77 霖雨の果て(3)

 ミコトにとって既視感というものは、雨上がりに現れる虹より親しく、時に猛威を振るう天災より恐ろしい。

 異常なまでに優れた記憶力のおかげで、体験したことのない記憶を自分の記憶と混同することもできず、明確に誰かの記憶と認識してしまう。しかしその誰かの姿は、いっこうに思い出すことができなかった。

 母でもない、祖母でもない。もっと昔、この数奇な連鎖が始まった当時の姿。それはきっと、エルピスという存在を認識し、自己と分離するための実像であるはずだ。

 それをやっと、思い出すことができた。


 彼女の記憶を、ミコトは正視する。


 彼女の姿を思い出せたとして、ミコトがエルピスではないことを、証明できるわけではない。姿が違うのは当然。エルピスという人格が形を成したところで、ただの気休めにしかならない。人格が別であったとして、ミコトの存在証明となることはないし、自分という存在の不確かさにも変わりはない。

 それでも構わないと思えた。誰かが求めてくれるのなら、もう迷うことはない。

 鋭い痛みが、思考のみが存在する無感覚を切り裂く。回想に基づいた、偽りの感覚さえも消し去ってゆく。

 この痛みを辿れば、彼の手に触れられる。



 彼女は小さく呻き、かすかに顔を歪める。テオがおろおろしていると、今度は彼女がテオの手を握った。その顔を覗き込むとわずかに微笑が戻っていて、テオは胸をなでおろす。しかしその表情には、ミコトらしくない怯えがちらついていた。それでもミコトは、必死に穏やかな笑みを浮かべようとする。

「テオは、すぐに気付いてくれるんだね」

 ミコトの変化に気づくのは、きっとテオだけではないだろう。エルピスの存在を知らずとも、ミコトと親しい者であれば誰だって気づくはずだ。ミコトはいつだって穏やかな微笑を絶やさないし、ちょっとしたことどころか、大したことがあっても狼狽えない。その心情をむやみに悟らせることはないし、平然と誤魔化して見せる。

 そうしてテオは気づく。ミコトの微笑は、このためにあったのだ。

「気づかないわけ、ない」

 テオはまだ、ミコトの本心を見たことがないのではないか。本当の彼女を、テオは欠片も理解していないのではないか。ミコトの本心に触れることができれば、彼女を留めることができないだろうか。

 それなのにテオは、微笑を絶やしたミコトすら、受け入れることができない。

 彼女は自分を守るために、自分を失いつつあるというのに。


 重苦しい沈黙を、打ちつける雨がかき消す。絶え間ない雨音が、テオの意識を現実に留めさせる。

「君のおかげで、私は大事なものを思い出すことができたみたいだ」

 ミコトはまた、窓越しに降る雨を見つめる。そこにいったい、何があるのだろう。

「大事なもの?」

 テオは何もしていない。この一瞬で、何を思い出したというのか。

「そう。君と、この雨のおかげ。私はきっと、君と出会うために生まれてきたんだ。独りよがりの悲願に霞んで忘れてしまった、かつての姿を思い出すために。そして、自分を認めるために」

 戸惑うテオを宥めるかのように、ミコトは笑って見せる。そうして両手で、彼の手を包み込む。

「私はもう大丈夫。追想に迷っても、きっと君が連れ戻してくれるから」

 ミコトはゆっくりと瞬きをする。そして突然眠くなったかのように、穏やかに瞼を閉じた。

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