75 霖雨の果て

 帰省というのは、これほどまでに息のつまるものなのだろうか。

 これまでも心が安らぐことはなかったが、今回はわけが違う。屋敷の誰とも、顔を合わせたくないのだ。これも前々から、覚悟の上ではあった。というより、考えれば気が重くなるものの、些末なものとして深刻にとらえていなかったというのが正しい。

 しかし今に始まったことではない。ミコトは他人行儀に、玄関の呼び鈴を押してみる。父親が在宅であることは確認済みだ。くつろいでいるかはともかく、そこにずかずかと上がりこんでいく勇気はない。

 予想通り、エマが出た。彼女はミコトの髪が短くなったことにはひどく驚いたようだが、にこやかに迎えてくれた。おそらく少し前まで多忙であったはずだが、やつれたとか、疲れた顔をしているということもない。華のある女性という風貌に変化はなかった。それがまた、ミコトには皮肉に思われて仕方がない。

「おかえりなさい。呼び鈴なんて鳴らさず入って来ればよかったのに」

「合わせる顔がないというやつで。案外荒れていないようだからよかった」

 マグノリアを利用したのは、ミコトの独断だ。マグノリアの部屋に残っていたノートや書類などは、筆跡を似せて書き直したものとごっそりと入れ替え、貴重な遺品を処分した挙句、彼女を胡散臭い預言者にまで仕立て上げてしまった。どのように騒ぎ立てられたのかは大まかにしか聞いていないが、概ね予想通り。

 マグノリアを聖女のように称えた者は多く、彼女の墓は聖地と化したらしい。そんなものを信じない人間から見れば笑い話だが、計画した張本人としては複雑な気分だ。なぜなら、マグノリアは聖女に相応しいと思ったからこそ、ミコトは亡き姉を利用したからだ。死んでいるからいいか、という安直極まりない考えも否定できはしないが。

 ともかくオリヴァー家にそのような面倒を仕向けたのは、他ならぬミコトである。

「お父様もお待ちだったのよ。はやく上がって」

 どうして待っているのだ、と思いつつ、ミコトは何でもないような顔をして、食堂に入る。アイクは無表情に、姿勢を正して座っていた。ヒナタはその横で立っている。エマは気を遣ってか、奥に下がっていった。

 こういう時は何と言うべきか。考えをめぐらせていると、アイクがおもむろに口を開く。

「おかえり。今回はずいぶんと遠くに出ていたらしいな」

 なぜ彼がそんなことを知っているのかは不明だが、気にすべきことでもない。

「ええ、まあ……」

 彼はどこまで知っているのか。それがわからなければ、言葉の選びようもない。ちらりとヒナタを見る。が、彼は意地悪く目を逸らす。

「エマやヒナタから、だいたいのことは聞いている。君が仕組んだことも、君の母親のことも」

 ミコトはヒナタを睨みつけたくなるのを抑えて、話を促すことにした。

「と、仰いますと」

「言わなくたってわかるだろう。とにかく俺は、君の意図にも察しがついている。それについて咎めるつもりもない。マグノリアを利用したこともだ」

 アイクは照れているらしいが、笑うのはヒナタだけで十分だ。

 彼の口からマグノリアのことを言われると辛い。ミコトは軽く頭を下げる。

「それについては言い訳のしようもありません。陳謝します」

「そういうのはいい。咎めるつもりはないと言っただろ。俺が訊きたいのは、君の目的は果たせたのかということだ」

 相変わらず鋭い男だ。ヒナタが何もなしにすべてを明かしたわけでもないだろうし、エマやヒナタの動きに感づいただけでも賞賛に値する。ミコトに分別がなかったら、ここで拍手くらいして見せたかもしれない。

「はい。おかげさまで」

 実際のところ、例の計画が成功と言えるのか、ミコトにもわからない。しかしここでわかりませんなんて文句は、許されない気がした。

 アイクはそうか、と小さく呟いて、不意に立ち上がった。そのままゆっくりと近づいてくる。

「……ずっと一人で、抱え込んでいたのか?」

 アイクは目の前に立っている。彼がこれほどミコトに接近したことはない。ミコトはアイクに近づくのを避けていたし、きっと彼もそうだったのだろう。お互いにミコトの母親に関して後ろめたさがあるわけだが、仮にそんなものがなかったとしても、ふたりの距離は変わらなかったに違いない。そんな予感さえあるから、彼が自分に近づくだけで、ミコトは戸惑ってしまうのだ。

 見上げればすぐそこに顔があるのに、ミコトは彼の胸元ばかり見ている。

 一人で、なんて当然だ。いったい誰に頼れと言うのだ。ミコトを匿う連中がいたとして、彼らは皇帝に仕立て上げようとする人間でしかない。かといって、信頼できる人を危険にさらしたくはない。そして当然、信頼できない人間に自分のすべてを明かせるはずがない。一人で逃げるしかなかった。

 この屋敷の養子となったのは、より安全に、そして少しでも長く、綱渡りを続けるためだった。追手から逃れられなくなる前に、布石を打っておきたかった。マグノリアに誘われたのは、本当に都合がよかった。それだけだ。

 ミコトは後退る。咄嗟に、両手で耳をふさいだ。まだ降っていないはずの雨の音が、聞こえるような気がした。

 かたく瞼を閉じる。聞こえない、聞こえるはずがない。

「近寄らないで」

 ミコトは、アイクの顔を見るのが怖い。この至近距離で彼と目が合ったら、思い出してしまいそうで怖いのだ。自分のものではない、あの雨の日の記憶。頬を伝う雫の感覚さえも、明確に覚えている。それこそが、その記憶を知らない自分を、あるいは彼の娘である自分を、確実に蝕んでいた。

 ミコトの拒絶に、アイクは狼狽える様子もない。うつむいたミコトの頭に、軽く手を乗せる。

「君は、俺の娘だろう」

 それだけ言うと、用が済んだかのように食堂を出て行った。

 思わず耳から離してしまった両手をゆっくりと下ろし、ぼんやりとした視線をヒナタに移す。父親に子細を語った彼を咎めたい気分だったが、その気力もない。

 ヒナタは何も言わずに立ったままだ。しかし、多少は気まずそうに見えた。

 ミコトにとっては、この男と話をするのも些か複雑である。彼は母親であるアニエスと、あまりにも親しすぎた。その記憶から生じる敬遠を、彼の得体知れなさに隠してきたのだった。

「あなたは何者か。その答えは見つかったんですか?」

 ミコトは彼のことをよく知っている。自分が生まれるよりも、ずっと前から。

「まあね。俺は、父親になり損ねた男といったところかな」

 まさに言い得て妙。ミコトは苦笑する。

 彼は初めて出会った時にはすでに、ミコトがアニエスの娘であることに気づいていたはずなのだ。当時何も知らなかったミコトのことを、彼がどう思っていたのかと想像すると、少なからず腹立たしい。ヒナタを責める気にはならないが、それなりに責任はとってほしいものだと、ミコトはずっと思案していた。

 そしてミコトは、エマを利用するにあたって、ヒナタの協力は不可欠だと考えていた。何より敵に回すのは面倒だし、アイクを抑えるには最も効果的な人物だと思っていた。少し示唆してやればヒナタは必ず協力すると見て、彼も利用したのだ。

「まだ茶番を続けるのですか? あなたはフランク……リオと同じだったのでしょう?」

「茶番とはご挨拶だな。確かにアニエスの協力者ではあったが、俺はあそこまで狂信者じゃない。君が彼女の意思を継がないのであれば、俺はただ、お父上の秘書を続けていればいい」

「そうですね。父だって、あなたがいないと困るでしょうし。ご協力感謝致します」

 それだけわかれば充分だ。今のところ彼が障害になることはないとわかったところで、談笑する気にはなれない。ミコトは踵を返し、食堂を出ようとする。すると去り際に、ヒナタが声をかけた。

「君は、エルピスではないんだろう?」

 ヒナタはエルピスの存在を知っている。しかしアニエスの死は知らない。彼もまた、ミコトがエルピスでないことを信じていたいのだ。彼がアニエスの死を悟るのは、ミコトが消える時だから。

 ミコトは少し間を開けて振り返る。

「さあ、どうでしょう」


 世話になるつもりがないという意を示すために手ぶらで訪れたのだから、このまま出て行っても誰も困りはしないだろう。玄関を出たところでシエロを見つけ、抱き上げる。

「ノアが遺したものは、シエロだけになっちゃいそうだね」

 シエロの瞳は、マグノリアが期待していた通りの色だ。果てしなく澄んだ空の色。おそらく母猫と同じ、青色の瞳。

 シエロはミコトをじっと見つめ、ゆっくりと瞬きする。ミコトは軽く額を合わせてから、そっとシエロを下ろした。

「雨が降りそうだから、家に入りなよ」

 シエロが小さく鳴いて、ちょこんと座った。見送ってくれるようだ。

 ミコトはもう一度シエロを撫で、門扉に向かう。

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