76 霖雨の果て(2)

 テオは変わらず門扉の前で待っていた。その姿はまるで忠犬だ。ミコトは頬を緩める。

「お待たせ。雨が降りそうだから、早く行こうか」

 どうせ使わない傘が何本もあるのだから、二本くらい拝借すればよかったと、ミコトは後悔する。俄雨に見えるので、傘を買うほどではなさそうだ。雨宿りするとしたら、近くにあるのは図書館ぐらいか。

「本当に短かったんだね。大丈夫だった?」

「特に問題はなかったよ。まあ、二度と行かないわけでもないし」

 心にもないことを言ってしまったとミコトは思うが、嘘ではない。

 教授には息抜きしてくるようにと言われたものの、実はミコトもこの辺りの地理にはさほど明るくない。見どころがあるとも思えないが、行き先を考えるべく、ひとまず図書館で雨宿りすることにした。


 しばらくすると、本当に雨が降り始めた。ふたりは特に何をするでもなく、大きな窓越しに、驟雨しゅううを眺めていた。外が薄暗いおかげで、わずかにふたりの姿が反射している。

「ところでミコトは、軍から睨まれたりしてないの?」

 テオの素直な質問に、ミコトは苦笑いする。

「ひとまずは大丈夫だと思う。私には頼れる上司もいるからね」

 これは無論、教授のことではない。テオもそれは、わかっているように見えた。

「アイリたちはしばらく教授の家にいるみたいだけど、これからどうするつもりなんだろう。帝国も皇帝を諦めなきゃならないわけだし……」

 ミコトがすべき心配をテオが口にしていて、ミコトは思わず笑ってしまう。笑われたテオは、目を丸くした。わずかながら、不満そうだ。

「もういっそのこと、アイリが皇帝になればすべて解決するんだけどね。偽の血筋だと認識されているなら、今となってはむしろ丁度良いし、もともと数百年疑いをかけられつつも問題なく続いていた王室なんだから。どうせ皇帝は偶像でしかないんだし」

 ミコトが投げやりに言うと、テオは怪訝そうな顔をした。

「真面目に言ってる?」

「ふざけてはいないよ。……まあ、それについては私がどうこう言えることではないから。でもそれを気にするということは、テオは帝国に留まるつもりなんだね」

 そんなことは当然だとでも言いたげに、テオは瞬きする。

「それは……。国に戻っても、何もないから」

 さらりと悲しいことを言う。しかし彼だって、半端な覚悟で国を捨てたわけではないのだろう。妙なことを言ってしまったと、ミコトは少し後悔する。

 それを知ってか知らずか、テオはついと目を逸らした。彼は何か言おうとしているようなので、ミコトはしばらく黙って見つめる。

 しばらくして、テオは何かを決心したかのように、表情を引き締めた。

「……ぼくは、ミコトの護衛を続けようと思う」

 思ってもない言葉に、今度はミコトが目を丸くした。彼が自分の意思を述べるなんて珍しい。いや、むしろこれほどはっきり口にしたのは、初めてかもしれない。ミコトはわずかに動揺するが、もちろん、それを表に出すことはない。

「教授のもとを離れるってこと? ……いや、私は教授の近くにいるから、いずれにしても離れはしないね」

「まだ教授に相談してないから、ぼくが勝手に言ってるだけだけど……」

 もじもじと照れているのが微笑ましい。ミコトは目を細める。

「きっと教授は承諾してくれるよ。今後護衛が必要かどうかは置いといて、君がいてくれるのは助かるし、何より嬉しい。ありがとう」

 見ている方がいたたまれなくなるほどにテオが照れているので、ミコトは窓の外を眺める。そうしてふと気づく。

 エルピスの記憶では、たいてい雨が降っていた。雲の切れ間に細い光が差し、ここ数日ですっかり見慣れた場所に、途切れた虹が見えた。

 まだ消えていないのか。もしかするとこの雨は、あの奇跡めいた虹を留めさせるためにあるのかもしれない。

 そう思うと、何かの意図を感じてしまいそうになる。

「この雨は、いったい誰が、何を信じるために降るんだろう」

 ミコトは、ぽつりとつぶやく。

 断片的な記憶を繋ぐ雨は、まるで永遠に降り続いているかのようだ。それが彼女の情景なのか、実際に降っていたのかはわからないし、どちらでも構わない。しかしミコトは、雨が降るたび思い出すのだ。エルピスとしての自分が、誰かに抱いた希望を。

 うっすらとガラスに映るテオと、目が合った。


 今の自分は、誰に縋ろうとしている?



 テオは思わず、ミコトの手を握っていた。彼女の顔からは、血の気も微笑も消えている。その表情に、テオは息を呑む。

「ミコト、大丈夫?」

 大丈夫なはずがない。彼女がこれほどまでに取り乱す姿を、テオは見たことがない。そもそも、彼女は本当にミコトなのか。それすらも疑わしいというのに。

 彼女ははっとしてテオを見る。やけに戸惑った表情で、何度も瞬きを繰り返す。次第に落ち着きを取り戻しているようだが、微笑が失われたままのその表情に、テオは違和感を拭えない。

「あなたは、彼にそっくりだった」

 彼女はエルピスだ。ミコトではない。テオは瞬時に悟る。どうしてまた、突然現れたのか。

「彼? 誰の事?」

 テオは気味悪さで、無意識に彼女の手を放していた。

「そう、ずっと思っていた。彼女は思い出さないように努めていたけれど、私は彼女があなたを見るたびに、思い出さざるを得なかった」

 エルピスはいつかのように、譫言うわごとを続けていた。テオはそれも耳に入らず、ただひたすら、ミコトを案じていた。まだ彼女は呼び戻せるだろうか。どうすれば呼び戻せるだろうか。何に基づくこともできない打開策を、必死に考える。

 以前のように撃つことはできないが――。

 ちょうど良く転がっていた万年筆を、彼女の手の甲に突き刺す。

 

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