことのように話し続ける。

「女っ気のない庶民には必要ないが、あんたはいちおう王家の人間だ。ぞんざいに扱ったら、あんたの母親に刺し殺されかねない。召使いがいるなら不要かもしれないが、この家で身なりを整えるには必要だろ? それに、あんたは自分の容姿のもの珍しさを自覚した方がいい」

 彼の言い方は突(つ)っ慳貪(けんどん)だが、そこに優しさが見え隠れする。私は彼のそんなところが大好きだった。

 なんだか可笑しくて笑いをこらえていると、彼が振り返った。鏡越しに目が合って、我慢できずに笑ってしまう。彼もほんのわずかに笑っていた。

 不愛想な彼が笑うことは少ないから、絶対に忘れないでおこうと思っていたのに。


 私が忘れようとしていたのは、エルピスという自分の存在だったのかもしれない。

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